【三題噺】白の悔恨
第十回マグネット三題噺コン参加作品。 お題は「糸」「輪ゴム」「パソコン」
ロンドン郊外のリッチモンドには、かつて、彼のお気に入りだったカフェがある。
長い間、週末の午後に差し掛かる頃、川縁の道を遡って散歩がてらにのんびりと、このカフェまで歩くのがこの男の日課だった。結婚してからは妻と一緒に。子どもが産まれてからは、ベビーカーを押しながら。そして、オリジナルブレンドの紅茶をゆったりと味わい、帰路につくのが常だった。
鬱蒼とした樹々の狭間にある細い道を抜けると突如開ける広い敷地は、植物園さながらの様々な植物が視界を彩る。ビジネスランチの付き合いで初めてここを訪れた際は、園芸ショップなのかと思ったほどだ。いや、それはそれで正しい。ここの植物は確かに商品だった。メインではないというだけで。
その広い庭を囲む、幾つも連なる温室のガラス内にも、南国風の大きな葉っぱが茂っている。だが、そのガラス天井には、錆て朽ちかけたような「カフェ」の看板が掛かっていたからだ。
乾いた土の感触を靴底に感じるまま、扉をくぐると蘭の香りがむせ返る。ガラス天井から落ちる眩しい陽射しに汗ばむほどだ。別世界に来たようだ、と辺りを見廻せば、「気分転換にもってこいだろ」、と誘ってくれた同僚が誇らしげに笑っていた。
ここで男は運命の赤い糸に結ばれた相手に出逢った。
男は意外にロマンチストで、そんな出逢いを信じていたのだ。
まだ通い出して間もない頃、カフェテーブルで持参のノートパソコンを開き、きょろきょろとコンセントを探していると、「この店にそんなものはないわよ」と、隣のテーブルからクスクスと笑われた。この温室内に沢山植えられているジャスミンの白い花のような、可憐で清楚な女だった。男はがらにもなくどぎまぎと心臓を高鳴らせ、パソコンを閉じた。
彼女にまた逢いたくて、この地区にフラットをみつけ、引っ越した。足蹴く通った。
甲斐あってこの店で逢うようになり、一年後に結婚した。
妻になった女は、オーガニックにこだわる料理好きで家庭的な女だった。友人と共同経営でネットショップを運営していたので、ほぼ一日中、家の中で過ごしていた。だから週末にはあのカフェで、夫と二人、遅めのランチを食べるのが、この妻のなによりの楽しみだった。
一年後、子どもが産まれた。
男の子だ。妻によく似た可愛らしい子だ。子どもは、性質も妻に似ていた。やんちゃ盛りの三つ、四つになっても、外で遊びまわるよりも室内で本を読む方を好む、内向的な子だった。男はそれが気に入らなかった。もっと外で遊ばせるようにと妻をしかった。妻は運営していた店の権利を友人に譲り、仕事を辞めた。
次に女の子が産まれた。
その頃には男は出世しより多忙になり、週末にあのカフェに通うこともなくなっていた。自室に籠ってパソコンに向かい、持ち帰った仕事に掛かり切りだ。
「たまには一緒に行かない?」
妻は男の背中に声を掛ける。
「あの店にコンセントがあれば行くのにね!」
男は笑って答えていた。
妻は一人でベビーカーを押し、男の子を連れて週末ごとの習慣を繰り返す。
それからまた数年が過ぎた頃、妻は唐突に男に告げた。
「離婚して欲しいの。他に好きな人ができたから」
男には、晴天の霹靂だ。妻の言っていることが理解できない。自分の何が悪かったのか、必死で尋ねる。毎日懸命に働いて、仕事を辞めてしまった妻を養い、何不自由ない暮らしをさせているではないか。
「私はずっと一人きりで孤独だった。寄添って生きていける人に出逢えたの」
妻は申し訳なさそうに睫毛を伏せる。
嫌われ、憎まれている訳ではないらしい。それならば、と男は口を開きかけたが、再度自分を見つめた妻の瞳に、何を言っても無駄なのだと、喉元まで出かかっていた懇願の数々は、足場も引っ掛かりも見つけることができないまま、滑り落ちていた。
妻と子どもの出て行った家は、静けさに満ちていた。
孤独というのは、こういうのを言うのだ。男には妻の言うことが全くもって理解できなかった。可愛い子どもに囲まれ、経済的な義務を背負うことなく、男の稼いできた金で好き勝手していたくせに。そのせいで、妻はあんな自分勝手な女になってしまったのだ。男は心の中で悪態をつき、ため息とともに泣き崩れたい思いを呑み下した。
空っぽの子ども部屋には置いていかれたおもちゃたちが、たくさん残っていた。床の上にはカラフルな色取り取りの輪ゴムが散乱している。男は床の上に腰を下ろし、その一つを摘まみ上げると指に引っ掻けて飛ばした。輪ゴムはひゅんと半開きのドアに当たり、ぽとりと落ちた。
――あの子はこれを幾つも繋げて綺麗な腕輪を作っていた。女の子のするような。それを妹の腕にはめてあげていた。
輪ゴムなんてこうやって遊ぶものなのに。
――妹はきゃっきゃと笑って喜んでいた。
男は、何度も、何度も輪ゴムを飛ばした。ドアに向けて。その向こうにいる誰かを狙ってでもいるように。何度も。
元の妻から電話があった。
生活が苦しいから、養育費を援助して欲しいと言う。自分を捨て、すでに再婚して久しいではないか。何を今さらと苛立ちながらも、数か月に一度の子どもの面会日すら守れていない良心の呵責から、男は彼女と再婚相手に会うことを承諾した。あのカフェで。
久々に川縁の道を歩いた。
汗ばむほどの早足で。初夏の川風に逆らい、男は歩く。時折川面を眺め、いつ見ても変わりのない、その緩やかな流れに不思議な安堵を感じながら、一人ぽっちで店に向かう。
この店に来るのも数年ぶりだ。
温室に掛かる錆びた看板を眺めて男は苦笑った。昔っから古ぼけていたから、時の流れが判らないな、と。
元の妻と一緒に、そして子どもと一緒に陣取っていた温室内のいつものテーブルではなく、中庭の樹々の裏手にあるガーデンテーブルが待ち合わせの場所だった。
妻だった女は、もう既に来ていた。彼女の横に、車椅子の老人がいた。七十は超えているだろうか。白髪の髪は薄く、顔には深い皺が刻まれている。その老人は、膝の上に男の娘をのせ、絵本を読んでやっていた。その反対隣には、男の息子が椅子を寄せて寄添い、熱心にその物語に聴き入っている。
男は女の名を呼んだ。彼女は立ち上がり、笑顔で彼を迎え、その老人を自分の夫だと誇らしげに紹介した。老人は微笑んで会釈をし、「もう少しで終わるからね」と、枯れ枝のような人差し指を立てて言った。
男は元の妻を別のテーブルに誘った。子どもたちに、金の話をするのを聞かれるのが嫌だったからだ。二人が話している間に老人は絵本を読み終え、楽し気に感想を語り合う子どもたちの話に熱心に耳を傾け、相槌を打っていた。男はその様子に、ほとんど女の話など上の空で見入っていた。
彼は年金暮らしで持病があり、生活が苦しい。でも私も子どもたちも幸せだ……。そんな話だったと思う。
聴く必要はなかった。男はもう理解できていた。
自分はただ、彼女も、子どもたちも、幸せにすることができなかっただけなのだ、と。
男は元の妻に援助を約束し、「これを子どもらにあげて」と、カラフルな輪ゴムで編んだ腕輪をあずけて、その場を後にした。




