【三題噺】黄金色の朝
マグネット! 第五回 三題噺コン参加作品転載。
お題は「満月」「ロマン」「泥」
あらすじ
死の床にある父親を看取る息子の胸中と飛来する想い。
綺麗な満月の夜だった。
十字架模様のステンドグラスが小さく中央にはめ込まれた窓越しに、空を見ていた。雲ひとつない澄み切った空のはずなのに、月が明かる過ぎて星が見えない。月に負けないきらきらしい星々が、そこには在るはずなのに。
部屋の中の空気は澱んでいて息苦しい。染みついて取れない汗と排泄物、老人特有の饐えた臭いにはもう慣れたけれど。
じっとりとした重さと粘りのある空気が軋む。ベッドの上の父のせいで。もう自分の腕を持ち上げることすら出来ないのに。未だ獣のような声をあげ続けるから。狂暴な性そのままの地を這うような醜い声を。
いくらうちはご近所から離れていると言っても、これでは鎧戸も、窓も開ける訳にはいかない。迷惑だもの。皆さん、分かって下さっているとは言え。
眉間に深く皺を刻んだ、苦痛に歪む父の面に噴き出ている玉の汗を拭ってやった。
「お水を飲みますか? お父さん」
答えられないと知っていて声を掛けた。父に出来るのはもう、獣となってうなることだけだ。全く、どこからこの声が出るのだろう? まだまだそれだけの体力が残っているということか。
水が欲しいでしょう? 欲しいのでしょう?
心の中で繰り返し、月光の差し込む窓辺に戻った。ステンドグラスの白い十字架が見下ろすたもとへ。
好きなことを見つけ、その道をひたすらに歩み続ける。それこそがロマンであり、真の幸福を得る道だと、人は言う。
父は正にその道を歩んだ人だ。誰にはばかることなく己の選んだ道を生きた。そのことを今更どうこう言うつもりはない。
「偉大な父でした」
きっと、僕はじきに迎えることになる父の葬式で、頭を垂れてそう言うのだろう。僕は父とは違うから。僕は世間体も気になれば、好意的に接してくれる他人の同情が疎ましいなどと夢にも思うことはない、そんな小心な人間だから。
うめき声が、ゼイゼイとした喉を掠るような息遣いに変わった。瞼が持ち上がっている。蒼白く濁った瞳がくるくると動き回っている。
この眼はもう僕を映さない。
「苦しいですか? お父さん」
煌々と差し込む月の光に照らされる、濡れたように光る瞳が、僕を見た。
跳ねるように立ち上がっていた。弾みで倒れた派手な椅子の音に、びくりと身体が痙攣する。
「まだ生きているのか?」
乾ききった唇から明確に発せられた、父のしゃがれ声。
鳥肌が立っていた。膝ががくがくと震える。力の入らない気弱な身体を支えて、白い塗料が剥げかかっている窓枠に手をついた。ペキペキ、ポロポロと、捲れあがった塗料が粉々になって、じっとりと汗ばんでいた掌に貼り付いた。
僕は父から目を逸らし、窓枠にもたれて反対の手で、その白く乾いたペンキの欠片を剥がし落とした。
時折、恐る恐る父を盗み見ても、それきり父の眼の焦点が合うことはなかった。ただくるくると眼球が動くだけで。空気を擦り続ける呼吸音だけが、父は、まだ生きている、と告げている。
蒼く冷たく降り注いでいた月光が黄金色の陽光に追いやられ、薄らと沸き立つ朝霞に庭の緑が萌える頃、父はこと切れた。
鎧戸を開け、大きく窓を開き、ひんやりと肌を刺激する早朝の冷気をようやく部屋に招き入れた。
長い間、僕は泥の中で息をしてきた。声を殺して喘ぐように。雨上がりのぬかるみの中に這いつくばるようにして。僕を踏みつけて歩み続けた父が、その足元を汚すことなく少しでも歩き易いように。
いつの間にか、泥にまみれ、泥そのものになっていたことに気づきもせずに。びしゃびしゃと飛び散る汚泥に溶けて千切れて混ざり込んだまま。灼熱の陽射しに晒され父の足跡を刻み付けたまま乾き、ころころと変わる天気に、またぬかるみと化すがまま。
初めて思い切り音を立てて新鮮な空気を吸い込んだ。何度も、何度も。腕を高く上げ、白んでゆく空に顔を向けて。
そして、朝陽の中で歪んだまま固まった父の顔を眺めながら、僕は紅茶を淹れた。
初めて自分のために。
父に殺され続けてきた僕の感覚が、徐々に息を吹き返す。
初めて紅茶に香しさを感じ、喉を通り抜ける熱に、長い間失っていた体温を思い出す。
爽やかな風が吹き抜け、柔らかな芳香が漂う、なんという幸福な朝の始まり。




