第2話「人の舌打ち」
翌日。
いつものように夜中に目を覚ました俺は、トイレで用を足し家を出た。そしていつものようにタバコに火をつける。
当然の事ながら昨夜の出来事が頭をよぎる。
通りすがりの猫に「舌打ち」された 。などと誰にも言えない。
「以前からおかしいおかしいと思っていたが、とうとう本当にオカシクなったんだねキミは」と言われかねない。
だが今の俺は少し複雑な気分でいた。
現実とは思えない事象に遭遇したという事もあるが、それとは別に、俺は「舌打ち」というものに対して思うところが多々ある。トラウマと言ってもいい。
「舌打ち」の音を文字で書こうとすると、「チッ」とか「チェッ」などと書いてしまうのだが、実際の発音は微妙にニュアンスが違う。
たぶん「ツェッ!」とか「ツァッ!」の方が近いと思う。
まあそんなことはどうでもいいのだが。
「舌打ち」というのは、人を不快にさせる行為の中でもトップクラスの残虐性を持っている。
あの音を耳にして神経を逆撫でされない者はまずいないだろう。
明らかに敵意に満ちた攻撃性をもって発せられているにも関わらず、それを咎め立てすることはヒジョーーに難しい。
例えば、誰かに「舌打ち」されたことに逆上して、
「テメー、いま舌打ちしやがったろ!」と相手の胸ぐらを掴み暴行を加えてしまった場合、100%暴行した側が罰せられる。
たとえ「舌打ち」側に非があったとしても、「舌打ち」を罰する法律があるとは思えないし、もし仮にあったとしても、「舌打ち」と傷害事件との因果関係や、それが本当に「舌打ち」であったかどうかなど、裁判上で証明するのは、まあ無理だ。
相手に分かるように「舌打ち」をする輩は、その辺をよく心得ているからたちが悪い。
俺はかつての職場で、そのての人間から「舌打ち」のターゲットにされた経験がある。
どこの世界に行っても、自分とは馬の会わない人間というのは必ずいる。特に俺のような他人とコミュニケーションを取るのが極端に苦手なタイプは、ほとんどの人間と馬が会わない。
そうなるとその中に一定の割合で、剥き出しの敵意をこちらに向けてくる人間がいる。
俺はそういう人たちと頻繁に遭遇する。
そういう時俺は、その人たちを極力刺激しないように、ひっそりと息をひそめてやり過ごそうとするのだが、相手にとってはそれがまた気に入らないらしい。
「あいつ、オレのこと無視しやがった」、「あの人なんか感じわるーい、キモー」などと思うのだろう。
まったく困ったもんだ。
俺はただそういう人たちと関わりたくないだけだから、無理に会話したり、目を合わせたりしないのだ。
無論、悪気はない。なのにそういう人たちに限って、悪戯に俺を攻撃しようとしてくる。
勿論いきなり殴りかかってきたりはしないが、なんやかんやチョッカイを出してくる。
「どうでもいいからほっといてくれ!俺に構うな!」と叫びたくもなるが、そういうわけにもいかない。
大抵の嫌がらせや嫌みなどには耐性が出来ているのだが、どうやっても抗体が作られない事柄が幾つかある。
その内の一つが「舌打ち」だ。
その「舌打ち」攻撃を臆面もなく仕掛けてくる人物が、かつての職場にいたのだ。
元々、彼との関係はそんなに悪いものではなかったはずなのだが、ある日何らかのきっかけで、彼が攻撃に転じた。
彼は分かりやすい嫌がらせなどをするタイプではなかった。むしろ表面上は友好的な態度を崩さない。
がしかし、仕事中に俺が彼の近くに行ったりすれ違ったりすると、あの「舌打ち」の音が聞こえるようになった。
「舌打ち」に敏感な俺は、すぐに彼が俺を攻撃し始めた事を確信した。
「またか・・・」
幾度となく繰り返された絶望と落胆。
本当にこの世は、俺にとって生きにくい世界だ。
今でもふとした時に彼のことを思い出す。
「舌打ち」が得意な彼は、職場の中である意味リーダー的存在だった。みな彼には逆らえない、そんな雰囲気があった。恥ずかしげもなく彼にゴマを擦り取り入ろうとするお調子者もいた。
だから彼が俺に「舌打ち」攻撃をしている時も、周りの連中はこの世に「舌打ち」というものが存在している事すら知らないフリをして、淡々と仕事をこなし続ける。
それが彼をさらに増長させ、「舌打ち」攻撃は日に日にエスカレートしていった。
この時の仕事は流れ作業的なものだっ為、彼のすぐ隣で長時間作業せざるを得ない場面もままあった。
そんな時の状況がどんなものであったか、思い出したくもないが、つい思い出してしまう。
「チッ!・・・チッ!・・・チッ!・・・」
時計かお前は?!
と突っ込みたくなるほど定期的に打ってくるかと思えば、
「ツェッ!・・・ツァッ!」などと音色を変えてみたり、
「チーッ、ツァッ!・・・チェーッ、ツォッ!チッチキチーのチェッ、チェッ、チェッ!」
などとリズムやテンポにバリエーションを付け、更に気持ちが高ぶってくると、
「チ、チ、チ、チ、チェ、チェ、チェ、チェ、アチョーッ!!」
などとロックスター張りにシャウトする。
一番盛り上がる所で転調したのも俺は聞き逃していない!
あとは作業が終わるまでリフレイン、リフレイン!!
・・・?!・・・
過去の地獄のような思い出を妄想していた時、突如それは起きた。
デジャ・ヴュだ。
目の前に猫がいた。