失われたアル記憶
『鬼の子』シリーズ、第2作目!
〜それは・・、
記憶すら、飲み干したのか?〜
日常生活の中で、誰にでも起こり得そうな、サスペンスホラー。その時、あなたなら、どうする?
キラキラと輝く光たち。
その光は、どれを見ても一層明るく、輝き放っている。まるで、見ている者を吸い寄せるように、誘惑してくるのだ。真っ暗な夜空に、光輝いている星たち。いや、星空に見えただけだった。そこは、ネオン街。今夜もこの立ち並ぶ飲み屋街に、人々は集まってくる。光の一つ一つが、人の心を見透かし、誘い出すのだ。それは、あたかも夢幻のように・・・・・。
ここはその一画にある、とある店。並べられた黒いテーブルがある。
騒ぐ人々の声が拡がり、薄暗い店の中を幾つもの影が行き交っている。キラキラした光と、幻のように不確かな情景。現実なのか、夢なのかさえ、ままならぬ、薄い膜の中に包まれたように見えている。冷えきったグラスに、泡状のモノを含んだ液体が注がれていく。アルコールのようだ。やがて、その液体がグラスから溢れ出し、こぼれていく。人々の笑い声が飛び交い、辺りに流れる音楽と同調する。それらはもう、耳から聞こえてくるのか、直接頭の中に染み込んでくるのかさえ、分からなくなっていた。
この、とある店の中を、ワインレッドのワンピースを着た、背の高めな女性がフラフラと人の合間を縫って歩いていく。と、突然、椅子の足に引っかかり、転んでしまった。かなり酔っ払っているようだ。同じように酔っている周りの人たちは、あまり気にした様子がなかった。
女性の名前は、松下 綾美。45歳。とにかく、アルコールが大好きで、飲み会こそ唯一の楽しみに生きていた。
「あいたたた〜。」
と言いながら、スッくと立ち上がり、とりあえず膝あたりの汚れをはたいている。そこへ、さりげなく綾美の側へ歩み寄った男性がいた。男の名前は、木下 真也。30歳。黒髪で清楚な印象の彼は、優しい言葉をかける。
「大丈夫ですか?」
綾美も、何度か頷きながら、最後にワンピースの裾をパンパンとはたくと、片手を挙げて応えた。
「大丈夫よ。ありがとう。」
そう言い終わると、また歩きはじめる。その側にあった豪華なソファに、体格の大きな男が座っていた。名前は、山上 安廣。56歳。この男も、アルコールが大好きで、人生の楽しみといえば、飲み会ぐらいなものだった。今夜も、アルコールをたくさん飲んだ様子で、上機嫌に大声で笑っていた。ちょうど、その横をまだ、おぼつかない足取りの綾美が通りかかった時、山上は慣れた手つきで、彼女のお尻を触ったのだ。触った手を慌てて払いのけ、怒る綾美の顔を見て、また楽しむのだった。その山上の横のソファには、男女が座っていた。この二人も酔いの中のようで、周囲の目もはばからず、キスを交わしていた。男の名前は、小田 翔平。23歳。まだ若い彼は、オシャレな服装をし、現代風の雰囲気を匂わせていた。女のほうの名前は、峰 夏妃。20歳。ショートの髪と、細すぎるほどのスタイルで、短いタイトスカートからは白い足が覗かせていた。この他にも、飲み会を楽しんでいる人々がいたようだが、この中の空間全体が、薄暗さと相まって、まるでアルコールそのものに浸っているかのように、怪しい雰囲気すら漂わせていた。
綾美は、まるで体が宙に浮いたかのように、思い通りに動かない足を何とか運んで、目的地として目指していたトイレにやっと辿り着いたのだ。そこで、トイレの中から入れ替わりに出てきた男性がいた。名前は、有松 良和。40歳。眼鏡をかけ、細身の小柄だったが、エリートそうな風格をもっていた。この男を見て、綾美は確かに、
「課長!」
と言った。どうやら、職場の上役のようだ。この有松もまた、綾美の姿を見て、心配そうに声を掛けた。
「大丈夫? また、飲み過ぎなんじゃないの?」
綾美は、やや遠慮そうに片手を挙げて、遮るようにして、答える。
「大丈夫です。」
綾美は、そのままトイレに入って行った。トイレの中は、外の音や声を遮断し、静まりかえっていた。やっとの思いで、便座に座り込んだ綾美は、目を閉じ、ぐるぐると頭の中が揺れているのを感じた。今夜も飲み過ぎたせいかな。眠いし、体がダルいし、思考回路がまともに働かない。吐き気こそなかったものの、このまま酔いに任せて、眠ってしまいたい気分だった。その時、トイレのドアをしきりに叩く者があった。
「綾美〜! 大丈夫⁈」
その言葉から、どうやら知り合いのようだ。繰り返し叩くドアの音と、綾美を呼ぶ声に、返答せざるを得なかった。
「大丈夫よ〜、心配しなくても。」
できるだけ平静を装って答えたつもりだったが、その口調は快活に欠け、滑舌も悪く、声量ばかりが張り上げて聞こえた。渾身の力を込めて立ち上がり、何とかトイレから顔を出すと、待っていたのは仲の良い、今倉 友美だった。年齢は綾美と同じ45歳。小柄で色白の彼女は、実年齢よりも若く見えた。友美はすぐに、綾美の体を支える。
「本当に、大丈夫?」
二人は、いつも一緒にいる友人であり、会社の同僚だった。周りから見ても、いつも姉妹のように連れ添い、助け合う間柄なのだ。プライベートでは、二人だけで飲みに行く事もあった。綾美のほうは、まだ独身だったが、友美は優しい夫がいて、幸せな家庭を築いていた。
今の綾美の脳の中は、ゆらゆらと揺れるアルコールの貯水池みたいに、溢れかえっている。体に力も入らない。もう、友美の支えがなければ、立っている事も困難なようだ。トイレを出て、再び賑やかな場所へと戻ってくるが、友美の肩に抱え上げられながら、何とか歩いている綾美は、既に顔は下へと項垂れていた。それから、やっとのことで、椅子へと座らせられる。そんな時、突然携帯電話のコールが鳴りはじめた。
「あ、・・・私の携帯が。」
そう言って、綾美が反応し、携帯電話に出ようとする。だが、上手く手が言う事を効かず、携帯電話を取り落としてしまった。床を探し回ろうと試みたが、段々とどちらが床なのか天井なのかも分からなくなり、電源が切れたように、暗闇へと落ちていった。
・・・・・ピピピピピ。・・・ピピピピピ。何の音?
深い闇の淵の底にいた。まるで、絶対にここから這い出す事のできない闇のようだった。
・・ピピピピピ。電話の音?瞼が重くて開かない。また、それ以上に身体が重くて、何かに押さえつけられている感じだった。
・・・ピピピピピ。誰か代わりに、電話に出て。心の中で、そう願ったが、叶わなかった。鳴り続ける電話の音に、出たいという思いよりも、早く音を消したい、と思った。
松下 綾美は、鉛のように重く、硬い身体を何とか起き上がらせた。と、起き上がったのも束の間、今度は激しい頭痛に襲われた。頭を押さえ、抱え込む。
・・ピピピピピ。鳴り続ける電話。片手は頭を押さえたまま、更に奮起し、もう片方の手で辺りを探索する。両目を交互にしぼませながら、開眼を試みた。
・・・ピピピピピ。まだ視覚的状況は把握する事ができなかったが、とにかく、電話の音がするほうへ片手を伸ばしていった。側の台の上に、携帯電話らしき物が手に触れ、それを掴んだ。
・・・ピピピピピ。急いで、しっかりと手に取ってみると、間違いなく携帯電話だと分かった。
・・・ピピピピピ。とにかく、電話に出てみる。
「・・・・はい? もしもし?」
・・・・プー、プー、プー。切れた。間に合わなかった。その残念感と、再び頭痛が襲ってきた為、手に取った携帯電話を目の前に放った。そして両手で、頭を押さえる。綾美は、そのまま動こうとしなかった。ただ、誰からの電話だったのだろう、と微かに疑問だけが残った。だがすぐに、静まり返った、頭痛だけの空間を再び、賑やかに携帯電話が鳴り響いた。
・・・ピピピピピ。・・・ピピピピピ。その音は、更に頭痛を助長した。誰なのか。先程とは違い、すぐ側に携帯電話を放ったので、比較的容易に探し当てる事ができた。すぐに、電話に出る。
「・・はい、もしもし?」
すると、電話の向こうから、明らかに怒っている声で怒鳴られた。
「もしもしじゃない! 何時だと思っているんだ! もう仕事は始まっているぞ!」
その聞き覚えのある声と、その内容に、綾美は、ハッとして身体中の血が逆流するのを感じた。重たい頭の中にも、電流が走った感触だった。そう!これは、課長の声だ。そして、仕事が始まっている、と激昂している。ヤバイ! 本当に、ヤバイ!頭の中は、頭痛から大パニックへと切り替わった。
「⁉︎ え⁉︎ あ、は?・・・」
声も上手く出せず、返答にならなかった。電話の相手は、綾美が冷静になるのを待ってはくれない。続けて、雷が落ちた。
「遅刻だぞ‼︎ 早く来い‼︎」
綾美はもう、その怒鳴り声を少しでも鎮める事に精一杯な返答しかできなかった。
「あ、はい。わかりました・・。」
電話は切られた。再度、その辺に携帯電話を手放すと、突然の怒鳴り声から、とりあえず解放された安堵感と、それとともに膨らんでいく現状への疑問感を抱いて、その場に俯せた。
静かな時の中で、グルグルと思考が駆け巡る。何で? 何が? どういう事? 全く分からなかった。ただ唯一、分かった状況といえば、今日は出勤日で、綾美は遅刻している、という事。
「ヤバイ‼︎」
ガバッと上体を起き上がらせ、大声で叫んだ。頭痛も忘れ、神経が研ぎ澄まされ、両目も開いて、しっかりと視覚的情報も得られた。辺りは、うっすらと明るい程度で、その光は窓側であろう所から、カーテンの隙間から漏れていた。と、新たな危機的状況に気がついた。何かが、おかしい。辺りを見渡す。え? あれ? ここ・・・・。
「えっーーーーーーーー‼︎」
綾美は、張り裂けんばかりの声で、驚嘆した。
ここ、私の部屋じゃない! え? 何で? ここは、ドコ? 今まで休んでいたベッドから跳ね起きて、立ち上がった。再び、部屋中を見渡す。綾美の部屋のベッドは、シングルサイズのパイプベッドで、紺色の地味な感じの布団であるはずだったのだが・・・・。今、目の前にあるベッドは、明らかに、それとは違っていた。クィーンサイズほどもある大きなベッドで、黒いレザー調の素材に、シルクのベッドカバーとシーツが静かな水面のように佇んでいた。
確かに、綾美は今まで、ここに寝ていた事を再確認していた。明らかに、自分のベッドではない。ベッドだけではなく、見れば見るほど、部屋自体も違っていた。綾美の住んでいる寝室は、こんなに広くない。壁も、インテリアも違う。
そして、綾美自身、一番驚いたのが、今の自分の姿が、下着だけしか身につけていなかった事だ。いつも寝る時、ダークブルーのルームウェアを上下着ている。着忘れるなんて事はないはずだ。下着姿の自分に驚きと、恥ずかしさで、隠そうともしてみたが、それよりも直ぐに綾美は思いついて、すぐさまベッドサイドにあった、ゴミ箱の中を確認した。不安がよぎった、そのゴミ箱は、空っぽで何もなかった。一瞬安堵が得られる。
綾美は、今のところの情報によると、ここはホテルだと推測した。それは、ほぼ間違っていないだろう。だとするならば、記憶のない自分自身の昨夜の行動に、色々不安があり、その不安の一つが、このホテルという場所であるが故に、一夜の過ち、またその行為があったのか否かの痕跡を確かめる必要があった。しかし、ゴミ箱の中には、何の痕跡もなく、失態がなかったであろう確率が高まり安心したとともに、改めて根本的な疑問に対する結論には、何も至らず、振り出しに戻った感じだった。
考えを整理していく。綾美は、ここでの記憶が全くない。それどころか、ここに、どうやって来たのかさえ覚えていない。推測できる事は、綾美は昨夜、アルコールに酔っ払っていて、その後誰かと、このホテルに来たか、無理矢理連れて来られたか。どちらの場合だったとしても、ホテルでの性的行為はなかったであろう確率が高まった事実は確認できた。
次にやるべき事柄として、綾美は、自分自身の衣服を探した。すぐに、ワインレッドのワンピースを見つける。確かに昨日の夜、これを着ていた事は覚えている。それは今、黒いソファに掛けるようにして置いてあった。こんな所に? 私が自分で脱いで、ここに置いたのかしら? それとも・・・。
ワンピースを身に付けながら、突然、綾美は別の恐怖に襲われた。何を思ったのか、急に警戒し、素早い動きへと変わる。スッとしゃがみ込んで、ベッド下を覗き確認した後、シャワールームへと移動した。明かりは消えたままで、静まり返っている。ドアを開けて、シャワールームを見てみるが、誰もいなかった。綾美が今更、思いついた事は、もし誰かに連れて来られたなら、あるいは同伴でホテルに来た人物があるならば、この一室のどこかにいるのではないかと推測したからだ。しかし、その思惑は当たらなかった。トイレまでも確認してみたが、綾美以外、誰もいなかった。再び、ベッドの所に戻ってきて、腰掛けた。肩の力が抜ける。
「どういう事?」
独り言を呟いた。頭を項垂れて抱え込む。とにかく、昨夜からの事を思い出す必要があった。
その記憶は、朧気であったが、まるでジグソーパズルを一つ一つ当てはめていくかのように、徐々に思い出していく。
昨日は、・・・・・・。綾美は記憶を回想していく。
そう。私は、このワインレッドのワンピースを着て出掛けた。19時に、友人の友美と駅前で待ち合わせしていた。約束通り友美と合流し、『居酒屋エンプティ』に向かう。私が働いている職場の部署の人たちが集まり、飲み会だった日だ。友美は親友であり、また同僚でもあった。少し遅れて到着した私達は、職場の同僚たちに挨拶して、ジョッキの生ビールを注文して、乾杯した。それから、食事しながら、みんなで会話などして・・。確か記憶では、私は4か、5杯目の生ビールを飲んだ後、トイレに行った。特に、問題なく、トイレから戻った私は、また生ビールを飲みながら、色んな人たちと会話した。かなり、楽しく騒いでいたのを覚えている。その後、ワインを飲んで、確かハイボールも飲んだ記憶がある。それから、・・・・・。
この後の記憶が思い出せない。
綾美は、ベッドに寝転がっている携帯電話を手に取った。時間は、午前9時46分。職場に急いで行かなければならない事を思い出し、バッグの中に携帯電話を直すと、ホテルの一室から飛び出した。
出た途端、高級そうな絨毯が敷かれた長い廊下が左右に走っており、綾美は、どちらが出口なのか戸惑う。そして、すぐに壁に表示してあった『エレベーターへ』の案内を見つけて、そちらへ走り出した。やっぱり、ここは綾美の家ではないし、しかも来た事もないような高級ホテルだという事を確信する。
エレベーターの前に着くと、昇降ボタンをカチカチと、しつこく押した。エレベーターを待つ時間すら待ち長く感じる。表示は、8階。綾美は今、自分自身が8階の位置にいる事を知った。エレベーターの扉が開くと、そそくさと乗り込み、1階へのボタンを選んだ後、また執拗に「閉」ボタンを何度か押した。見渡すと、エレベーター内はほとんど鏡張りになっていた。その鏡に映った自分自身を見て、愕然とする。乱れた髪、化粧をしていない顔はやつれていて、最悪だった。着ているワンピースもよれて見える。こんな姿で、外に出たくない、と思った。溜息をついた後、呆れるしかない。
あっという間に、1階に到着し、エレベーターが開いた。そこは、大理石でできた床に、3階の高さほどの天井が広がり、見事な石柱が並んでいた。綾美は、すぐにフロントを探し、そこへ駆け寄る。フロントには、ピリッとオールバックの髪で整え、高級そうなスーツに身を包んだ受付らしき男性が一人いた。綾美は、恥ずかしい姿の自分を隠したい気持ちで、あたふたしながら話しかけた。
「あの、・・チェックアウトを・・・。」
受付の男は、怪しみながら綾美を睨んだが、
「少々、お待ちください。」
と太い声で答えた。受付の男は、何やらパソコン画面で確認している。待たされている間、綾美は自分の直しようもない髪をかきあげてみたり、周りを気にして振り返ってみたりした。すぐに受付の男が声をかけてくる。
「お客様。宜しいですよ。代金はお支払い済みです。」
その返答に、綾美は驚いて尋ねる。
「え? 誰が? 私の他に誰が? 払ってくれたのは誰なんですか?」
受付の男は、少し困った顔になった。
「申し訳ございません。それ以外は、わたくしどもは把握しておりません。お客様の個人情報には関わっておりませんので。」
そう言われて、諦めるしかない綾美は、納得できないまま、フロントを後にした。大きな入り口ドアを出ると、そこはまた、大理石のタイルが敷き詰められた広いエントランスになっていた。その向かい側は駐車スペースになっており、ベンツやレクサスなどの高級車が並んで停まっている。
綾美は、その光景と今の現状に混乱しそうになったが、急がなければならない状況を思い出して、目の前にいたタクシーに乗り込んだ。呼吸を整えるのも束の間、タクシー運転手に、ミラー越しに話しかけられる。
「お客さん、どちらまで?」
綾美は、少し呼吸を落ち着かせてから、
「2丁目のコンシェントビルまで。」
と依頼した。
「了解しました。」
と運転手は受け賜わり、タクシーが走り出した。綾美は、タクシーの窓から離れていくホテルを眺めていた。まるで、お城のようなホテルだ。さっきまで自分自身がいたなんて信じられなかった。でも、何故どうやって、このホテルにいたのか?
ホテルの敷地を出た後、タクシーは木々に囲まれた山道を降っていく。どうやら、あのホテルは山の中にあった事が分かった。
綾美は今朝起きて、いつの間にか、全く知らない場所にいて、謎だらけの出来事の連続に、不安と恐怖すら感じていたが、やっとタクシーに乗り、このまま慣れた職場に戻れるという事に、安心を感じた。ふぅ、と浅い溜息をついて、タクシーの座席に沈み込む。
ふと綾美はまた、自己嫌悪に陥りそうになった。この45年間、このような、他人から見れば、だらしないと思われる生き方をしてきたのだ。そろそろ自分の家庭を作りたいと思い、7年程前から婚活を頑張ってきたが、簡単にはいかずに、ズルズルと今日を迎えていた。
「どうせ私は結婚には向いてないのよ。」
と言うのが、決めゼリフだ。
それから30分程、山道を降っていくと、街並みに出てきた。そこはもう、綾美の知っている風景で、やや混み合う車の渋滞を進んでいく。そこから、ほどなくしてタクシーが路上に停車し、綾美は降りた。
ここは、綾美が勤めている会社があるビルだ。間違いない。戻って来れた。見上げるほどの高いビル。いつも通勤しているビルだが、こんなにも懐かしく思った事は一度もない。綾美は、このビルのワンフロアにある、『ディーアンドエース』という商社に勤めている。その会社は、全国にもたくさん支社があり、多くの社員が勤めている一流企業だ。綾美は、すぐにビルの中に入り、エレベーターに乗り込んだ。会社に着てくるには、場違いなワンピース姿だったが、更衣室で制服に着替えればいいし、今は一旦家に戻って着替えてくる時間などないのだ。化粧だって、今から簡単にやればいい。
いつものように更衣室で、いつもの制服に着替えて、トイレの鏡で化粧を施した。髪は、水で簡単に整える。決して、バッチリとは言えないが、これで職場ぐらいには行けるはずだ。準備のできた綾美は、深呼吸した後、よし!と心の中で気合いを入れてから、所属部署の入り口へと入って行った。
入り口に入るなり、同じ部署の女性スタッフと危うくぶつかりそうになったが、何とか回避して挨拶した。
「おはよう〜!」
何でもないような態度で挨拶する綾美に、驚いた顔で、その女性スタッフは立ちすくんでいたが、綾美は気にせず、社内の奥へと進んでいく。また別の男性スタッフと出会い、軽快に挨拶していく。
「おはよう〜!」
動揺しながら、挨拶を返す男性スタッフ。
「あ、ああ。おはよう。」
その直後にすれ違った女性スタッフにも、挨拶した。
「おはよう〜!」
その女性スタッフも、呆気にとられていた。
「お、おはようございます。」
綾美は、揺らぐ事なく、そのまま社内を突き進んでいく。挨拶の声は、快活だった。
その後、黒髪で清楚な印象の木下 真也と出会う。綾美は、すぐに挨拶した。
「おはよう!お坊っちゃん!」
戸惑い、驚いた表情で、真也が声をかけた。
「おはよう、って、どうしたんですか? 綾美さん。」
その質問に、まるで興味ないように、綾美は片手を挙げて、真也を振り切った。
「詳しい話は、また後でね〜。」
更に、歩き進んでいく綾美。すると今度は、親友の今倉 友美とバッタリ出くわした。すぐに心配そうに、寄り添ってくる友美。
「綾美〜。あんた今日、どうしたのよ〜。」
友美をなだめるように、落ち着かせようと努めた。
「友美。待ってて。後でね。」
まだ心配そうな表情をしている友美を後にし、綾美は先を急いだ。そう。綾美が、まっしぐらに目指している先は、課長のデスクだった。とにかく、少しでも早く課長のもとに行き、今日の出来事について、説明する必要があった。かくして、課長の有松 良和は、自分のデスクで書類に目を通していたところだ。綾美が、そのデスクの前に立つ。一気に緊張の空気が漂いはじめた。
「おはようございます!」
凛として、挨拶した綾美に気が付き、課長の有松が手を止め、鋭い視線で睨みつけてきた。
「おはようございます、じゃないだろ!今何時だと思っているんだ⁈」
綾美は、少し気まずそうな顔をして、それから、壁にかけてある時計をチラリと確認した。
「えっと、・・11時21分、です。」
その返答に、また有松課長が怒りを露わにした。
「そんな事を聞いてるんじゃない‼︎ふざけるな!」
どうやら、火に油を注いでしまったようだ。課長のデスクの前に立たされ、小さくなる綾美。有松課長の詰問は続いた。
「君は今日、仕事だと分かっていたのか?」
「え、ええ。まあ。おそらく・・・。」
「おそらく⁉︎」
綾美は、これ以上、火山を噴火させるつもりはないのだが。
「おそらくというのは、記憶がないんです。昨日の夜の途中から。」
「記憶がない? どういう事だ?」
有松課長は、不信な表情をした。
「昨晩、飲み会があった後、酔っ払っていた私は、その後の事を覚えてないんです。今朝も、課長から電話を頂いた時、自宅ではなく、知らないホテルに寝ていました。」
綾美は、再び不安な事を思い出しながら、話した。課長は、険しい顔つきになる。
「君はまた、ふざけてるのかね? そんな言い訳が私に通用すると思うかね?」
「いや、本当なんです。確かに、覚えてないほど、アルコールを飲んだ私が悪いんですが・・・・。でも、私にも不思議すぎて、全く覚えてないし、知らないうちに、ホテルに寝ていたなんて・・・。」
綾美は、不思議な話を理解してもらおうと必死に訴えた。有松課長は、呆れた表情をして答える。
「君の酒癖の悪さは、前から噂でよく聞いてるよ。アルコールを飲みすぎて、他部署の課長に失礼な事を言ったり、休みの日は昼間から飲んだくれてる事もあるらしいじゃないか。」
「いえ、それは、・・。」
綾美は、慌てて言い返そうとしたが、全く受け入れてもらえなかった。
「どうせ昨日の夜も、さんざん酔っ払った挙句に、知らない男とホテルにでも泊まって寝坊しただけなんだろ。」
綾美は、ショックを隠せないでいた。
「そんな、・・・。ヒドイ。」
俯く綾美に、追い打ちをかけるように、有松課長が叱責する。
「どうせ昨日の夜も、知らない男と飲んでいたんだろ。」
その言葉に、ハッとした。綾美の中で、信じられない疑問が湧いたのだ。
「え? 課長。昨日の夜、知らない男と、って・・・。私は、昨日の夜、この部署の飲み会に参加してましたけど。」
そう説明する綾美に、有松課長は益々、眉間に皺を寄せて、首を傾げた。
「は? 君は、どこまで嘘をつくのかね? 昨日の夜? 部署の飲み会なんて、なかったよ。」
綾美は、自分の耳を疑った。話が噛み合わない。課長は今確かに、昨日の夜、飲み会なんてなかった、と言った。
「え? なかった、って。でも私、実際に参加したんですけど。」
「あのなあ。君は、どこまで嘘つくのかね。それとも、まだ酔いが残っているのかね。」
有松課長は、鋭い目つきになって、言い放った。
「嘘じゃありません。本当です。それに、有松課長とも飲み会で会ったじゃないですか⁉︎」
綾美は、食い下がり弁解をする。有松課長は、驚いた顔をした。
「はぁ⁈ この私も飲み会にいた、って? 行くわけないじゃないか!昨日は、仕事を終わらせて、まっすぐ家に帰ったよ。息子の誕生日だったんだ。」
「そんなはずありません。昨日の夜ですよ。しっかり思い出してください! ほら、飲み会で私が酔っ払い、フラフラしながらトイレに行って、その時、課長がトイレから出てきて、私に話かけてきたじゃないですか⁉︎」
「君は何を言ってるんだ‼︎ 私は家に、まっすぐ帰った。嘘をつくなら、もっとマシな嘘をつきなさい!」
有松課長は、激怒に変わった。
「嘘じゃないです!」
綾美が必死に訴えたが、あとはもう、聞き入れてもらえなかった。
「君の今日の遅刻については、また考えておくからな。」
有松課長は、そう言い終えると、もう話はない、とばかりに仕事をし始めた。
仕方なく、その場を離れる綾美。納得いかないまま、まるで、夢の中のような感覚に襲われた。肩の力を落とし、自分のデスクに向かう。どういう事? 課長が昨日の飲み会を覚えてないなんて・・・。軽度の認知症かしら? いや、それとも私が夢をみていたの? 綾美は、何が何だか分からなくなっていた。
課長も言っていた通り、確かにアルコールが大好きだ。仕事がオフの日には、昼間からアルコールを飲んで過ごす事もあるし、夜、外へ飲みに出かけた時には、そのほとんどが途中から記憶がない事も、よくあったのだ。しかし、今回のように、飲みに行ったはずの相手が覚えてない、なんて事は初めてだった。綾美は、深刻な表情で考えながら、何度も自分を落ち着けようと試みた。だが、頭の中の記憶は曖昧だった。
その時、綾美は、ふと何かを思いつき、社内を走り出した。向かった先は、先程会って話を交わした、友人の友美の所だった。そうだ!飲み会には、友美もいた。一番仲の良い、友美に確認すれば、覚えているはず。そう考えた綾美は、必死に友美を探し回った。友美は、本人のデスクにはいない。どこに行ったのかしら。すぐ横のデスクにいた女性スタッフに尋ねた。
「あの、友美は? 友美は、どこに行ったの?」
焦る綾美の、強引にみえる質問に、その女性スタッフは、やや圧倒されていた。
「今倉さんなら、確か経理課に用があると行きましたけど。」
「あ、ありがとう。」
軽くお礼を告げながら、綾美はもう走り出していた。部署を出て、廊下をひた走る。目指すは経理課。その廊下を走り終え、勢いよく右に曲がったところで、ドンッと激しく、人にぶつかってしまった。綾美は、転がり倒れて、ぶつかった相手はややポッチャリと太った男性だったので、よろめいただけだった。綾美は、すぐに起き上がり、相手の男性へ謝罪する。
「あ、すいません・・。」
見ると、その相手は、部長であった。すぐに、お叱りの言葉を受ける。
「廊下を走ると、危ないだろ!」
「すいません。急いでいたので・・。」
部長は、呆れた顔で去っていった。綾美も、再び小走りにエレベーターに乗り込む。普段、運動不足な綾美は、息切れしていた。ほどなくして、エレベーターが到着し、扉が開こうとする、その隙間から両手で搔きわけるようにして、出ていった。すぐに経理課に辿り着くと、そこでバッタリ、今倉 友美と出会う。
「友美〜・・。」
綾美は、何とか、そう一言だけ言うと、友美の体にしがみついた。突然の事に、今倉 友美は驚いた表情をする。
「ちょっと、どうしたのよ、綾美。」
息切れしながら、必死に呼吸を整える。
「・・探したよ、友美。・・・やっと会えた。」
友美は、よく状況が分からず、苦笑いしながら、綾美に言う。
「さっき会ったじゃない。ところで、課長は何て? 大丈夫だったの?」
心配してくれる友美に、まだ呼吸が整わない綾美は、食い下がるように、尋ねた。
「ねえ、友美。あなたに聞きたい事があるのよ。昨日の夜、私と飲んだわよね?」
友美が、不思議そうな顔をした後、頭の中で考え直している様子だった。
「昨日? ・・・いいえ。私は昨日、飲みに行ってないわよ。だって、昨日は、母がいる病院へ行っていたもの。最近、認知症が酷くて。」
「そんな・・⁉︎ 何かの間違いよ!それ、一日違いじゃない? それとも友美、勘違いしているとか。」
綾美は必死に聞き直した。しかし、首を横に振る友美。
「いいえ。間違いないわ。私は母のいる病院に行った。あなたこそ、どうしたのよ⁈」
「昨日、19時に駅前で待ち合わせして、この職場の集まりの飲み会があったのよ。場所は、居酒屋エンプティ。」
友美は、ますます、困った表情になった。
「え? 昨日、この職場の飲み会があったの?私、聞いてないわ。知らなかった。」
「いや、だから、昨日あなたもいて、一緒に飲んだのよ。さっき課長にも、その事を話したら覚えてなかったわ。」
「・・どういう事? 私、知らないわよ。飲み会なんて、行ってないし。」
綾美は、段々イライラしてきた。
「もう!友美!あんたまで。しっかりしてよ!思い出して!私が飲みすぎて、トイレにこもっているところを、友美が心配して来てくれて、私の肩を支えて、連れて行ってれたわ!」
「知らない!私は、仮にアルコールを飲んだとしても、記憶をなくさないタイプだって、綾美も知ってるでしょ!」
綾美と、友美は、経理課の前の廊下で、口論になりかけていた。通り過ぎる他のスタッフたちが、迷惑そうに見ていきながら去っていく。その事に気がついた二人は、少し呼吸を落ち着かせ、声のトーンを落とした。綾美は、首をかしげる。
「・・何かが、おかしい。」
そう呟くと、立ちつくす友美の側を、綾美は去っていった。
廊下を俯いたまま歩いていく綾美。今日は朝から、何かがおかしい。謎が多すぎる。それとも、まだ夢の中なのか・・・。
昨夜は間違いなく、飲み会があった。あやふやな部分もあるが、飲み会に行った事は確かだ。それなのに、課長は飲み会自体、なかったと言った。まあ課長は何らかの原因により、そう言ったとしても。親友で信用している友美まで、飲み会はなかったと話したのだ。これは、一体どういう事⁈ 綾美はまた、頭痛が始まった。放心状態のまま、エレベーターに乗り、着いた階で降りたところで、綾美は木下 真也に出くわした。
「あ・・!」
綾美は思わず、声が出た。そうだ。この木下 真也も、昨夜の飲み会にいたはずだ。慌てて、彼の側に歩み寄る。
「綾美さん。大丈夫ですか?遅刻してくるなんて。」
黒髪で、相変わらず清楚な印象の彼は、優しく声をかけてきた。
「真也。そんな事より、あなたに大事な事を聞きたいの。正直に教えて。」
綾美の必死な表情と、強い歩み寄りに圧倒される木下 真也。
「ど、どうしたんですか?急に。」
「正直に答えるのよ。昨日の夜、あなた、飲み会に行ったわよね?」
その質問に、真也は目を丸くした。すぐに答えない真也に、綾美はしつこく聞き直す。
「どうなの? 飲み会に行ったわよね?」
「は、はい。行きました。」
綾美の表情が明るくなり、周囲にも関わらず、声を張り上げた。
「そうよね!間違いないわよね!真也、良かった!」
真也は、驚いたままだった。
「綾美さん、どうして僕が昨夜、飲み会に行った事、知ってるんですか?」
「え? どうして、って、だって昨夜、この会社の飲み会だったじゃない!あなたも参加していたから。」
真也は、苦笑いした。
「何言ってるんですか。飲みには行きましたが、会社の飲み会には行ってませんよ。会社の飲み会なんて、あったんですか?僕は昨日、友人と飲んでたんですよ。」
「え? 嘘?」
「嘘じゃありませんよ。本当に、友人と飲んでました。」
やっぱり、真也も会社の飲み会はなかったと言う。綾美には、もう何が何だか分からなくなってきた。昨夜、綾美が転んだ時、確か真也は心配して声をかけてくれた、はずだった。綾美は、訳が分からなくなり、頭を両手で抱えたまま、心配そうにしている真也のもとを離れていった。
ここは、ドコなの? 私は誰? 夢なの?何が起こっているの? 綾美は、フラフラしながら、部署の入り口に入っていった。頭痛だけではなく、眩暈すら襲いかかってくる。
ふと、ウォーターサーバーの前に、体の大きな男が立っていた。太った大きな男だ。その男が振り返り、綾美に気が付いた。山上 安廣だ。この男も、飲み会にいたはずだ。だが、綾美は普段から、この山上の事を嫌っていたのだ。何故なら、確かに体は大きかったが、その体はだらしない脂肪で作られたかのような肥満体型であり、その日常の暮らしを物語っている象徴のような気がしていたからだ。肉体もさることながら、山上は56歳にして独身であり、結婚歴は知るよしもない。社内ではセクハラ疑惑の噂もあり、その風貌は綾美の受け付けないものがあった。それでも綾美は、勇気を振り絞って、話しかける。
「あなたも、昨日飲み会にいたわよね?」
山上は、不思議そうな顔をして、首をかしげた。この反応は、やっぱりこの人も・・・・。今の綾美には、期待という言葉はなかった。困惑する思いに、怒りすら沸いてきたのだ。それで八つ当たりに、綾美が山上を攻め立てた。
「あなたねぇ、言わせてもらうけど、アレはセクハラよ! 私のお尻を触って・・・。」
綾美の凄みに、山上は尻込みしている。それ以上関わらずに、綾美はその場を立ち去った。
再び、綾美は社内を歩いていた。この納得いかない、謎だらけの状況に、もはや仕事どころではなかった。イライラしながら、爪を噛む。その時、向こうに見える給湯室に、コソコソと入っていく男女に気が付いた。綾美は、ハッとして給湯室へ向かった。あの男女は、確か・・・、と心当たりがあった。
綾美が給湯室に入ると、その男女は、ちょうどイチャついているところだった。
「ちょっと、あんたたち!」
綾美は遠慮なく、鋭い声で話しかけた。男女は突然、声をかけられた事に驚いていた。
「は、はい!」
男女をよく見ると、綾美が思っていた通り、小田 翔平と、峰 夏妃だった。二人は慌てた様子で、必死で綾美に説明しはじめた。
「いや、違うんです!僕たちは付き合っているわけじゃなくて・・・・。」
すぐに綾美が、その言い訳を払拭した。
「あんたたちの事なんて、どうでもいいのよ!それよりも、二人に真剣に聞きたい事があるの。」
その言葉に、翔平と夏妃は顔を見合わせて、不思議そうにした。綾美は、それを待たずに早速二人に投げかける。
「昨日の夜、飲み会にいたわよね? この職場の飲み会よ。」
翔平が渋々、答える。
「いや、僕たち昨日、飲み会なんて参加してませんよ。ねえ?」
夏妃も、それに頷いている。綾美が二人に詰め寄る。
「嘘を言わないの! 正直に言いなさい!」
歳上であり、社内でも先輩な綾美が、強い立場にあった。翔平と夏妃は困った様子で、弁解するのがやっとだった。
「いや本当に、嘘じゃないですよ。僕たち、・・・昨日の夜・・・。その、・・一緒にいましたから。」
恥ずかしそうに言う翔平に対して、綾美は激怒した。
「もういい!聞きたくない!」
綾美は、そう言うと、さっさと給湯室から出ていこうとした。そして、一度だけ振り返り、
「あんたたちの関係は、私がバラすかもね。この給湯室での事も!」
と吐き捨てて行った。
広いロビーの椅子に、綾美は座っていた。その目は、床に視線を落としていたが、頭の中は様々な思考が飛び交っている。顔は疲れ果て、今日一日だけで少し痩せたような感じだった。綾美は、自分の知っているだけの記憶を辿っていた。昨夜の自分の行動を、必死に鮮明なものにしようとしていた。曖昧や不確かな場面が多く、怖くて仕方なかったのだ。そして、自分自身に言い聞かせる。夢ではない!現実のはずだ、と。それでも、綾美以外の皆が、昨日は飲み会などなかった、と答えた。それ自体も夢ではない。綾美がおかしいのか、周りがおかしいのか。綾美は、自分自身の病気の可能性も考えた。認知症? アルツハイマーとかいう病気? このところ働きづめだったから、軽い鬱病にでも成りかけているのかしら? それとも、普段からアルコールの飲み過ぎで、それで脳の記憶に影響が出ているのか? どれにしても、今は何の結論にも至らない。ロビーを行き交う社員たちを見つめながら、誰も信じられない。人が信じられない、と綾美は思った。みんな、私を騙そうとしてる。綾美は、この会社の中で、まるで自分だけ一人ぼっちになったような気がした。いや、もしかしたら世界中で、ポツリと一人取り残されたように、孤独の自分を感じたのだ。そんな事を考えていると、ふと思い出したように、急に立ち上がり、会社の出口へと出ていった。
会社のビルを出て、賑やかな車通りの街を少し歩くと、すぐにタクシーを拾い乗り込んだ。タクシーは走り出す。タクシーの中の綾美は、携帯電話でどこかに電話をかけていた。
「・・もしもし、母さん? 私よ。」
電話の向こうの久しぶりの母の声に、やっと安心感を得られた気持ちになった。綾美は、気がつくと、広い大海原に一人投げ出されていたような恐怖から、やっと今、救いの船を見つけたのだ。電話の母も、いつものように穏やかに話してくる。
「どうしたのよ、急に。あなた、いつも忙しくて電話なんか滅多にかけてこないのに」
その声を聞きながら、綾美は涙が溢れてきた。後から後から、何故か涙が止まらない。すぐに必死に涙を拭いながら、母に心配かけてはいけない、と返事を返した。
「大丈夫よ。何でもないの。」
「あなたは、いつも無理してるから。たまには帰ってきなさいよ。」
すぐには声にならず、携帯電話を耳にあてたまま、ウンウンと何度か首だけ頷いて、また涙を指で拭った。
「ありがとう、母さん。本当に大丈夫よ。また、かけるわ。」
そうして、綾美は電話を切った。その後は、タクシーの中から、街並みを眺めているだけだった。
やがて、タクシーは、ある通りで止まって、綾美はそこで降りた。遠いビルの向こうでは、陽が沈んでいくところだった。綾美は、一画の建物の階段を登っていくと、そこのドアを叩いた。ドンドンドン。呼び鈴はない。試しにドアを開けようとしたが、やはり鍵がかかっていて開かなかった。再び、ドアを叩く。
「すいませ〜ん。」
ドアの横にプレートの看板があり、『居酒屋エンプティ』と書いている。誰も出てこない。開店時間には、まだ早いので、やはり誰も出てくるはずないのか。ドンドンドン。
「すいませ〜ん。」
綾美は、諦めずにドアを叩いた。すると、少しして、ゆっくりとドアが開いた。中から、鼻下に髭を生やした中年の男が顔を出す。綾美の顔を見るなり、迷惑そうに言った。
「あの、店はまだなんですけど・・。もう少しして来てもらえます?」
綾美は、更に一歩踏み出して、入口ドアに引っ付くようにして、訴えた。
「いや、違うんです。ちょっと、お尋ねしたい事がありまして・・。」
綾美の強引さに戸惑いながらも、仕方なしに話を聞いてくれた。綾美は尋ねてみる。
「昨日の夜、この店を利用した団体客で、ディーアンドエースって会社名はないですか?」
店の男は、眉間に皺を寄せて、警戒した態度で綾美を見直した。
「あなた、刑事さんですか?」
そう聞き返されて、綾美は慌てて返答した。
「あ、いや違いますよ。私はただのOLです。私的に分からない事情があって、それで事実を確認しているだけです。」
男は、腕組みをし、益々表情を曇らせた。
「う〜ん、個人情報もあるから、あんまり深い事は教えられないですけど。ちょっと確認してみるので。」
そう言い残して、男は一旦ドアを閉め、店の中へ入っていった。程なくして、男が現れ、綾美に告げる。
「昨日の夜、ディーアンドエースって団体で、お客様は来られてないですね。」
綾美は、愕然とした。
「・・そんな、そんなはずないです。」
動揺した綾美が、男に食い下がった。
「私、昨日の夜、ここで飲んでいたんです!ディーアンドエースの会社の飲み会で!」
男は、困った顔をした。
「昨日、来たって言われても、ねぇ・・。団体って、何名様ぐらいの?」
「えっと、約30人ぐらいです。」
男は、手元の客リストを見直していた。
「う〜ん、昨日は、20名程の団体客が、5組いたみたいだけど。どれも、ディーアンドエースって名前じゃないなあ。」
「どんな名前がありますか?」
綾美は、諦めない。男は、遮った。
「おっと、個人情報などがあるから、これ以上は詳しく教えたりできないんだよ。悪いね。」
それでも綾美は、何とかしようと、男に訴え続けた。
「いや、でも本当に私、昨日飲みに来たんです!私の事、覚えていませんか? 間違いないはずなんです!」
興奮し、話し続ける綾美に、男は首を横に振り、ドアを閉めた。残された綾美は、すぐに動けずにいたが、やがて落胆した様子で、トボトボと階段を降りて、通りまで出てきた。昨日の夜の飲み会が、幻だったのだと、突き付けられた感じだった。やっぱり、勘違いだったのか。はたまた夢だったのか。
綾美は、まるで生きる屍のように、生気を失ったまま、街の通りを歩いていた。何処とも宛てもなく、歩き続ける。いつしか辺りは暗くなり、街にネオンが灯っていた。それでも、綾美は歩き続ける。やがて、いつしかポツポツと雨が降り始め、すぐに大雨へと変わった。歩き続ける綾美は、既に全身ズブ濡れで、ボロ布のようになっていた。時々、すれ違う傘を持った人が、綾美を見ていく。
どれぐらい経っただろうか。気がつくと、綾美は自分のマンションに帰り着いていた。その後も、あやふやな記憶で、シャワーを浴び、死んだように眠りについた。朝になれば、きっとこれは悪い夢だったと目覚めるはず・・・・。
シャッと勢いよくカーテンが開かれ、窓から薄っすらと青白い景色が広がっている。そこに綾美は立って、外を眺めた。まだ朝が明けて、間もない。テーブルの時計を見た。5時52分。目覚ましよりも、早く目が覚めた。綾美は、しっかりと確認する。間違いなく、ここは私のマンション。大丈夫だ。しっかりと眠ったせいか、綾美の意識はスッキリしていた。しかし、昨日の悪夢にまだ不安を覚えていた。あれは全部、夢? 綾美は、飲み会の夜の出来事を、頭の中でフル回転させ、思い出していた。次々に浮かんでくる、あの夜の場面ーーーーーー。
その時、ふと何かを思い出し、部屋の奥へと戻った。テーブルの上に置いてあった携帯電話を、急いで手に取る。
そうだ!確かあの夜、私は友美に連れられて、トイレから出てきた後、椅子に座らせられた。その時、私の携帯電話が鳴り、取ろうとしたけど、酔っていた私は、その携帯電話を床に落としてしまったはずだ。私は、その飲み会よりも二ヶ月程前に、携帯電話を新しい機種に買い替えたばかりで、大事に扱っていたのだ。つまり、何もなかったなら、携帯電話は綺麗な状態のままのはずだ。そう考えついた綾美は、手に取った携帯電話を、画面や裏側など、目を凝らして見てみた。果たして・・・・。
綾美の目が、一瞬輝いた。手に持っている自分の携帯電話。そこには、衝撃を受けたであろう亀裂が残されていたのだ。どうして、今まで気がつかなかったのか。気が動揺していたから、冷静になれず、細かい事が分からずにいたのか。とにかく、携帯電話に残っている、この深い亀裂は、少し擦れたぐらいでは決して受けないだろうと思われる程の痕がついていたのだ。硬い床に落としたぐらいの激しい衝撃により、ついた亀裂だ。綾美の目は確信に満ちた。私は、間違っていなかった。夢でもない。嘘でもない。これほ、きっと何かが起こっているに違いない。周りのみんなが、あの夜がなかったと否定する、何かが・・。
ほどなくして、綾美は会社に着いていた。玄関を入り、広いロビーを通って、エレベーターへと向かう。その途中で、綾美はふと足を止めた。ロビーの向こう側のほうで、人集りができている。何かと思って、そちらに向かい、人集りの最後列から覗いてみた。40人程の人集りは、円を描くように広がって皆その中心を向いていた。その先には、一人の女性が立ち、何かを訴えている。よく見ると、その女性は、同じ会社の営業部にいる、外野 由佳だった。違う部署な為、彼女と一緒に仕事した事はなかったが、その仕事ぶりは噂でもよく聞いていたし、営業成績もいつも上位だと評判だった。性格は、サッパリしていて少し男勝りな面もあるが、細身の体型で、その能力と絵に描いたようなキャリアウーマンぶりは一目置かれる存在なのだ。その彼女が、花束を抱えて、皆に何か言っている。
「・・・・・・でした。本当に、お世話になりました。」
そう外野は、話終えて深く一礼した。綾美は、この状況がいまいち掴めない。円になった後ろの列にいた、一番近い女性に、そっと話かけてみた。
「あの、外野さん、どうしたんですか?」
話かけた女性は、綾美のほうを振り返り答えてくれた。
「ああ。外野さん、今日付けで会社辞めるんですよ。」
「えぇ?」
綾美は、思わず驚いたが、周りに気付かれないように口をつぐんだ。そして、更に静かな声で問いかけてみる。
「だって、外野さん、営業成績も良くて、次期幹部候補だって聞いてたんですけど。」
その女性は、外野 由佳を見ながら、小声で教えてくれた。
「そうだったんだけど。ほら、外野さんって正義感あるタイプだから、上司と言い争う事が度々あってね。それは、いつもの事だから、そのままで問題なくきたんだけど。」
綾美は、黙って頷いていた。
「最近、記憶をなくしちゃってね。曖昧な、おかしな事を言うようになって、本人自身が、このまま仕事続けていくのは無理って判断したんじゃないかな。」
「え? 記憶? おかしな事?」
綾美が、疑問に感じている間に、どうやら退社の最後の挨拶が終わったようだ。円になって囲んでいた社員たちは、散り散りに部署へと戻っていってしまった。綾美は、そのまま立ち止まったまま。ロビーに一人残った外野も、最後に一礼し、出口へと歩きだした。気付いた綾美が、慌てて後を追いかける。突然後ろから呼び止められた外野は、振り返ったが、その目は涙を流していた。綾美が、申し訳なさそうに、話しかける。
「あの、すいません。こんな時に突然、声をかけて。私、同じ会社の松下 綾美って言います。少し、話できますか?」
外野は、少し不安そうにしながら、小さく頷いた。
二人は、河川敷の横の遊歩道にあるベンチにいた。ここは会社から、そう遠くない場所にあった。
綾美のほうから、気まずそうに話しかけた。
「あのう、どうして急に会社を?」
外野は、少し苦笑いしながら、答えた。
「この仕事をやっていくのに、限界を感じたんです。」
「限界? 限界って、あなた確か営業成績は常に上位だし、次期幹部候補だって噂を聞いたわ。」
綾美が、執拗に尋ねた。
「それが、悪かったのかもしれません。仕事、頑張りすぎたんですかね? 納得いかない事があったり、上司にイライラして、言い返したりして・・・・。」
外野は、俯いて話した。綾美は、外野のほうを体ごと向けて、問いかけた。
「まあ、イライラなんて私だって、よくある事だし。」
「それだけじゃないんですよ。最近、記憶が曖昧で・・。疲れてたのかもしれないんだけど。認知症ではないと思うんですけどね。」
外野は、クスッと笑って言う。綾美は、不思議に思い、更に尋ねる。
「記憶が曖昧? 認知症? どう言う事?」
外野は、やや恥ずかしそうにしながら、また苦笑いした。
「いや、気のせいとか、夢だったのかもしれないんですけどね。例えば、私だけ、ある記憶があるのに、他のみんな誰も、その事を覚えてないんです。」
「え⁈」
綾美の表情が、硬直した。外野は、再び俯いて話し続けた。
「仕事のストレスとか、疲れのせいがあって、それで精神的に影響してるのかな、と思って。精神科に受診しようかとも考えたんですけど。それも何か嫌で・・。」
綾美は、見開いた目で外野をじっと見たまま、その手は震えていた。
「みんなが覚えてない、って・・。それって、どんな事? 」
「え? どんなって、最近そんな事が、ずっと続いたんですよ。例えば、一昨日確かに食事に行ったはずなのに、周りのみんなは行ってない、とか。大事な会議にも出席したはずなのに、そんな会議自体なかった、とか・・。そんな不思議な事が続いて、私も何が何だか分からなくなって。おかげで、毎日お酒の量も増えました。お酒を飲みすぎたのかしら、ね。」
綾美は、黙って聞いていた。外野が、静かに立ち上がった。
「私、田舎に帰るんです。母に電話したら、帰って来い、と。疲れたし、それもいいかな、と思って。」
綾美は、放心状態な感じで、うまく答えれず、戸惑っていた。外野が告げる。
「松下さんも、あんまり無理しないようにして、仕事頑張ってくださいね。それじゃ。」
外野は、綾美に頭を下げて、立ち去って行った。その場に、呆然と立ち尽くす綾美。
一つの確信を掴んだ。外野さんも、同じ事が起こっていた。自分だけ記憶が違う、不思議な出来事。周りの人は、知らないと言う出来事。今、綾美の身に起こっている、謎の出来事とよく似ていた。もしかしたら、他にも同じような出来事が起こっている人がいるのかしら。やっぱり、夢や勘違いなんかじゃない。何かが起こっている。綾美は、強い確信と、更なる事実を知る為、その表情は怖いほどに鋭く、思いを高ぶらせ、興奮していた。そして突然、どこかへと走り出す。
綾美が向かった先は、ーーーーーー!
ここは、女性更衣室。綾美と友美が二人きりでいた。友美が口を開いた。
「話って何? 仕事中に、こんな所に呼び出して。綾美。やっぱり、あなた最近、変よ!」
綾美が、鋭く怖い顔になった。友美に迫り、両肩を掴む。
「友美!あなた、何か知ってるんでしょ? お願いだから、教えて!」
友美は、綾美の両手を振りほどこうとした。
「何よ、綾美! はなしてよ!」
綾美は、更に強く友美の両肩を握り、ロッカーに押し付けた。
「本当はあの日、飲み会はあったんでしょ?あなたも、それを覚えていて・・。でも、それを知らないと答える。どういう事なの?
営業部の外野さんも辞めていったわ。彼女も私と同じ体験をしていた。何かあるわよね?」
友美は、綾美を押しのけようとする。
「知らないわよ!そんな事!」
綾美も、強く押し返した。
「お願いよ! 私たち、親友じゃなかったの?」
二人はお互いの体を掴みあったまま、もつれ合い、そして、ついには綾美が友美を床に押し倒した。倒れた衝撃もあって、呻く友美。荒い息で、睨みつける綾美。膠着状態が続いた。静かな更衣室で、二人の息切れだけが交差した。
しばらくして、倒れたまま友美が笑いだした。
「ハハ・・・。友達? 笑っちゃうわ。友達なら、あなたは私に何かしてくれるの? 助けてくれるの?」
綾美は、友美をじっと見つめたまま、話を聞いている。そのまま、友美は話し続けた。
「本当、笑っちゃうわ。友達、友達って、仲が良いだけじゃ何もできないわ。」
やっと、綾美が口を開いた。
「どういう事?」
再び、友美は苦笑しながら、そして、ゆっくりと起き上がった。
「これはね、組織の陰謀よ。そういうプロジェクトなのよ。私は、それに逆らえない。綾美、あなたも逆らえない。」
「陰謀? プロジェクト? 何の事よ?」
綾美が、問い詰めた。友美は、立ち上がったまま、綾美のほうをじっと見ている。その時、更衣室に設置している内線電話が鳴り響く。プルルルル・・、プルルルル・・。二人は、顔を見つめあった。鳴り続ける電話。プルルルル・・、プルルルル・・。友美が電話を取った。静かに、耳をあてて聞いている。そして・・。友美が受話器を綾美に向けた。
「あなたに、電話よ。」
綾美は、ふいに向けられた受話器を恐る恐る、ゆっくりと受け取った。それを自分の耳にあてる。
「はい・・。」
一言返事すると、受話器の向こうから、女性の声で話かけてきた。
「松下 綾美さんですね? 至急、当ビル42階の会長室へ来てください。」
綾美は、どういう事か理由が分からず、
「え? どういう・・。」
と聞き返そうとしたが、そのまま電話は切れてしまった。受話器を握りしめたまま、再び友美と顔を見合わせた。友美が、意地悪そうな表情で呟いた。
「行けば、全てが分かるんじゃないかしら。」
『42』の、数字ボタンを押す。綾美は、エレベーターの中にいた。スムーズに上へと上がっていく。エレベーターは、前面がガラス張りになっており、周りの景色、街並み、ビル群が一望できた。まるで、『高層ビル、あべのハルカス』を思わせる臨場感だ。エレベーターが上へ、上へと上がるにつれて、見えている景色は、徐々に綾美が見下ろすビューへと変わっていく。この広い都市の中で、一ビルの中のエレベーターにいる綾美。私は何て、ちっぽけなんだろう、と思った。
チン!という到着音で、綾美は現実に戻り、気が付くと42階に着いていた。エレベーターの扉が開かれる。ゆっくりと降りた綾美は、まず、この階が他のフロアーと空気が違う事を感じた。静まりかえり、まるで時が止まっているかのような錯覚すら起こしそうだった。広くて、高級そうな床や壁が伸びており、歩く綾美を導いてくれている気がした。そして、大きな扉の前に辿り着き、綾美は一つ軽い息をした後、キリリと覚悟を決めた眼差しに変わり、その扉を開けて中に入った。
扉の中も、広い部屋になっており、高級そうな白い床と壁が印象的だったが、シンプルな雰囲気になっていた。ほとんど物がない。部屋の中央に、豪華そうなデスクと椅子が佇んでいたが、綾美の存在に気が付いて、向こうを向いていた椅子が、クルリと反転し、座っている人物が挨拶してきた。
「ようこそ!松下 綾美!」
その男は、小柄で年齢的に60代ぐらいに見え、エレガントなグレーのスーツを着込んでいた。その顔は、日本人離れした彫りの深い面持ちで、目は大きかったが鋭く、こちらを見つめている。綾美は、雰囲気と状況に圧倒されていた。
「は、はじめまして。」
男が、こちらを見つめたまま、立ち上がった。
「私は、このディーアンドエースの設立者である、財団会長のバッカスだ。」
「バッカス・・?」
綾美は、小さく呟いた。バッカスと名乗る男は、話を続けた。
「会社の社員は、私に会う事など、ほとんどないだろう。会長の顔を知らない。それでいい。私の主義だ。会社の細々した事などは、幹部や重役たちに任せている。」
「あの、・・何故、私はここに?」
綾美が結論を問いかけた。バッカスは、自らのデスクの横を歩きながら答える。
「君は、もう気がついたんだろう? 自分の身に今、起こっている不可解な出来事に。」
綾美は、黙って話を聞いている。
「今回、君に起こっている事は、プロジェクトなのだよ。」
「プロジェクト?」
綾美が聞き返した。
「君は、どんどん変わっていく、世の中のルールや常識、法律についていってるかね?」
バッカスが問いかけてくる。そのまま話が続いた。
「その変わってきたものの一つに、リストラがある。昔は、リストラという言葉を前面に出して、会社の都合で、社員を切ってきたものだ。だが、今の時代は違う。その移り変わりの片鱗が、学校教育や両親などが分かりやすいだろう。」
この広い部屋に、バッカスの声が太く、大きく響いた。
「私たちの時代は、生活も貧しくて、学校教育の場や両親も、厳しく子供に指導していた。それが時とともに、“ゆとり世代”というものに変わり、教師は肩身が狭くなって、反対に両親はモンスターペアレンツへと変貌していった。・・・・今は“さとり世代”に変わったらしいが。いや、私は別に、教育の事を、とやかく言いたいのではない。つまり、教育面ですら、そのように当たり前だったものが当たり前ではなくなってきた移り変わりがあると、例えて話しただけだ。」
バッカスは、再び椅子に座った。
「つまり、色々なものが変わってきた中で、会社におけるリストラも、これまで通りにはいかず、今や人権だとか、個人情報だとか、様々取り沙汰されるのだ。昔に比べ、リストラする事により、そのリストラされた側の反応、その後の行動が変わってきた。自殺する者。会社の上司を個人的に恨む者。色々だ。そこで、それに対策されてきた一つの手段が、本人の“自然退職”なのだ。」
綾美は、驚きと、まだ頭の中がうまく整理できず混乱していた。
「え? それって・・。」
バッカスの話が続く。
「そこで、今回君の場合は、アルコールによる、生活の乱れや、記憶の障害という問題を、君自身に感じさせ、職務続行は無理だと自分自身に認識させて、自己自然退職を推進してきたのだ。だから、小さな動きかもしれないが、この会社の社員、はたまた飲み屋の店員に至るまで、こちらが手をまわして、大規模に渡るグループ的計画を実行していたという事だ。誰も友人すらも、本当の事を話してくれなかったはずだ。」
綾美は、愕然とした表現を隠さずにいた。
「そんな、・・。だから、飲み会はなかった、と誰も知らないふりをしていたの? 飲み屋にまで確認に行ったけど、知らないと言われた。みんな会社が仕組んでいた事だったの?」
「その通りだ。その為、社員や友人に協力してもらい、君を眠らせて、ホテルに一人宿泊させた。これも全て、計画の為にした必要な演出だった。」
バッカスは、堂々とした態度で、綾美に告げる。
「だが、君は諦めなかった。外野さんにも確認し、友人の今倉さんにも問い詰めた。なかなか、しぶといタイプだったよ。外野さんには、心理的にうまくダメージを与える事ができ、やる気をなくす事に成功し、彼女は退職していった。最初、会社として外野さんには期待していたのだが、彼女はその性格から、我が社に意見したり、批判が目立つようになってきた。邪魔な存在になったのだ。残念だった。だが、それも君に対しては、このプロジェクトは失敗だった。」
綾美は肩を震わせ、その表現は怒りに満ちていた。いきなり、バッカスに向かって、綾美の怒号の声が浴びせられた。
「あんた! 人の気持ちを何だと思ってるの⁈リストラ? 会社の為? そんな物の為に、人を騙し、また人に嘘をつかせて、そして人の心を踏みにじったのよ!」
バッカスは何も言わずに、黙っていた。綾美は、バッカスを睨みつけながら、渾身の力を込めて、強く言い放った。
「こんな会社、私のほうから辞めてやるわ‼︎」
クルリと踵を返すと、綾美はもう歩きだしていた。そのまま、出口を出て行く。
プルルルル・・・。
プルルルル・・・。
ガチャ。
「はい、もしもし?」
「あ、もしもし、母さん?」
綾美は、携帯電話から母親に電話をかけていた。
「どうしたのよ?」
「私ね。会社、辞めちゃったのよ。」
「そうなの。」
「うん。田舎にね、帰ろうと思って・・。」
その日の夜、どこかの店で一人、酒を飲んでいる綾美がいた。今夜は、どれぐらいアルコールを飲んだのだろう。店のテーブルに体をもたれたまま、また次の一杯を飲み注ごうとしていた。それを心配した、店の店員が声をかける。
「お客さん、大丈夫ですか? そんなに飲んで。」
綾美は、酔っ払った口調で答えた。
「大丈夫よ。だって、もう私は仕事を辞めたし、何も困る事ないから・・。」
そう言いながら、綾美はテーブルに顔を伏せて、徐々に眠りについていった・・・。
真っ白な薄い光の中にいた。ぼんやりと見える。ここは・・・?
その時、激しい頭痛が襲ってきた。
「痛っ・・・つつ。」
また、二日酔いだろうか。必死に目を開けて、確認してみる。綾美は、・・・。
白い壁の、狭い一室のベッドに寝かされていた。どこなの、ここは?
起き上がろうとしたが、何かに体を抑えつけられた。よく見ると、体をベッドに縛り付けられている。
「え? 何?」
両手も、両足も拘束されていて、動かせない。その時、この部屋に誰かが入ってきた。二人だという事は分かった。だが、二人とも白い服に身を包み、口にはマスクをしていて、顔は分からない。その二人は会話をしながら、綾美を見ている。声で男性だと分かった。
「今回も、失敗だな。」
「いや、まだ諦めない。」
怯えながら、話を聞いている綾美。恐る恐る話かけた。
「あなたたちは、誰? ここは、どこなの?」
二人の男性は顔を見合わせた。綾美の質問には、答えてくれないようだ。そして、二人だけで会話を続ける。
「ほら、錯乱しているし、記憶障害もあるようだ。この前の検査結果は、どうなんだ?」
「アンモニア値も上昇していて、脳波でも影響が出ているようだ。」
綾美は、声を荒げて言った。
「何なのよ‼︎」
そんな綾美の抵抗には構わず、男性は会話している。
「もう一回、カルテを読んでくれ。」
「いいよ。読もう。・・・・松下 綾美。51歳。本人は何故か、45歳だと思っているようだ。それと、本人は独身だと言ってるが、夫と子供も二人いて、4人家族だ。その年齢の誤差と、独身へのこだわりなども、今回の病状経過と何か関係していると先生は言っている。」
「他は、何かない?」
「あとは、繰り返す言葉は、一昨日、会社の飲み会があったはずだ、という事だな。何故か、しきりに、その事を訴えて、誰も覚えてないと失望するんだ、そうだ。」
「飲み会、か。確か、彼女が倒れて初めて運ばれてきたのは、もう7年程前だからな。彼女は、どうやら、その時の記憶で止まってるようだ。」
綾美は、会話の内容が分からず、声に出さなかった。そのうち、二人の男性は部屋を出ていった。一人になった綾美は動揺し、その恐怖から震えだした。そして、また一人の人物が部屋に入ってくる。この人物も、白い服を着ていて、口にはマスクを着けていた。綾美を見つめた後、話かけてくる。またもや声を聞いて、男性と分かった。
「お前は、長年アルコール依存症に罹り、日常生活が正常に送れなくなっている。記憶も、まばらで異常をきたし、家族にも迷惑をかけてきたようだ。それを俺が担当し、これまで治療を行なってきた。私は、アルコールと病気、そして、それに及ぼす人体への影響に関する研究をしてきた。これは、人類の課題でもある。」
綾美は、怯えた声で尋ねた。
「私は、アルコール依存症なの?」
男は、黙ったまま何も答えず、じっと綾美を見ていたが、やがて自ら、そのマスクを外した。その顔を見て、綾美は全身が凍りついた。その男は、バッカスだったのだ。彼は綾美をじっと見ながら言った。
「だから、プロジェクトだと言っただろう。」
綾美はベッドに寝たまま、天をも切り裂く声で、絶叫をあげるのだった。
「イヤアァァァァーーーーーーーーー‼︎」
だがここは、その声すらも、外に届かなかった。
『鬼の子』シリーズ、第2作目!
いかがでしたか?
今回のテーマは、再びサスペンスというジャンルを通し、嗜好のアルコールについて、考えています。
ストレス社会と言われる現代で、ほとんどの人が愛飲しているアルコール。時には、息抜きとして、また人との繋がりのキッカケ作りとして、あるいは自分へのご褒美として、重宝されていると思います。
そんな一見、楽しいはずのアルコールが、多飲により、中毒症になってしまったり、家族や周りに影響を及ぼし、自らの人生を壊してしまった方も少なくありません。アルコールにおける問題、社会が抱えている課題を、このサスペンスを通して、読む人に投げかけ、改めて見つめ直す機会にしました。
アルコール依存症の治療は、これまで医療の現場でも行われてきましたが、その課題はまだまだ山積みなのが現状です。
それと共に、“ゆとり世代”から、“さとり世代”へと変貌していく世の中の移り変わり。その変化に伴い、人々の思想や価値観の変革にも焦点をあててみました。
それぞれ色々な思い、考えを巡らせて頂けたらと思います。
また次回の作品も、お楽しみに!
これからも、『鬼の子』シリーズをよろしくお願いします!