坂口恭平と「現実宿り」だってさ
坂口恭平最新作「現実宿り」にも私なりに触れています。
前回私はエッセイで坂口恭平について考えた。そこに「私は0円特区ができたら移住したい」との旨を書いた。だがそれは誤りであると思ったのでここにまた書いていこうと思う。それは私が坂口恭平に嫌悪を抱いたというわけではない。単刀直入に言えば「坂口恭平はきっと0円特区を作らない」と思ったからである。それはなぜか。なぜなら坂口恭平はノマドだからである。ノマドとは一つの場所に定住せず移動し続けるライフスタイルである。ただ前回のエッセイで私は彼を超精神ノマドと言った。その時私はそれに気づけなかったというのか。そうである。私は気付けなかったのである。
彼は最新の著作「現実宿り」を出版した。私はこれを読んだ時初めて彼がノマドであることを認知した。
ではその「現実宿り」とはいかなる文章か。非常に一言で捉えにくい内容なのだが私が読んで感じたのは意味のない文章ということである。これは私が彼を侮蔑しているように感ぜられるかもしれないがそうではない。坂口恭平によると彼の中で重要なのは音楽だそうである。それはトークイベントでもギターを持ち歌う姿をみれば感じられる。音楽とは刹那のものである。そこには行為しかない。音が重ねられ音楽になったとしてもそこに意味を見出すのは音と関係のないただの他人である。この「現実宿り」も音楽のような文章である。そこに意味はなく書くという、音楽でいえば弾くという行為だけである。現実を一時忘れ音のような文章に心傾ける、雨宿りならぬ現実宿りということである。こう思えば今までの「0円ハウス」から「モバイルハウス」「新政府」などの坂口恭平の軌跡はすべてこの現実を一時忘れ音に耳を傾ける現実宿りなのかもしれない。
坂口恭平は自らの身体感覚・聴覚で私達が気付きもしなかった埋もれた道を鮮やかなステップとともに通っていく。それはまさにノマドのようにである。私はその姿に魅了されるのである。だからこそ坂口恭平は一か所に留まらない、「0円特区は作らない」。おそらくモンゴルのノマドよろしく様々な場所をもしか新しい場所を通りながら転々とするであろう。歌いながら、踊りながら、音楽を弾きながら。もしかしたらそこに意味はないかもしれない。だが、それこそが音楽でありそれこそに現代社会に対しての意味があるのだ。
坂口恭平は言った「革命はすでに起きている、そのレイヤーにあなたが入れるか否かだ」。坂口恭平の通った道を整えるのはきっと我々の仕事だ。だから「0円特区」は私が作らねばならない。それは多摩川のホームレスのように。そこに入れるか否かだ。さぁ、行為をしよう、音楽を奏でよう、そんなスタンスで。