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フランシスベーコン(画家)だってさ

これは新作です

ウィキペヂアによると彼の作品は具象絵画に属するそうである。そもそも美術における分類分けは昨今の現代アートの視座に立つと非常に曖昧であり、アートをいかに定義するかは至難の業である。そこでは、フランシスベーコンの絵画が具象か否かというのは大した意味はないかもしれない。が、私の私見から言えば彼の作品は具象絵画であるといえる。私が今回考察するのは、フランシスベーコンの作品に於ける肉体性である。私は彼の作品が具象か否かの考えるとき、そこに肉体性の有無を見る。彼の作品には肉体がある。それについて考えていきたい。

しかし、フランシスベーコンの作品を前にして私は、果たしてこれが本当に具象絵画と呼べるのかという葛藤に陥る。あのメタモルフォーゼしたモチーフはもはや抽象絵画ではないのかと自問するのである。そして、そのモチーフはどこか恐ろしさすら感じさせる。どこか精神疾病的なものを纏っているのである。かくゆう私も最初はなんて病的な絵だと思ったものである。だが、彼の作品に直に触れて考えを改めた。彼の筆致はその奇怪なモチーフとは異なり極めて繊細に丁寧に書かれているのである。私はその時、彼がどこか錯乱とした蒙昧の中で作品を書くのではなく、確固とした信念の上に乗り書いているのだと知った。では、なぜ彼の絵はあんなにも奇怪であるか。それはひどく簡単なこと、モチーフが奇怪なだけである。それはモチーフの物質的な問題ではない、それが引き連れる世界観の問題である。彼は作品を描くとき、既存の誰かによって作られたもの、例えば映画の一シーンやポートレート、ほかの著名な作家の絵画、彫刻などからインスピレーションを受けたそうである。そこには世界観がある。彼はそれを、自身を鏡として映すのみである。彼という鏡が時勢を肉体に受け、モチーフをありにままに映す。その鏡はあまりにも純粋であるが故、物事の覆いたくなるような恐るべき一面をしっかと捉えるのである。ゆえに、彼の選ぶモチーフは他作家からはかけ離れている。背理の本当のものだけを見んがために彼の純真さは、作り物を嫌うのである。これを聞いて読者諸氏は彼のインスピレーションの源泉は作り物だと反論するかもしれない。しかしそれは違う。彼にとっての本物とは作り物だったのである。既存の実物というものにどれだけの真実がありえようか?彼が生きた20世紀にどれだけの真実がありえようか?寝食を共にしたパートナーとの悲しき離縁にどこに真実がありえようか?彼にとって偉大なる作家の作り物だけが本当だった。私はもしかしたらこれがフランシスベーコンの提示した具象性であり肉体性ではないかと考える。

フランシスベーコンの展覧会で土方巽の暗黒舞踏がテレビに流れていた。彼もやはりフランシスベーコンの具象性、肉体性を感じ取っていたのだろうか。そのモニターから流れていたフランシスベーコンのアトリエの風景を私は鮮明に覚えている。奥行3メートル幅1メートル50センチの部屋が資料で埋まっているのである。フランシスベーコンはこの積み上げられた資料から作品のモチーフを選んだそうである。私はこれを見て、ここは創作と愛の鳥の巣なのだと思った。彼はここでモチーフを愛でながら母鳥のように作品たる雛の巣立ちを見守るのである。それは彼の純粋で世界への愛に満ちたからこその異形な作品にならざる負えない宿命を我々に見せているにである。


やべぇ、A.Aのベーコン像は肉食系だそうだ。俺のは草食系か? いつか読まねば……。

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