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教育だってさ

先日、参院選において、ネットを用いた選挙活動が行われ、投票率の増加が期待されていた。がしかし、フタを開けてみると、投票率に大きな変化は表われなかった。そもそも、制度自体が成熟しきっておらず、不備を多分に含んでいることも、それに対しての有識者の認識の甘さもこのような結果の要因となりうることは否定しきれない。しかし、私には今回の結果の要因である制度の不備や認識の甘さを外側の問題と捉えるならば、そのような情報との我々の向き合いかたの問題、内側の問題こそが、対処されるべきだと考える。

それは、限定効果論や議題設定機能仮説などを用いたとしても、現状の事態に対応し切れないほどに、複合化しているからである。そこで、観察対象に対して、内側と外側という2つの視点から観察することによって、事態の明瞭化をはかる試みである。今回私が内側の問題を考える上で、着目した事柄は、教育である。メディア研究における受け手の解釈について、受け手の社会階級やサブカルチャーといった社会的特性を、教育という具体的な形を与えることが我々を内側の問題へと意識を向けることができる。この場合における教育の定義を、小学校1年次から中学校卒業までの9年間の義務教育とする。幼児期から児童期への移行起点である、6歳時から義務教育が始まる。それは、今までの五感によって経験、蓄積されていく情報とは、一線を超えるものである。そこには、言葉や数字などを用いた、五感を超えた形での世界の認識を行う姿がある。これこそが、人間が生まれてから初めて触れるメディアである。それ以前からも、親からの生活面におけるコミュニケーションなどもあるが、それは、一方的な思考を有しない受動であるためこれは省くこととする。15歳までの児童期から青年前期の9年間、義務教育を受けるのである。その中で行われている教育を、国が公平に定めた神聖かつ純白な行為ではなく、ある一つのメディアとして捉えるのである。学校という一種の閉鎖空間のなかで、人格形成に重要な9年間、

一身に国から定められたメディアによるすりこみを受け続けるのである。その中で、メディアの影響を多分に受けながら、一人格を構築しつつ、情報の受け手として成熟してゆくのである。義務教育の9年間を終えると、高等学校への進学か、就職かの二択にちかい状態で将来を定めていく。ここからは、ある程度の責任能力なある人間として、社会とより密接に関わってゆく。その彼等の属している社会そのものを、ある一つの視点で解析してゆくことは不可能である。それは、社会に属している彼等のおかれている状態以前に、義務教育期間に施された結果養われた状態の、二重の状態が存在するからである。社会に属する一個人として、観察、理論をあてはめることは、教育で養われた個人を内包することができずに、事態の片面しか明かすことができない。教育というものを、ある種の強力なメディアと捉え、観察した上で、さらに社会そのもののメディア形態と重ね合わせることで、より克明に人とメディアの関係が見えてくる。

今回の考察では、荒削りな部分が多く、参考資料や理論などの客観的視点の不足が目立つ。しかし、これを、独立した自我の見識としてとらえ、さらなる観察と考察を経て、より高い次元の思考へと昇華させていく。


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