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エゴンシーレとグスタフクリムトだって

怪文書ばかりじゃないとおもいたい......。

私は今回、二人の画家の作品を取り上げる。

それは、この両者が一時期は交流があり、同時代の同じ国の空気を吸っていたからである。そんな両者の二つの図版を並べることによって、より深い鑑賞へと私を誘ってくれるのではないか、そう考えたからである。一人は1890~1918年、オーストリアのハンガリーで生まれたエゴンシーレであり、もう一人は1862~1918年、同国の、ウィーン生のグスタフクリムトである。両者とも美術史においては象徴派の画家として区分されている。まずはエゴンシーレの特徴から述べてゆきたい。

今回選んだ図版は1910年に描かれた〔座ってある男性裸像〕である。エゴンシーレの絵で特徴的なのは、やはり、人体をとらえた際に現れる異様な線である。それは、28歳で夭折したシーレ自身の境遇と相まって、ある種の恐怖を観ている我々に与えてくる。しかし私はその恐怖という感情以上にシーレの絵から、人間への儚い希望のようなものを感じる。シーレが生きた19世紀末から20世紀初頭は、自国のオーストリアから、世界中から、激動へと入ってゆく、その時代である。1914年には第一次世界大戦という、人類史上初の世界大戦へをむかえることになるが、その当時以前の空気をシーレがどのように感じていたかは私にはわからない。だがそのような背景を視野に入れることで、シーレの絵はさらに輝きを増してくる。それはシーレの、個としての人間への興味である。興味という言葉では少し足りないかもしれないが、戦争、言い換えれば、国の行為の前には個の人間はちっぽけな家畜のような物に成り下がってしまう。その中でシーレは、真正面にいるモデルだけを異様な線をつなぎ合わせて描いたのである。戦争や戦争への恐怖を絵画上に展開させたのではない。戦争や戦争への恐怖にさらされた人の心を描いてみせたのである。私はシーレのそのような姿勢が、28歳の夭折の生涯と合わさることによって、人間への儚い希望のようなものを感じる。それに対して、グスタフクリムトの絵から私は、絶望をかんじるのである。もしかしたら、シーレの絵とクリムトの絵が何かの対称性を秘めているのではと考え、もうひとつの図版、1907年〔アデーレブロッホ=ボウアーの肖像〕を載せた。私はクリムトの描く顔がどうも苦手である。華やかで艶やかな装飾につつまれた画面の中で、浮かび上がってくる人間の顔が恐ろしい。シーレとクリムトの絵は画風も当然のことながら違うが、生きていた時期が重なっている以上、美術史的な流れを超えた次元で似通った部分があるのではないだろうか。私はむしろ、両者は同じものを描こうとしていたのではないかと考える。それが、内に凝縮していったか、外に拡散していったかのちがいだけだあって。クリムトの絵の最大の特徴といえば、洗練された装飾美である。この象徴主義の一種と捉えることもできるかもしれないが、私の意見は少し違っている。クリムトもやはり、シーレと同じように個の人間を描いていたのではないだろうか。だがそれは、シーレのような希望ではなく、絶望として。私は、クリムの装飾美が文化や物質などのイメージを秘めており、それを飛躍して解釈することで、戦争そのものへのイメージにつながるのではないかと考えている。私がクリムトの描く顔から感じた恐怖は、文化的、物質的なモチーフの装飾が当時の世界と奇妙にコミットすることによって、戦争のイメージへと昇華され、その中に浮かび上がる顔によって、戦争の恐怖にさらされた個の人間の姿から生じたものかもしれない。そもそも、私がシーレとクリムトの二者の図版を取り上げたのは、ある一つの構図を表してみたかったからである。それは、クリムトが恐怖にさらされた個の人間の姿を人体の外側へ、物質的な装飾美を選んだのに対し、シーレは、個の人間の姿を人体の内側へと、精神的な異様な線を選んだのである。この構図を元に私は、クリムトの物質的な飾りに対し、シーレは、魂の飾りとでもいうべきものを自身の絵の中に施していたのではないかと言いたい。クリムトは1904~07年に〔水蛇Ⅱ〕という作品を発表しているが、シーレには1907~08年に描かれた〔水の精〕という作品がある。この二つは構図が非常によく似ており、時期から推測するに、シーレがクリムトの〔水蛇Ⅱ〕に感化されて描いたと考えられる。が、この二つの作品は似た構図でありながら作品の雰囲気はまったく異なっている。当然といえば当然のことかもしれないが、二人が同じようなモチーフへの関心がありながらも、まったく逆の方向に展開していったことを端的に示しているのかもしれない。




参考資料

〔エゴンシーレ画集〕著エルヴィンミッチ 訳坂崎乙朗 株式会社リブポート

〔もっと知りたいクリムト生涯と作品〕著千足伸行 東京美術

〔クリムト作品集〕著千足伸行 東京美術

もう、こんなの書けないや。


うええええ! シーレとクリムトの師弟関係は当たり前情報だった! 書いた俺がバカみたいだ!

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