どこぞのプログラマの人間考察、娯楽について
娯楽というのが生体の維持に必要がないシーケンスであることは疑いようがない事実であるところですが、ではなぜ娯楽というものが生まれるのか、ということを考えてみることにしてみる今回ですが。
システマチックに考えるなら娯楽が主として利用される時間というのは死んでいる時間だ、と思います。
プログラムだとか機器的に理解するならアイドルタイムというヤツですね。
『アイドル』タイムってなんだよ、って思う人も多いと思うんで補足するなら、車の『アイドリング』とかを思い出してもらうと近い感触が得られるんじゃないでしょうか。
要するに、することがないのに時間だけがある、だとか、アイドリング的に考えるならエンジンは入ってるけどなんら動作していない状態のことですね。
いうまでもなく、生物というのは自発的に休止状態になることというのは難しいアーキテクチャです。
生物の等級的な考え方がありますが、その等級的に高い哺乳類ならなおさら難しい。
比較的脳が大きいせいで例えば冷凍すれば凍結時の膨張と収縮で脳が破損するとかそういう事情もありますけどね。
逆に等級的に魚類以下なら生きたまま冷凍して、解凍するとそのまま生命活動が再開可能なものもいますし。
まあそういう背景もありつつ、基本的に一定以上の自我を持つ生物が目的意識、または快不快を伴わずに時間の経過を体感し続けるというのはこれ以上ないくらいの不快なんじゃなかろうか、とか思うところがあります。
あるいは不安かもしれませんが。
どちらにしても強いストレスを感じる要因になるだろうと個人的に理解しています。
逆に言えば、その無為な時間に価値を見出すことができるなら娯楽というものはいらないんだろうな、と。
要するに、その死んでいる時間というのをどれだけ感情的起伏(≒脳内分泌の促進)がある時間にできるかという試行の一つが娯楽なんじゃなかろうか、と。
こういう考えをしていく内に、昔の日本人の老人というのはなんと完成された生物なんだろうかと思わざるを得ない部分があったり、なかったり。
おそらくですが、『死期の悟り』というか、そういうものが今よりずっと高い次元かつ身近にあったんじゃなかろうかとか。
死ぬことを意識するなら、今この瞬間に、例えば分刻みで変わっていく空模様だとか、ふと耳にする鳥のさえずりだとか、風が鳴らす木々のざわめきだとか、そういうものに途方もない価値を感じ得るはずだと思うところがある。
多分、そういう価値を感じ得ない人種ほど娯楽を求める気風が強いんだろうな、とか、思うところ。
あ、私が思うところの正しく価値を認識する『老人』というのは例えば昭和の中期以前に既に『老人』であった人たちのことで今の『老人』のことではないことだけ明記しておきますけども。
まあそれも傾向的というか、割合的にという感じですけどね。




