許可なくアルバイトをしてはいけません
「姉ちゃん、なんかいいバイトって無い? 出来れば日雇いで」
埼玉県川口市のとある一軒家のリビングで、俺は、現在ソファに寝転がっていた我が家の長女にそう切り出した。彼女は現在、赤い薔薇の中に青年二人が戯れあったイラストが表紙の、小さな文庫本を読みふけっている。
「バイトぉ〜?」
姉ちゃんは心底訝しんだ顔をしてから「よいしょっ」と体を起こし、薄いフレームの眼鏡をくいっと中指で押してまっすぐ俺の方を見た。正面から顔を見てみると、姉ちゃんは割と整った顔立ちをしていると思う。染めている筈の茶髪ロングもなぜか癖が全くない。勉強出来てスタイルも良いし、後はその手の中にある本さえ読んでいなければ完璧だったのに。
「アンタの高校ってバイト禁止じゃなかったっけ」
俺がそんな思考を巡らせているその時、姉ちゃんが突然そんなことを言い出した。
確かに俺の通っている学校は許可の無いアルバイトは禁じられている。バレれば即刻始末書というなかなか重い罰が科せられてしまう。だが……
「いいじゃんかよ、別に。俺、帰宅部だから夏休み中は暇だし、最近金欠でやばいからさ。な? 頼むよ。この通り!」
俺は両手の皺を合わせ、必死に姉ちゃんに頭を下げる。
「金欠だったらパパやママにお小遣い頼めばいいじゃん。あたしは嫌だけど」
「流石に姉ちゃんには頼めねえよ。俺も男だし。それに欲しい物が、その、新作のゲームだし。だから父ちゃんや母ちゃんにも、さ……」
両親は、あまり俺がゲームを買うことを良しとしない。だが、ゲーマーである俺にとっては新作のゲームをチェックしないなど言語道断である。だから、俺は両親にばれないようにこっそりとゲームを買わなくてはいけないのだ。
「欲しい物ねぇ」
姉ちゃんはチラッと近くの棚に置いてある携帯ゲーム機を見ながら、呆れたように呟いた。
「うーん……あ、ちょっと待ってて」
しばらく姉ちゃんが唸っていると、急に何か思いついたかのようにポンと両手を合わせ、それから自分のリュックをソファの上に引っ張り、中に手を入れる。
そして顔を出したのは、一枚のチラシだった。
「はいこれ。同じ大学の友達ん家が精肉店をやっていてね、そこが急募でアルバイト募集してたのよ。常連さん以外はあまり来ないような所らしいし、アンタにはちょうどいいんじゃない?」
姉ちゃんがそのチラシを差し出してきたので、俺はそれを受け取った。軽く目を通してみる。
「へえ。あ、日給一万円なんだ。結構いいな。あれ、姉ちゃんはやらないの?」
「あたしはちょっと、ね」
姉ちゃんは困ったように微笑んで、僅かに目を逸らした。
「そっか。ありがと姉ちゃん。早速明日行ってみるよ」
「分かった。がんばってね」
ひらひらと手を振る姉ちゃんを尻目に、俺は早速履歴書を買う為に自分の通学カバンに入れっぱなしにしていた財布を手に取り、コンビニへと向かった。
翌日、東京都目黒区の高層ビルが立ち並ぶ間にこぢんまりと伸びる、細い道路の最奥にある行き止まり地点の場所にて、俺の目の前で小太りのオッサンが壁に両手をつきながらつぶらな瞳でこちらを見ていた。
バレエで使うような白鳥の衣装を着て。
「…………」
そのまま彼の下腹部の方に視線を移動させてみると、なぜかおでんの中に入っている筈の巾着が真ん中から貫通してその白鳥の首にぷらーんとぶら下がっていた。
しばらくの間、気まずい空気が辺りに流れていく。
やがて、バレリーナの姿をしたオッサンが徐に口を開いた。
「何見てんじゃワレェェ‼」
なんか、初対面の変態に啖呵を切られたんだけど。
その妙な空気感に耐えかねた俺は、今着ている青色エプロンのポケットから黒光りする一丁の拳銃を取り出し、目の前のオッサンにそれを突き付けた。
「ひいぃぃ!」
拳銃のヘッドを起こす。
「わ、分かった! 俺が悪かった! だから、や、やめ……」
パンと、軽快な音が俺の手の中の銃から発せられた。
そしてその銃口から発射された巨大な網が、オッサンを捕獲する。
「ヒイィェェア‼」
金切り声を上げたオッサンは何とか抜け出そうとジタバタもがくが、それが叶う筈もなく、余計に絡まってそのまま地面に転がった。その後もオッサンは地面を転げ回っている。
「嫌だ、イヤだ! 助けてくれ! 死にたくない!」
「……いや、何? この状況」
そんなことを思いながら、俺は今朝、例の精肉店の店長が仕事内容の説明をしていた時の様子を思い出していた。
☆
「やあ、よく来たね。君が姫野瑞樹さんの弟君かい?」
「は、はい。姫野悠太です。よろしくお願いします」
「娘が世話になっているね」
「い、いえ、こちらこそ……姉ちゃんがお世話になっています」
「ははは、緊張しなくてもいいよ」
生肉特有の変わった香りが漂う店内で、どこにでもあるような何てことない会話が周りに響いていた。
現在、俺は久楽持精肉店と呼ばれるお店の奥に通され、長机とパイプ椅子が置かれた会議室のような所で面接を受けていた。相手は人が良さそうなおじさんで、恰幅がよく、いかにも精肉店をやっていますといった雰囲気を醸し出していた。
「ああ、ごめん。自己紹介がまだだったね。えー、店長の久楽持昭弘です」
そう言って店長は、エプロンの胸ポケットから一枚の名刺を取り出し、俺に差し出した。
「あ、どうも」
恐々とそれを受け取り、そそくさとジーンズの横ポケットに仕舞い込む。
「で、今日の仕事内容なんだけどね、うちで飼っていた鳥達が急に脱走しちゃってね、君には、その鳥達を捕まえて連れ戻してほしいんだよ」
「鳥ですか……」
新鮮なお肉を提供するために飼育していたのだろうか。こだわっているのだな。
「それと君と一緒に働いてもらう人なんだけどね、ちょっと――」
「お父さーん、そろそろ時間なんだけどさー、例のバイトの子ってもう来――ショターーーン‼」
「うひゃぁぁあ‼」
突然の奇声が聞こえて、ビクッとすぐさま入口の方に目を向けると、その場でなぜか独りバックドロップをかましている一人の少女がいた。あれ、頭ぶつけていないのだろうか。大丈夫かな。
と思ったら、彼女はそのブリッジに近い体勢から急にぐわんと起き上がり、すたたーと黒いG並の速さでこちらに歩み寄ってきた。
「きゃわい〜〜。ねえねえ、君、今何年生?」
「え、えーと、高校一年です……」
「いちねん! イチネン! ピッカピカの! うへへへへへー」
「店長、この人頭大丈夫ですか?」
「ネジが十本中十本抜けちまっているな」
「それ、絶望的じゃないですか!」
「ブバァァア! ありがとうございます!」
もう、この人怖いんだけど。いつの間にか鼻から血を噴いて倒れているし。
「そうだ。話を戻すけど、私のむす……この変態と一緒に行ってくれないかな。急募かけても思ったより集まりがよくなかったからね」
「わかりました。この姉ちゃんのとも……変態と出かけて来ればいいんですね」
「うん。何かわからないことがあったらそこの変態に聞いてもらっていいから」
☆
「で、今に至ると……」
未だに目の前の変態バレリーナが命乞いしながら地面を転がりまわっていた。うん。どうしてこうなったのだろう。
と言うか姉ちゃん、この仕事紹介する時になんだか妙な表情していたけど、こういう仕事内容だと知っていたのだろうか。知っていてこの仕事を勧めたのだろうか。
そんなことを考えていると、不意に背後から人の気配がした。振り返ってみると、向こうから俺のと同じ精肉店のロゴがプリントされた、ピンクのエプロンを着た大学生くらいの女の子がひらひらと右手を振りながらこちらに歩み寄ってきた。
「お、悠太君。今のところの成果はどうかな?」
「丸一日かけて問い詰めたいことが山ほどあるんですけど、ひとまずぼちぼちやっています。貴女はどうですか? 久楽持変態さん」
「ごめん! 謝るから地味に傷つくから変態呼ばわりはやめて! あと、あたしの名前は美里だよ」
「分かりました。変態美里さん」
「そっちじゃない! 訂正する場所はそこじゃない!」
美里さんは全力でシャウトした後、「はあ……」と、疲れたのか全てを諦めたような表情になり、とぼとぼと俺の前を通り過ぎていった。
「まあ冗談はともかく、向こうにおじさんを一人確保しましたけど」
「おー、早速一羽か。早いね」
かなり立ち直りが早い彼女はそのままズンズンと前進し、網に絡まったオッサンの足を掴んで、そのままズルズルと引きずりながら戻ってきた。
「ちょっと、ちょっと! オッサンの扱い酷くないですか?」
「え、オッサン? 誰のこと言ってるの?」
「え……いや、この人……」
「人? これはただの鳥だけど」
「え〜…………」
なんだろう。真顔でそんなこと言われると、なんだかこちらが間違っているような気がしてくる。僕だけだろうか。
しかも鳥って……つまり、これが我が家の食卓に並んでいるのだろうか。違うよね?
「あ、あそこに獲物が」
「ん?」
突然、彼女が後ろの方を指さしたのでつられて咄嗟に後ろを振り向いた、その時――背後からスポッと、白鳥の頭を付けた浮き輪のようなものを頭から腰まで通された。
「……え?」
「ア―ハハハハハ! まんまと私の計画にはまってくれたわね」
「……えーっと…………」
後ろを振り向くと、恵美さんがこちらに拳銃(の形をした捕獲銃)を突きつけながら、何が可笑しいのか、大きな声で高らかに笑っていた。状況がよく分からず、ある意味身動きが取れなくなる。
「ウフフ、今日からあなたは鳥――私のペットとして全力で愛でてあげるわ……」
「そんな、僕の人権は……僕の基本的人権は尊重されないのですか!」
「諦めなさい。貴方は私が鳥を引きずっている時からずっと考えていた作戦に屈したのよ」
「つまり、今考え付いたんですね」
そんなことを言ってもピンチなのに変わりはない。一体、どうすれば……
その時、カチャンと彼女の腕に手錠がかけられた。チラッと右を見てみると、いつの間にかありきたりな雰囲気のお巡りさんがトランシーバー片手に厳しい顔をしていた。
「えー、午前十時三十五分、二十歳前後の女性を銃刀法違反の疑いで現行犯逮捕」
「ちょ、ちょっと待ってください! これは違うんです!」
「まあまあ、詳しいことは署で聞くから」
あーれーと言いながら、恵美さんはズルズルとお巡りさんに引きずられていった。た、助かった。
「あ、あとそこの君と倒れている貴方もついてきてくれるかな? 主にその服装について聞きたい事があるから」
「あ、ハイ……」
うん、もうしばらくはバイトやめよう。
僕もお巡りさんに引きずられながら、心の中でそう決心した。
この物語はフィクションです。登場する人物・団体・施設等は、全て架空のものです。間違えても、川口市には脱走した鳥を狩猟する文化等は存在しません。