犬鏡外伝 Confidence ―秘曲―
秋の夜長、降りそぼつ雨。
雲のむこうでは、東の空に下弦の月が昇るころだろうか。
基氏は唐櫃から、亡き父に譲られた笙をそっと取り出した。
武州岩殿山の城砦、宇都宮氏との合戦を間近に控えた晩だった。
かたわらの火鉢へ、笙をかざす。
繊細なこの楽器は湿気を嫌い、演奏の前や最中に、こうして温めてやらねば音を狂わせると、父から最初に教わったことだった。
笙の手解きは確か十二歳のころ。
生まれて間もなく叔父直義の養子となり、十歳で兄義詮に替わり、関東の主として鎌倉府へ下向した基氏には、実父尊氏との思い出は乏しい。その彼にあって、父との濃密な時間を得たのは、皮肉にも父と叔父の争いの故であった。
直義の死について、親子は互いに口にすることはない。ただ、敬愛する養父との間で心を引き裂かれた息子へ、尊氏のいたわりは何かの贖罪めき、そんな親子の仲立ちとして笙の笛があった。
在京中、笙をたしなんだ尊氏は、自ら息子へ稽古を付けた。鎌倉での二年間、父子としての短くも凝縮された時間を過ごす。
尊氏は再度の上洛に、上野・越後に潜む宮方の勢力を警戒し、武州入間川へ陣を置くよう命じた。
基氏は入間在陣中も笙を手放さなかった。
父が教えを受けた鳳笙師、豊原龍明の次男成秋を呼び寄せ、笙の淵底を極める。
また、鎌倉に帰ってのちも、豊原氏嫡男の宣秋を下向させ、尊氏が伝授された秘伝の曲を相承する。
秘曲『荒序』――
南北朝時代の北斉の皇族に、蘭陵王という武将がいた。
類い希な美貌ゆえ、相手に見くびられぬよう仮面を被り、敵軍を撃退したという。
その様さまを写した舞楽『蘭陵王』は日本でも馴染み深く、荒序は舞曲の序の一つである。秘曲ゆえ豊原氏以外の者が余人へ伝授することは許されず、東国にあってこの曲を奏でられる者は限られていた。
亡き父と自分を繋ぐもの。
楽器は毎日触れていなければ、勘が鈍る。
父から譲られたものを失わぬために、基氏は毎日笙を手にした。例え、それが合戦を明日に控えた夜だとしても。
欠けたる円環に立ち並ぶ、十七本の竹の管。
その内側に小指を差し入れ、温もりを確かめる。
彼と同じ所作を行う者がもう一人、この部屋にいた。
高坂こうさか兵部大輔ひょうぶのたいふ氏重うじしげ。
伊豆国守護にして侍所所司を勤める彼は、二十四歳の鎌倉府君が最も信頼を寄せ、かつまた、笙をものする武将である。尊氏と同じ豊原龍明を師とし、やはり秘曲を伝授されていた。
平一揆の一翼を担う氏重は常に廂番(親衛隊)として基氏とともにあった。
河越の太郎、高坂の次郎、豊島の三郎・・・・・・
平氏六族とあるが、なかでも高坂氏は文武両道、学識と教養を忽ゆるがせにしなかった。基氏は一揆の筆頭河越氏を伊豆より格上の相模国守護に任じていたが、教養人としての洗練さから、密かに氏重を重んじた。
この岩殿山に陣をとったのも、高坂氏の本城が間近にあることが大きい。
基氏と氏重は、灯台のか細い光の中、互いの呼吸を確かめ合った。
背筋をまっすぐに伸ばし、肘を肩幅より少し開く。
そして、おもむろに吹き口へと唇を運ぶと、神韻を帯びた笙の音が部屋中に響いた。
だがそれは、二人の心の中でのみ―――
笙の音量は他の楽器に比べ、大きくはない。しかし、遠くまで鳴り響く性質のそれは、合戦の前夜にあって憚れた。
無音の音。
吐く息と吸う息とで簧したを振るわせ、生み出されるはずの音色。
無奏の奏。
思うさま奏でたいという気持ちを堪え、目をつぶり、小さな孔から孔へと指を動かす。
すると次第に聞こえてくるのだ。
切れ間なく続く和音。
天上の雲間から幾筋いくすじとなく差し込む日の光にも似た――
十七本の竹管は、その光の音色の一つ一つを束ねた容かたちに覚える。
けれど、今宵のような雨夜には、むしろ音なき調べが適かなっていた。
一つの曲が終わり、また次の曲へ遷る。それを、氏重は基氏から指示を受けるでもなく、主の呼吸やわずかな仕草で曲を察し、奏を合する。
言葉など不要だった。
こうして半刻も過ぎたころであろうか。最後の曲は決まっていた。
秘曲『荒序』。
父と子の絆は、基氏と氏重、主従の絆でもあった。
「――音無しの楽奏は、寂しゅうございますか」
氏重は笙を火鉢で温めながら、主に尋ねた。
笙は仕舞う前にも湿り気を払わねばならず、同じ所作をしていた基氏は、その手を止めた。
「いや、今はいかなるときか弁わきまえている。ゆえに、他の者に気付かれぬよう手に触れるだけで十分だ。しかし、そなたの音色が聞けぬのは残念であるな」
急襲に備え、二人は鎧直垂に小具足を付けていた。
「私こそ、殿の音色を聞けず、残念にございます。もっとも殿が笙笛に息を吹き込みましたなら、その音に誘われて鳳凰が現れかねません。さすれば、敵に居場所を教えるようなものです」
唐からの国の故事にちなんだ喩えに、
「鳳凰とは、随分と世辞がうまいものだ。しかし、瑞兆として現れる彼かの霊鳥が、果たして私のような者のもとへ訪れるものだろうか」
苦笑しつつ基氏の瞳が翳ったのは、灯台の炎の揺らめきのせいばかりではない。
父が関東にあったころ、外様の大名の力を借りねば、敵対勢力を東国から駆逐することはできなかった。
だが、今は違う。
有力な大名は、幕府にとっても、鎌倉府にとっても警戒すべき存在だった。
大事に至らぬうちに牙を抜け、爪を抜けと京からの指示を受け、関東執事上杉氏の復帰にかこつけ、宇都宮から越後の守護職を奪ったのだ。
宇都宮からすれば、これまでの恩義を踏みにじるようなものである。
彼らの反抗は予想されたことだ。
そして、宇都宮が南朝の残党と連携するといっても高たかが知れている。
彼らの挙兵は、その瞬間から敗北が決まっていた。
実際、この岩殿山での合戦に宇都宮氏は敗れ、翌月には全体の勝敗が決する。鎌倉勢の前線基地として北上した小山祇園城へ、当主宇都宮氏綱は降伏に参じる。全ては一門の後見役芳賀はが禅可ぜんかの所行として手打ちとなり、宇都宮氏は家督と本領の安堵と引き替えに、広大な領地と諸識を失うのだ。
日本ひのもとを二分して、その東の一方を鎮護する鎌倉府君、足利基氏。
彼は、自らの運命を受け容れるかたわらで、その立場を厭い、笙を始めとする文雅に心を寄せる矛盾を自覚していた。
基氏の生涯は常に二つのものに引き裂かれていた。
実父と養父、京と鎌倉、文と武、そして――
彼の瞳はいよいよ沈む。
笙のさらいは束の間でも基氏の心遣りであった。
氏重は主の胸の淀みに気付かぬ振りをする。
「お身体に触ります。今宵はもうお休みになられてください」
努めて明るく挨拶を述べ、退出しようとした家臣を、
「待て」
基氏は引き止めた。
「……もし、私に何かあったときは、我が笙を、嫡子金王丸に授けてくれぬか」
勝つと知っている合戦に何を憂いたか。
しかし、主の憂いは明日の合戦にはなかった。
「……承知、致しました」
『笙』とは、ただ器だけをいうのではない。
氏重は主の胸の底を見た。
「……殿も私に約束してくださいませ。私に何かありましたときには、我が子へ笙を伝えてくださると」
基氏もまた臣の胸の底を見た。
「相わかった」
うなずき合う二人には予感があった。
戦いとともに生きる武人は、それを終わらせる術を持たぬ。
常に敵を、討つべき敵を探し求める。
先年基氏は、東国武将から離反を招いた前執事、畠山国清を氏重に討たせた。伊豆国守護を兼任していた国清は当地へ立て篭もったが、彼に味方となる者はなく、抵抗らしい抵抗もできずに逃走し、守護職は戦功の報賞として氏重へ与えた。
国清は基氏の妻の兄であった。
今味方としてある友人が、主従が、後の世に、子らの代に、敵同士にならぬ保証はないのだ。
それでも・・・・・・
――ただ今だけは、我らの朋義を信じていたいではないか。
鎌倉府復帰を果たした執事上杉氏と、旧来の廂番たる平一揆。
両者の関係を危うい均衡で保っていた府君足利基氏。
彼の死をもって関東の静謐が破られたのは、この夜の僅か数年後だった。
そして、二人の予感に違わず―――
岩殿山を攻められた高坂一族は歴史から姿を消し、宿命さだめのように秘曲は、彼らの子孫に受け継がれることはなかった。
―了―