三題小説第四十一弾『陰謀団』『人混み』『公園』タイトル「dogs」
リュウってのは気の良い奴だ。僕の知る限りあいつより優しい奴なんていない。簡単に連帯保証人になってくれるような、そういう優しさじゃない。僕の代わりに借金取りをぶっ殺してくれるような、そういう優しさだ。
面倒見も良い。あいつの部下やら舎弟やら、どういう言い方をしているのかは知らないけれど、そういう奴らも今や四、五十くらいに膨れ上がっているらしい。数えた事はないから正確な所は分からないけど。直接的に血の繋がりの無い奴でもリュウを慕う奴は大勢いる。あいつを慕う若い奴らはあいつの言う事なら何だって聞くようだ。それこそ借金取りをぶっ殺すのも朝飯前だろう。僕もリュウも借金なんてしていないけど。
それに脚が早い。重要な要素だ。小学六年生にもなって五十メートル十二秒台の僕とは体の造りからして全く違う。月とスッポン、鯨と鰯、コークとダイエットコークだ。生まれながらのスプリンター。モーターでも積んでんのかって速さだ。
そんなリュウを僕も慕っているし、そんなリュウは僕を慕ってくれている。
きっかけは、いじめ。あるいはコッペパン。
僕がリュウにコッペパンをあげると、リュウは僕に懐き、いじめっ子の喉に食らいついた。幸か不幸かいじめっ子の命は助かったが、僕はその後二度いじめっ子の襲撃に遭い、二度ともリュウが追っ払ってくれた。
「ありがとう」
「ありがとう。リュウ」
「リュウ。ありがとう」
僕は三度とも感謝の言葉を述べたが、リュウは何とも思っていないようだった。リュウはそういう奴だ。
それ以来イジメに遭う事は無くなった。少なくとも直接的な暴力は無くなった。ただし僕は子供の社会から切り離されることになった。
皆が皆恐れた。僕、の周りをうろつくリュウを恐れた。虎の威を借る狐に過ぎないかもしれないが、僕の些細なプライドは勇気でコーティングする事なく守られた。
でもリュウはそんな事を気にしていなかったので、僕もまたそんな事は気にしない事にした。リュウは気に入らなければ噛みつく。僕もそんな姿勢に憧れた。だから今は牙を磨く。ナイフ形石器のような牙を磨く。これは比喩だけど。リュウの牙は比喩じゃない。牙というか犬歯だ。これも比喩じゃない。リュウは犬なのだから、その顎に生えているのは全て犬歯だ。
僕達は走る。人のように犬のように。
牙のように鋭く突き出された手が財布を引き抜く。犬じゃない上に子供な上に、子供の中でも鈍い僕はその小ささを目いっぱい利用する。このような地方都市でも時間と場所を選べば人混みが発生しているのを見つけられる。それはスリのホットスポットだ。
「行くよ。リュウ。いつもの手順だ」と僕が言い、リュウが聞く。
まず僕が間抜けな人間から財布を抜き取る。これはリュウにもリュウの舎弟たちにも出来ない。仲間内では唯一両手が自由な僕にしか出来ない。
そしてその財布をすぐにリュウか他の犬に渡す。するとそいつが風のような犬のような速さで逃げていく。
我ながら見事なコンビネーション、チームワークだ。僕の手の器用さとリュウの足の速さを組み合わせた最高の作戦だ。
「後は頼んだ。いつもの場所に」と言う頃には僕の言葉が届かないほど遠くまで、犬達は走り去っている。
それらの金はある場所に運ばれていく。
丸罰山県立自然公園。県の北東部に位置する歩歯牙田市の丸罰山を中心とした領域。最高点は参画死角峰の二千五百七十二メートル。三つの湖沼と四つの滝の景勝地を有している。しかしそのほとんどが北から南西に集中しているので、残りの領域に僕達は陰謀団を作った。団長はリュウ、僕が参謀だ。
連れてきた団員達が皆帰った。団員の数だけ財布をすった。つまり今日の仕事はお終いだ。日はとっくの昔に暮れなずみ、酔っ払いどもがそこいらでゲーゲーやっている。カモがネギしょって味醂と酒と醤油の風呂で半身浴しているようなチャンスだけど諦めるしかない。何たって僕は脚が遅いからね。ネギしょってるくらいじゃハンデにならない。
「今日はこれくらいにしよう。大漁って程じゃないけど上出来だ。何より誰も欠けなかった」
楽しげで寂しげな夜の街に僕の言葉が融けていく。
帰路につく。コンビニに寄って夕食を買う。ネオンとゲロで彩られた繁華街。シャッターと閉店のお知らせで賑やかに飾り付けられた商店街。それと住宅街。
それらを抜けて丸罰山に入る少し手前、街の明かりは遠くなり、最後の街灯に照らされた女に遭った。
「こんにちは」と、女は言った。
「あ、すみません。こんばんは、ですね」と、また女は言った。
「天狗丸君、ですよね?」と、さらに女は言った。
「もしかして喋れなかったり?」と付け加えて女は言った。
見覚えのない女だ。年の頃は同じくらいだけど、下ろしたてのようなしゃっきりしたスーツを着ている。前に垂らした三つ編みの先を弄ぶ。小さな紙袋を持っている。返事をしなくても、無視して横を通り過ぎようとしても、柔和な微笑みを保っている。
春の夜気に僕は身を縮める。見知らぬ女に構っている暇はない。女に一瞥も暮れる事なく。山へと入っていく。
「待ってください。天狗丸君。ご両親も学校の先生も心配されていますよ?」
思わず振り返ってしまう。一瞬頭に血が上ったけど冷静になる。怒って得する事などこの世には一つもない。
「あんた誰? 児相の人?」と、僕は低く唸る様に言う。吠えてはいけない。
ただじっと見つめる。警戒を怠っていない事を示す。
「あ、すみません。申し遅れました。私保健所の者です」
女が差し出してきた名刺を受け取る。
歩歯牙田市 保健所 衛生課 機械化強襲制圧班 班長 渡辺ベアトリス
「トリスちゃんと呼んで下さい」と、渡辺は言った。
保健所という事はリュウ達の事だろう。それもリュウ達にとって良い事ではないだろう。
「トリスちゃんね。それじゃあ児童相談所に通報される事は無いわけだ」
「ええ、そうですね。家出児童の保護は私の仕事ではありませんので。今のところは。もちろんスリ犯の捜索も」
何もかも知られているようだ。
「じゃあ何の用? 見ての通り忙しいんだけど」と、まるで分からないかのように僕は言う。
「悪いニュースと悪いニュースがあります。どちらから聞きますか?」
渡辺の微笑みは一切崩れない。そういう仮面を張り付けているかのようだ。
「より悪いニュースから聞くよ」とため息をつきつつ言う。
「はい」と言って渡辺は軽く咳払いする。「天狗丸君が何か下手な事を考えれば丸罰山に巣食う野犬は皆殺しです。これは市の衛生を守る為の最終手段です」
その能面のような微笑みの内に殺意が潜んでいる。それも悪意や憎悪とは無関係の仕事としての、役割としての、より原始的な本能に近い殺意だ。
「犬達の中に病気を持っている奴がいるって事?」
「しらばっくれないでください。ツイートマン君」と、表情を変えずに渡辺は言った。
冷静に。冷静に。冷静に。
「未だに癖治ってないみたいですね。むしろ悪化したんじゃないですか? 一人ぼっちになったからかな。念のために聞きますけど犬と話せるなんて事は無いですよね?」と言いながら渡辺は首をかしげる。幼子にでも問いかけるように。
「もう一つのニュースは?」と、僕が言った時、渡辺の微笑みが少し崩れかかったのを見逃さなかった。返事を返さないのが割と効いているらしい。
「犬達を生きたまま保護するのに協力して下さい。我々も手荒な真似はしたくないんです。人件費も抑えたい。役所とてコストカットは至上命題なので」
「どの道殺すなら手間のかからない方法が良いって事か。市民目線の親身な対応だ事で」
「いえいえ。必ず死ぬとは限りませんよ。引き取り手が見つかるかもしれませんからね。なんなら天狗丸君も家に帰ってご両親に頼めばいい。中々裕福なご家庭ですし、一匹くらいは飼えるでしょう?」
経済的に飼えるかどうかは無関係だ。どうせ皆を死なせてしまうならいっその事……。
「よーく考えてください。天狗丸君の大それた陰謀など国家権力の前には子供の遊びです。成功する可能性は0。我々が使えるカードは数限りなくあり、あなたが使えるカードは我々が提示した二つだけです。切り札はもうありませんよね? 何故なら我々が封じたからです」
「別に僕の言う事なら何でも聞くってわけじゃない。リュウがボスだ。僕が出来るのは命令ではなく提案だ。彼らを陥れる事なんて出来ない」
「いいえ。出来ます。野犬、野良犬とはいっても餌付けているでしょう? そして天狗丸君、あなたが与えた餌しか食べない。でしょう?」
そんな話は知らない。確かに僕が餌をやっているが他の人間が餌を与えれば食べる、わけじゃないのか?
というか、つまり、毒。古典的な暗殺方法だ。彼等の晩餐の席で事に及べ、と。
そうか。既に試しているという事か。毒入りの餌を与えてみたんだ。だけど食べなかった。
僕は呆れて渡辺に言う。
「馬鹿じゃないのか? 犬だぞ? 人間の一億倍の嗅覚をもっている事くらい知っているだろう。毒なんてすぐにばれる」
しかも衛生課の人間だ。
「勿論です。この薬が犬にとってすらムミムシューである事は既に証明されています。悪しからず。それに毒だなんて人聞きの悪い。回収しやすいようにちょっと眠らせるだけです。処分にも正規の手順がありますからね。猟銃でズドンも正規と言えば正規ですけど」
渡辺が街灯に照らされた円から進み出る。そして僕の胸に紙袋を押しつける。
「さあ、勇気を出すときです。天狗丸君。私達は君と同じ人間で、味方なのです。あなたはまだ何者にも立ち向かっていない。猶予は夜明けです。賢明な判断を願っています」
渡辺は僕に紙袋を持たせると頬笑みを解いて、振り返り、「あとお風呂入った方が良いですよ」と言い残して去っていった。僕はそのシルエットが夜の街の輝きに溶けるまで見つめていた。
憎き人間と話すのは久しぶりだという事に気付いた。
「犬達を殺す? とんでもない話だ。勇気を出せ? 勇気を出すとしてもお前らには従わないっての」
獣道をペンライトで照らし、ひとりごちながら突き進む。歩きなれた道だ。ライトが無くても問題ないだろう。暫く行くと大きな沼のほとりに出る。波一つ立たず二、三の星を映す鏡面のような沼だ。そこには小さな薄汚れた掘立小屋があり、脇にレトリーバーの血を引いた雑種の犬が寝そべっている。リュウだ。
僕がやってくると鼻を鳴らして駆け寄ってくる。僕の周りを何周も駆け巡り、見慣れぬ紙袋を嗅ぎ、だが興味なさそうにして、また掘立小屋の脇に座る。薬の存在に気付いたのか、さらにはその意味を察したのか、僕には分からない。
埃っぽい掘立小屋に入り、隅に紙袋を放り投げる。山積みにされた餌袋の中から二袋を抱えて小屋を出ると、犬の数は十を超えていた。普段犬達はこの山の人間が入ってこない領域で思い思いに過ごしている。沼の周囲にいた彼らは真っ先に僕に気付いた訳だ。
地面に真っ直ぐに犬の餌でラインを引く。誰も勝手に食いついたりはしない。十メートルくらいのラインを引くと、静まり返った夜の山の森の奥に目がけて指笛を吹き鳴らした。鋭い音が寂しい沼の上を何度も反響する。二度、三度と吹き鳴らすと、沼のほとりへとあちこちから犬が飛び出してきた。元々沼の近くにいた犬も一斉に動き、餌のラインに並ぶように、子犬も含めて四十八匹の犬が並ぶ。僕もその場に座り、コンビニの袋からおにぎり(シーチキンマヨネーズ)を取り出す。僕と目を合わせたリュウの唸り声と共に食事の時間が始まった。
ここまでするのに二、三年かかった。
からかいから始まった僕へのいじめは止んでも、僕へと向けられる悪意は止まらなかった。むしろリュウの行った暴力によって加速されたといえる。リュウに守られていても、僕の中にはやり場のない憎悪が渦巻いていた。リュウのように破壊衝動のような形で放出したくて仕方なかった。人間達に恐れと惨めさを味わわせたかった。
陰謀はシンプルだ。リュウのような破壊衝動を持つ犬を増やし、街に、人混みに放す。それだけだ。最初はただただ野犬を手なずけるだけだったが、去勢されていない彼らは勝手に増えていった。何か権力闘争でもあったのか陰謀団を抜けてどこかへ行ってしまった犬もいたけど、今や四十八匹の軍団となった。
大きな力を手に入れた気になっていたけれど、それでも事を起こす前に封じられるくらいの力の差があったという訳だ。
食事を終えた犬達の一部は思い思いに、静けさに満ちた山の奥深くへと去っていった。
僕とリュウは掘立小屋の中に入ってボロの毛布の上に寝転ぶ。ぼろい壁の隙間からぼんやりとした町明りが見えている。
渡辺に押しつけられた紙袋を開くと中には携帯電話とビニール袋の中に白い粉末が入っていた。眠らせるだけと言っていたので睡眠薬だろうか。
陰謀を実行に移しても、犬達に薬を飲ませても結果は同じだろう。引き取り手があるかもしれない、などという話は気休めにもならない。
僕にはどちらも選べない。つまり逃げるという選択肢、それしか残されていない。まだそれが残っているだけまだましだ。
リュウのべとついた長い毛並みを撫でる。濡れた土の臭いを嗅ぐ。リュウはゆっくりと尻尾を振っている。
「一気に街に降りて陰謀を実行すれば良い」と、トタンの屋根を見つめながら独り言で嘘をついた。盗聴器か何か知らないけれど、少しでも街の方に集中してくれれば万々歳だ。
眠ってしまった。慌てて小屋を飛び出る。東の空は少し白んでいるがまだ夜は明けていなかった。夜明け前の冷気に身を震わせて周囲を見渡すとリュウがいた。朝靄に沈む麓の町を望んでいる。しかしリュウしかいなかった。
「リュウ」
僕がそう呼びかけるとリュウは振り返る。孤独な瞳が僕を刺し貫く。いつもと同じようにも違うようにも見える。
「リュウ。もうここにはいられない。逃げよう」
リュウは再び振り返り街を望む。
「もういいんだ。リュウ。もう良くなったんだ。他のものなんてどうでも良くなったんだ。僕は戦わない。戦えない」
いずれにしても磨く牙もない。
「リュウ。逃げよう。四十八匹バラければまだチャンスはあるはずさ」
リュウは狼のように遠吠えを響かせた。他の犬か谺か分からないが遠吠えが幾重にも重なる。そしてリュウは振り返る事なく白んだ街の方へ山を下っていった。
僕は慌てて指笛を吹く、出来るだけ強く遠くまで響くように。皆が集まる合図。食事の時間で無くても必ず集まる、はずだった。今まではずっとそうだった。しかし一匹たりとも戻って来ない。
掘立小屋の方から甲高い発振音が聞こえる。紙袋の中に入っていた携帯電話だ。画面に表示された番号が誰の者かは予想がつく。通話する。
「交渉は決裂、なのですかね?」と、電話口の向こうで渡辺が言った。
「何で疑問形なんだ?」
僕は適当な木にもたれかかって眼下の街並みを見下ろした。
「え? わざと教えてくれたのではないんですか? まさか盗聴器に気付いてません?」
「気づいてはいたんだけどね」
「それならそれで薬を使えばいい話ですよね? なんでわざわざこんな回りくどい事を」
盗聴器に聞かせたのはフェイクだったけど、犬達がそのまま実行してしまったようだ、なんて間抜けな事態を説明できる精神力は無い。
「もう良いよ。説明するのも面倒だ。それより銃声が聞こえないけど? てっきり銃殺に処されるのかと」
「ええ。今の所使用していません。簡単な罠に続々捕まってくれています。所詮犬畜生ってなもんです」
その直後銃声が一発聞こえ、ほんの少し遅れて電話の向こうから聞こえてきた。間もなく渡辺の怒声が聞こえてくる。彼女らしからぬ悪態、罵詈雑言が押し寄せてくる。
僕は慌てて山を駆け下りる。おそらくリュウが現れて場をかき乱しているのだろう。その光景が容易に想像できた。慣れた道だが、罠があるかもと思うと上手くいかなかった。下草に足を取られ、細枝に顔を打たれる。
ドロドロになってようやくやってきたそこはまるで戦場だ。混戦状態になっていて保健所の連中も銃を使えないようだ。多くの犬が網に絡め取られているが、まだ自由なものが保健所の職員と格闘している。僕はリュウの姿を探して争いの渦中へ飛び込む。
その姿はすぐに見つかった。ひと際大きな犬が渡辺ベアトリスに迫っている。渡辺もまた猟銃を構えて狙いをつけようとしている。
「やめてくれ!」
僕はリュウに飛びつく。
「やめろ。リュウ。彼らはいじめっ子じゃないんだ。もういいんだ。もう」
「どきなさい。天狗丸君。どの道殺処分は免れませんよ」
「それでいい。それでいいから銃なんておろしてくれ」
「駄目です。君がそう言った所で犬にはそんな事分からない。こいつらは人を獲物か何かとしか考えてないんです。早くどいてください。撃たれたいんですか!」
銃声が響く。熱い血が迸る。しばらく誰が撃たれたのか分からなかった。どうやら撃たれたのは僕のようだ。痛みがどこからやって来たのかもしばらく分からなかった。リュウが今まで以上に興奮して暴れたが僕は今まで以上の力がどこからか湧いてきてリュウを抑えつけた。
「大丈夫だ、リュウ。こんなの何でもないんだ。君が、君達がこれから受けるだろう苦痛に比べたら大したことじゃないんだ、リュウ。だから大人しくしてくれ。受け入れてくれ。許してくれ。リュウ」
途端に風船のように力がしぼんでいくのを感じた。僕自身の力も、リュウの力も小さく小さくなっていった。渡辺ベアトリスが泣いている。リュウも小さく鳴いている。傷から痛みがじわりじわりと広がり熱が失われていくのを感じた。その血をリュウが舐めている温もりを感じる。命が助かったならリュウのように生きよう。誰かと寄り添い、温もりを分け与えられるような。
ここまで読んで下さってありがとうございます。
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おおむね想定通りに書いたはずなのに少しずれてる感がしてむずむずする。