#02 魔神少女と魔王候補
「かつての大国魔導の国、西にある日の沈まない魔王の国ぃ――――」
でたらめにかき鳴らすリュートのリズムを外し、音程無視して歌いだす。しゃがれた喉は苦いエールで誤魔化して、ガハハと笑って肩を組む。
ここは陽気な場所、冒険者の酒場――なのだが、
「それでは面接を始めたいと思います」
「わりと唐突すぎる流れですよお兄さん」
今日は誰も歌ってない。
普段からは考えられないくらいにシンと静まり返った酒場の真ん中、樫のテーブルを挟んで和装の男の目の前にちょこんと座らされた痩躯の少女は声を上げた。
「うち、税務署に事業所登録してるんだ」
「まさかの自営業でした!」
「この仕事で一定以上の所得を得ているから当然でしょ?」
「正論!」
しかしけっこう当たり前のことなので少女も納得する。
「それはそれとしてちょっと圧迫面接すぎやしませんかね、この状況」
異界との接続から帰ってきたいかつい冒険者の集団が、ごくりと喉を鳴らして見守っているのだ。それでもわりと平然としているのは、痩躯の少女からアルコールが抜けきっていないからか。
「おいおい、あれ酒抜けきってねぇんじゃね……?」
「どこのどいつだヘッタクソな回復かけた野郎は」
「おぬし、ワシの神をバカにしとるのか……?」
「ばかやろう、一気に抜いたらあの子がマミーみてぇーにカラカラに乾くかもしれねぇーだろぉーが!」
「おめえ変わり身はぇーよ!!」
外野が帝国語で口論を始める。彼はあきらめたように顔をそらした。
「外野はかぼちゃかじゃがいもだと思ってください」
「あ、はい」
「では名前と、年齢を教えてください」
「あ、はい。岡本結花です。つい先月、十六になりました」
「岡本結花さんの今後の活躍をお祈り申し上げ」
「ちょっとまってくださいお兄さん」
少女は片手で制止し、ほんの少し考えをまとめる。
「えっと、名前言っただけで不採用の流れはひどいと思います。せめてもう少し続けてくれてもよくありません?」
「不採用にする流れは確定してるけれども」
「そこは私の熱意に負けましょう!?」
「だいいち履歴書もらってないし」
「えっ、履歴書必要なんですか?」
「税務署に届け出る必要があるので」
「あ、なるほど……っていうか、別にお兄さんのところに就職する必要なくないです? なんか私、お兄さんのところに就職できなかったら諦めなきゃならない的な流れになってる気がするんですが」
「ははは、そんなわけないでしょうに」
言って、男はドワーフの娘に顔を向ける。
「オルガッ! ちょっと酒抜きすぎだろ!」
「そうは言うがな、おまえさん。ワシ以上の奇跡使いがおらんのはもちろん、そう細かい制御なんぞ無理なのは知っておろ?」
「よし、ちょっと待っていろ。今から私が極上のミルク割りを」
「アホか」
「なんだと差別主義者が!」
「おいおい君たち、喧嘩なんてしている暇はないだろう? はやくそのリトルレディを説得しないといけないんじゃあないのかい?」
「さえずってんじゃねぇーよくそエルフ!」
「ちょっと君たち! この僕に対して最近やたら辛辣じゃないか!?」
「うるせぇー! てめぇーのせいで贔屓にしてたマルガリッテちゃんが……マルガリッテちゃんが……!」
「あー、寝取られですわ。これ」
「いわれのない誹謗中傷だよそれは!」
「おーし、イケメン気取りのエルフのナンパ野郎を魔女んところに放り込めぇー!」
「こ、この展開! 今日で二度目だぞぉおおお!!」
「ガハハ、あの世で悔い改めるんだなぁー!」
「う、うわぁあああ――――――!」
複数人の男に担ぎ上げられ、エルフの男はドップラー効果の利いた悲鳴を残して酒場を離脱していく。
「…………なにか、あったんですか?」
「痴情のもつれですね」
助けた仲間をあっさり見捨てる。
「とりあえずあなたの熱意に負けましたので、面接を続けたいと思います」
「あれ、私お兄さんのところに就職しないといけない流れです?」
「就職したほうが有利ですよ」
「ならいいです」
少女の思考能力は若干落ちていた。
「えー、わが社は日本を本拠地として、事業所の所在地も日本で登録していますが、勤務地は基本この酒場を中心に、依頼によっては数日かけてという形態をとっております。なので結花さんの勤務地までの通勤時間と方法と」
「…………?」
「結花さんはどうやってこっちに来たの?」
「あ、私って霊感強いらしくて。近くの神社から」
「ああなるほど、"異界渡り"…………それ密入国ですよね?」
「あー、前科ついちゃいましたねー。ちょっと試したかっただけなんですけどねー、あー、もうこれ退学かもしれませんねー。これもーしょうがないですよねー、冒険者になるしかないですよー」
この少女、間違った意味のほうの確信犯である。
○
「面接の結果は追って連絡します」
定型文で少女を国に追い返すと、冒険者たちはその場にぐったりと崩れ落ちた。おそらく害獣の大量発生に駆り出された時のような重い疲労感が彼らの全身を包み込み、
「あとは任せた……」
で、ひとり、
「責任とっとけよバカ」
で、またひとりと去っていく。
「……今日はちょっと疲れた。もう店じまいにするぞ」
酒場の主人までもそう口にする始末だ。
続々と帰ってくる脚に宿の主人が「何があったんだ」と目をむいて問いかける。
しかし誰一人として詳しく語らず、口をそろえて「いろいろあったんだよ……」としか返さない。
その様子はまるで「おかえり」「ただいま」と返しているかのようでもあった。
「……え、なに、誘ってるの?」
「あほう」
もういい加減何もかも投げ出したいというときに、部屋の前までついてきた矮躯の女に軽口をたたく。彼女は呆れたように返した。
「ああよかった。大平原相手じゃさすがに勃つもんも勃たんし」
異文化交流のしすぎで一族の誇りとかのたまって女すら生やしていた立派なヒゲやだんご鼻を失った、いまどきの風潮で育ってきたドワーフの娘は小さな拳で男の太ももを殴りつけた。
「わりと痛いぞ」
「あほう!」
ドワーフ族は矮躯であるものの非力ではない。うるさいやつに椅子を投げつける程度には彼女も血の気が多いほうだが、この程度ですんだのはここが宿屋であり彼女にそこそこの自制心が残っていたからだろう。
「あの娘、どうするつもりじゃ?」
「どうするもなにも、"異界渡り"の時点でわりと面倒くさいでしょ?」
彼らは条件さえそろえば割とホイホイ異世界に旅立つことのできるかなり便利な能力者だ。昔は召喚されたり神隠し的なナニカで偶然転移してきた者がそれに目覚めることが多く、世界の危機的なものを救ったら別の世界の危機を救いに旅立つという大英雄的ムーブをするすごいやつらもいた。
最近では異界――今回の場合は岡本結花――から旅行しにきたら目覚めてしまったパターンもそれなりに多いように感じるが、しかし絶対数はかなり少なく片手で数えられる程度しかおらず、そのためどういった者がその能力に目覚めるかは、いまだに判明していない。
こういうのを契約で制御できるのが魔神使いという魔法技能職なので、その名称や魔神とか呼ばれている邪悪な眷属っぽい外見の者と契約を結ぶくせに宗教組織からは放置されている。迫害するのは人権組織だとかそのあたりの狂信者だ。
なお、いないと困るし字面がひどいから迫害されるんだということで召喚士とかそういう名前にしようという運動は昔から行われてきたが、見ての通りなかなか実を結んでいないのが現実である。
「とりあえず今回の転移は事故ってことで処理してもらって、アスタリッテに、ダメならほかの魔神使いに契約書書いてもらって、向こうのご両親と相談して……」
「ん、がんばるんじゃぞ」
「ちょ、おま」
「ワシ、日本語できんもん」
「やめてくれよ、日本は自称プロ市民の多い国なんだぞ」
猟師として害獣駆除しただけなのに自称プロ市民が「生き物を殺すな」「おまえは人間のクズだ」とかそういう罵声を浴びせるのが放置されている国である。猟師に石や腐った卵を投げたり昼夜問わず騒いだり、柵や網や罠などの商売道具を破壊したりと、こいつらなんで警察にしょっ引かれないんだろうと思うことも多々ある国である。
ちなみにこれらは日本の法律における名誉棄損、暴行、傷害、器物損壊、威力業務妨害および迷惑防止条例等違反だ。懲役刑もしくは罰金がすごいことになる。
「アスタリッテを連れていけばよかろう」
「こういっちゃなんだが、あいつ痴女だし」
「あー、やはり痴女がネックか」
「たぶん真っ先にしょっ引かれる」
見る角度によっては全裸、とまでいってはいないのが救いだ。
「まぁアスタリッテはともかく。岡本さんはなんとか口八丁で丸め込んで、せめて成人――ハタチになるまでこっち来れないようにするのが一番だろ」
「あと四、五年といったところか。ま、妥当じゃろ」
学生だし女の子だし、たくさんの友達と一緒に恋に勉強にと忙しく四、五年も離れていれば精神的にも社会的にも安定して冒険者になりたいという気持ちはとりあえず薄れるだろう、という判断であった。
「じゃ、がんばれ」
「ほんとになにも手伝う気ないなお前」
「おまえさんならきっとうまくやってくれると信じておるよ?」
ひらりと手を振って、
「寝る」
「このやろう」
「なっはっは」
小気味よく笑い、ドワーフの娘は宿の奥へと消えていく。
「…………しょうがねぇ、アレんところいくか」
手伝ってくれないドワーフ娘の背を見つめながら、男は嫌そうな顔を浮かべた。
○
「ふふふ……あはは……あーはっはっはっは――――!」
「見事な三段高笑いでございます、お嬢様。しかしながら夜中にそう大きな声を上げられるのはいかがなものかと」
たれ目ながら眉の吊り上がった、気の強そうな金髪巨乳の縦ロール娘が高笑いを上げると、無表情な黒髪ショートボブのヴィクトリアン風メイド女がすげなく応じた。
「かまいませんわ」
「お嬢様はかまわないでしょうが、しかしながらこの宿は安普請でございますよ」
「今時分の隣近所は酒場で飲めや歌えやの大騒ぎ、それくらい確認していてよ? ふふふ、今この世に、この魔王に逆らうものなど存在しな――――」
どん! どどん! どんどん!
「――――ひぃ!」
四方からの壁殴りに、お嬢様の短い悲鳴が上がった。
「鮮やかにフラグ回収をしてみせるとは、さすがですお嬢様」
「別に好き好んでやったわけじゃありませんわっ!」
「しかしながらお嬢様、お嬢様は先代魔王様のご息女様の従妹ですので確かに血をひいてはいらっしゃるでしょうが継承権は非常に低いものでは?」
「あの大戦でみな死んでしまいました、ならば巡り巡ってわたくしが、そう、わ・た・く・しが! 継承するのは当然の帰結!」
「なるほど言われてみればそうですね。自分の不明を嘆くばかりです」
「お――――ほっほっほ! そうでしょう、そうでしょうとも!」
口に手を当て背を反らす。
高飛車お嬢様特有の笑い方であった。
「しかしながらお嬢様。お嬢様のキャラクター的にはイマドキのジャパニメーションでは真っ先に倒される四天王の最初の面汚しでその後チョロインのように理由不明の一目ぼれ描写を挟んで仲間になるも主人公とテレビの前の大友さんたちにラッキースケベをご提供しつつ真っ先にヒロインレースから脱落するエロ担当って感じですよね」
「あなた自分の主人をこき下ろして従者の自覚がございます!?」
「ははは御冗談を。わたくしマルガリッテはちょっと自分の肺活量に挑戦したくて意味のない長台詞を口にしてしまうちょっとおちゃめな無表情系メイドにございます」
おちゃめを自称するにはいささか無表情にすぎるというか、身じろぎ一つしないのはいかがなものか。
「ほんとうに?」
「もちろんでございます。名前がエリザベスで語尾で『~ですわよ』の金髪縦ロールがメイドさえ引き連れればお嬢様っぽくなるだろうなという安直な理由でもって作られたかのようなテンプレどおりのお嬢様を心よりおしたおしたい申し上げております」
「やっぱりあなた私のこと嫌って――――…………ごめんなさい今なんて?」
「それはそれとしてお嬢様、かの日本人曰く耳鼻科にいって耳掃除をすると世界が変わったかのようによく聞こえるとのことですので耳掃除いたしましょうか? 私の膝枕で」
「けっこうですわ」
お嬢様はメイドからそっと距離をとった。
「しかしながらお嬢様。こんな夜中に突然三段高笑いとかわたくし少々お嬢様の頭の心配をせねばならない事案を発生させるなんていったい何があったというのでしょう?」
「あら、聞きます? 聞きますの?」
自称魔王のお嬢様はメイドに向かってドヤ顔で問いかけた。
「古き良き日本のゲームで言うならば『はい』と答えるまで無限ループしそうな問いかけに少々わたくし胸が熱くなってまいりました。しかしながらわたくしあの問いかけに毎秒三回のペースで三日ほど『いいえ』を選択した猛者にございますればもちろんここは『結構でございます』とお嬢様の心がへし折れるまで繰り返すのもまぁやぶさかではございません」
「では聞かせてさしあげましょう!」
「まさかの強制イベントでしたか」
「あなたに付き合うのは得策ではないと気付いたのです」
「わー、おじょうさまはー、すごいなー」
「………………我が魔王軍がもう少し人材豊富なら、あなた今頃頭と胴体が生き別れになっていらしてよ?」
「もし仮に万が一ありえないでしょうがこの自称魔王軍残党に人材豊富なら私ももう少し言葉に気を付けることでしょう。しかしながらお嬢様の一存にてお嬢様のメイドとして命を落とすなど最高のシチュエーションに『嬉シ――――ぃよんっ♪』といった感じに声も弾んで思わず下着も濡らす思いにございます。ははっ、小水なのに大洪水とはこれいかに」
「あっ、ここからこちらにはいらっしゃらないでくださいまし?」
安普請な宿の黒ずんだ木板の床を指さして、お嬢様は境界線を引く。
「お嬢様、それではわたくしお嬢様のお世話が出来かねます」
「一歩でもその境界を越えればいかに人材に乏しい我が魔王軍といえどぶち殺して首をさらしますわよ」
「お手付き厳禁とはいやはや、お嬢様も思春期でしょうか? これ以上その家畜の山羊みたいにはしたない胸を膨らませていったいどこの男を誑し込むおつもりなのですか?」
「胸は関係ないでしょう! 胸は!」
思わず胸を両手で抱きしめるようにして隠す。しかし隠しきれないその圧倒的な存在感を放つそれに対してメイドは表情を崩さないまま小さく舌打ちをした。
「持たざる者のやっかみにございます。しかしながらお嬢様、いくら胸があったところであの男をなびかせるのはいささか難しいことかと。なぜならお嬢様はあの男を拉致した加害者でありむしろその加害者に振り回されるメイドと被害者の間で恋愛感情が芽生えるほうが当然なのですがこんな想定にまでいちいち出張ってくるとかほんときもちわるい男ですねアイツぶち殺したい」
「………………あなた、自分で何を言ってるか理解してらっしゃる?」
「脊椎反射の可能性もなきにしもあらずといいますか。しかしながらお嬢様、いいかげん本題を進めていただきませんとわたくしいつまでたってもお嬢様に付き合わざるをえなくなってしまいます。このろうそくもただではございませんよ?」
「あなたが話の腰を折っているんでしょう!?」
「はて」
「不思議そうに首をかしげないで!」
そこで向こうのペースにノせられていると気付いたお嬢様、一度深呼吸で頭をクールダウン。きょとんとした顔でかっくんと首をかしげるメイドの姿を思考の彼方へ追いやることに成功した。
「では語ってさしあげましょう――――新たなる魔王、エリザベスのその偉大なる最初の功績をっ!」
「わー、どんどん、ぱうぱう」
演説するかのように大きく腕を振るう。メイドは口の端に小さな両手を添えて、主人の大発表に盛り下がる声でもって応えた。
「貯金がとうとう三百アーユになりましたわ」
「…………は?」
「貯金が、とうとう、三百アーユになりましたわっ!」
メイドの時間が数秒ほど凍結した。
「………………あの、お嬢様?」
「なにかしら?」
「いったいどのようにそれほどの大金をお稼ぎになられたのでしょう?」
この世界は日本などのように管理通貨制度ではなく金本位制なので、金貨一枚が現在の為替レートでおよそ十万円とちょっとだ。当然だが三か月で稼ぐような資金ではない、どうやったのだとメイドは問う。
「よもやそのはしたなくもいやらしいお嬢様のおっぱいと体全体からにじみ出る負け犬というか牝犬属性と魔神使いというデフォルト触手責めな特殊才能でもって男をたぶらかし叩かれるほどに輝きを増すそのけしからん肢体でじつにいやらけしからんことを……!」
「しませんっ!」
お嬢様は顔を真っ赤にして答えた。いや、叫んだ。
「しかしながらお嬢様。普通に考えましてちょっと特殊ないやらけしからんお店か何かでもないかぎりごく普通の日雇い女中では日に七エーグ稼ぐのが精いっぱいでは?」
現在の為替で日本円にしておよそ三千円と小銭が少々。日々生活するだけなら、それだけで十分なのだからそれ以上稼ぐには他の職しかありえない。需要があって大金が稼げる職など娼婦ぐらいのものだろうと、偏見交じりにメイドは問うた。
「ふふん。それが俗人の精いっぱいですわ……!」
いちいち鼻につく小憎たらしい言葉を吐きながら縦ロールをふぁっさぁああとかきあげて、お嬢様は自信たっぷりに胸をそらした。
「しかしわたくしの手にかかれば三百アーユなどチョロいものですわ。もともとあの店も元手さえ手に入れば用済み! わたくしの胸をガンしたあの客や尻をこね回したあの客の締まりのない顔にアツアツのパイを奢ってさしあげて、ひと月のうちにやめてやりましたわ!」
高らかに、自慢げに。お嬢様はそれを一種の武勇伝のように語った。
「私がちょっと特殊な喫茶店で洗ってない童貞の臭いがする精霊使いと非処女くさい海エルフの相手をしている間にそんなことが……しかしお嬢様、ひと月でやめて、そのあとはどうやって三百アーユもの大金を?」
「先物や最近はやりの為替などでたっぷりと」
遊びなれた男でもコロっといってしまいそうないい笑顔を浮かべた。
「………………お嬢様はもうこのまま商人として生きられたほうが大成するかと」
「まぁ、あなたにしては珍しくおだてますのね。いいですわ、明日はお祝いにぱぁーっと、おいしいものでも食べましょう?」
「いえ、そういう意味ではなく」
「ああ、新しい服? そうね、一着くらいドレスを仕立ててあげますわ」
「…………おいしいものだけで十分にございます」
「うふふ、素直でよろしい」
経済界の魔王と呼ばれるだろうにもったいないとはメイドのつぶやきである。
「しかしながらお嬢様」
「なにかしら? ――――あ、さりげなく境界を越えようとしないでくださいまし?」
一歩踏み出そうと足を上げた瞬間をお嬢様は指摘する。
「…………お嬢様が二か月ちょっとで三百アーユも稼ぐびっくり大魔王であることに驚愕を隠せないわたくしですが、ところでそのお金でいったい何をおつもりでしょう?」
「えっ?」
「えっ?」
まさか何も考えていないわけではないでしょうとタカをくくっていたメイドは、思いかけず素で問い返した。
「お嬢様はよもやウ=ス異本なる魔導の書を読み解き不眠不臥の境地にて現世において無意味な無限の苦行と大量の喜捨を行う異界の廃なる神々のごとくただただ目的もなく資金稼ぎをしているわけではございませんよね?」
「そんな無意味に市場を混乱させるようなことなどするつもりなんてありませんわっ!?」
たかだか一個人だからそれほど強い影響力は持っていないが、この国の貨幣は金本位制なので下手に一か所に使わず死蔵されている貨幣が大量に存在すると経済的にちょっと危ないことくらいお嬢様は知っている。さすがに今すぐできるようなことではないけど、お嬢様は商才とそこそこの資本力があるので狙えなくもないだろう。やり始めてしまえば経済界の魔王ルート一直線だ。
「これは――――そう、我が新生魔王軍に仕える兵隊さんたちに支払うお給金になりますのよっ」
「なるほどそうでしたか。しかしながらお嬢様、貨幣価値崩れたらただの鉄クズになりませんか?」
金本位のおかげで貨幣としての価値はなくとも貴金属を含有した品物としての価値は一応残るのでまぁ単純な鉄クズにはなるまい。金貨と銀貨に限って言えばの話だが。
「それにこの自称魔王軍残党はわたくしとお嬢様の総勢二名ですし戦場に立てば一瞬で蒸発する程度と申しますか一発で男どもの慰み者になってしまいお嬢様は牝犬奴隷として将校たちに買われハッピーエンドとかうらやましいですねわたくしなんて安宿の娼婦として売られところをあの男に見つけられ憐憫交じりに身請けされるルートとかアイツぶち殺したい」
「ねぇ、あなたほんとうにわたくしのこと主人と思っていらっしゃいます? というかそれ、あなたの願望ではなくて?」
「お嬢様は普通の神経をしている者が好きな男をぶち殺したいとかそんなことを言うとお思いで?」
「でもあなたちょっと異常な神経してらっしゃいますわよね?」
「ははは」
「答えなさいよ!」
「――――しかしながらお嬢様」
「また話を逸らす!」
「どうもこちらに向かってくる足音がひとつ」
メイドは人差し指を立てて、ボブヘアの中に隠した犬の耳をぴこんと振った。
「歩幅にリズム、そこから体格体重を割り出しますと、率直に申し上げてあの男になりますが……」
もてなしは紅茶とワインと私の爪、どれにいたしましょう。とメイドは問うた。
メイドさんは黒い毛並みのフラットコーデット・レトリバーのイメージ。