始まりの唄12
▽エンヴィー
お風呂から出て、サトシは再び難関にブチ当たっていた。エリナの髪が長く多いのでなかなか水気が取れないのである。
「サトシくん、もういいよー」
「あっ」
痛かったのか、タオルで撫でくり回されているのが嫌になったのか、エリナはサトシの手から逃げ出した。もう少し触っていたかったサトシは残念に思った。
サラサラしてて
いい匂いがして
何だか鼓動が速い気がして……
触れていた髪の感触を思いだし、サトシの胸は甘く締め付けられる。何だろう、この気持ち……。嫌ではないのだが、自分の感情の正体がわからず、少し寂しかった。
「……サトシくん?」
エリナに声をかけられ、我にかえる。すると、エリナは目を擦っていた。
「あ……。えっと、髪、いつもはどうしてるの?」
このまま寝かすのはちょっと避けたいサトシは曖昧な笑顔を向けた。風邪ひいてしまうし、まだ夕飯を食べていないのだ。
「ん~、わかんない。いつも、おかあさんがしてくれる」
ギリギリギリギリギリ
胸の痛みが違う痛みに変わる。まるで、心臓を茨の蔓で締め付けられているかのよう。そして、天国から地獄へ突き落とされたかのよう。
「……じゃあ、後は、お母さんにしてもらおうか」
サトシは悟られないよう、笑顔を貼り付かせたまま言った。エリナは「うんっ!」と満面の笑顔で返事をする。瞬間、胃までもが痛み出した。
キリキリキリキリキリ
「……っ」
サトシは黙ってエリナの手を取ると、一緒に脱衣場を後にした。
「おかあさ~ん!」
エリナがリビングで待っていたカオリに抱き付いた。
ギリギリギリギリギリギリ
キリキリキリキリキリキリ
「いっぱい遊んでもらった?」
「うんっ!」
「そう。良かったね」
幸せな家庭。
「おかあさん。かみ、ふいて」
「風邪ひいたら遊べなくなっちゃうもんね。待っててね。今、タオルを持ってくるから」
「うんっ!」
笑顔いっぱい。
オレにもあって、失ったモノ。
ギリギリギリギリギリギリギリギリ
キリキリキリキリキリキリキリキリ
「――シく……トシくん……サトシくんっ!」
我にかえったサトシの目の前には、鼻が付くくらいエリナが迫っていた。
「ぅわあああっ!」
大声を上げると同時に、鼓動が大きく跳ねる。び、びっくりした……。早鐘を打つサトシの鼓動とは裏腹に、エリナは不機嫌そうな顔をしていた。
「サトシくん、いしみたいに、かたまってた」
「ご、ごめん。考え事してた」
「考え事、多い」
「……ごめん」
そう謝罪を口にしてから、何か違和感を感じた。……あれ?気の、せいか?
「サトシくん、ごはんたべにいこう」
そう言って笑顔をこちらに向けているエリナには、もう違和感は無い。……気のせいだったのかな。サトシは首を傾げたいのを我慢して、「うん」と返事をした。間もなくカオリがタオルを持って戻ってきた。彼女は手際よくエリナの髪を拭いている。
『サトシくんは、お母さんに似て、綺麗な髪だね』
ふと、通っていた幼稚園の先生に言われた言葉を思い出した。耳にタコが出来るくらい聞いた。
「サトシくんも、髪、拭いてあげようか?」
カオリが笑顔をこちらに向けている。眩しすぎて、目眩がする。
「……すぐに乾くので大丈夫です」と丁重にお断りし、エリナの手を取った。
「お腹空いたね。ご飯食べに行こうか」
「うんっ!こっち、こっち!」
エリナに連れられ、サトシは逃げるようにして、この場を後にする。
大丈夫、大丈夫
オレは頑張ったから、大丈夫
そう、自分に言い聞かせて。
大丈夫、大丈夫
大丈夫……、大丈夫……