別れー2
四人は近くのスーパーマーケットで買い物をすると、家へ帰った。そして、疲れ果ててソファーで眠るレウシアを横目に三人は夕食を作り始めた。
夕食を作り終えると、ユリとサクラは食卓に料理を運び始めた。
「ユリ、パパを起こしてちょうだい」
「はーい」
ユリは静かに寝息をつくレウシアのもとへ歩み寄った。
「パパ、起きて。ご飯できたよ」
ユリは何度体を揺すっても起きようとしないレウシアを見て呆れ顔を浮かべた。
「うーん」
レウシアは面倒くさそうに返事をした。
「早く起きないと、パパの分は私が食べちゃうからね」
ユリは頬を膨らますと食卓のほうへ向かった。
(彼らとはもうすぐお別れだよ)
ユリの頭にレウシアの声が響いた。
ユリは慌てて振り返りレウシアのほうを見た。すると、レウシアは体を起こし。大きく伸びをしていた。
「どういう意味?」
ユリはレウシアに尋ねた。
「何が?」
レウシアが目を丸くしながら答えると、ユリは血相を変えた。
「今言った言葉よ。もうすぐお別れってどういう……」
ユリがレウシアを問い詰めようとした瞬間、信じられないものを見た。
(……パパ?)
レウシアの後方に一瞬レウシアの姿が現れ、消えた。
レウシアはユリの視線につられて後ろを振り返った。しかし、何一つ変わった印象はなかった。
「ユリ?」
レウシアは心配そうに尋ねた。
(……博士が見せたかったものってこれか)
ユリはすべてを理解し、微笑みを浮かべた。
「ごめん、何でもない。さあ、ご飯を食べよ」
ユリはレウシアに微笑みかけた。しかし、その瞳は悲しみに満ちていた。
「ユリ?」
「ご飯、食べよう」
ユリは何も聞かないよう目でレウシアに訴えかけた。それを察したレウシアはユリに何も問うことはなく、一緒に食卓へ向かった。
ご飯に手をつけると、ユリはたちまち涙を溢れさせた。
「どうしたの?」
隣に座っていたサクラは心配そうにユリの顔を覗き込んだ。
「……味がする」
ユリは久しぶりにご飯の味を感じていた。
「本当? じゃあ、一杯食べないとね」
サクラは自分の分のおかずをユリのほうへ入れた。レウシアと蘭は互いに目を見合わせて笑った。
「明日からはいつも以上においしい料理を作らなくっちゃ」
蘭は瞳に涙を浮かべた。すると、ユリは何度も首を横に振った。
「これ以上おいしい料理は作れないってことかしら?」
「違うよね。今までどおりでいいってことだよね」
蘭やサクラが言うのを聞きながら、ユリはひたすら首を横に振り続けた。
(これがきっと最後なんだ。この味も、この涙も、みんなと話をするのも、みんなの温かさを感じるのもこれで最後なんだ)
ユリの涙は止まることなく流れ出した。
「私、消えたくない」
ユリは決心が鈍らないよう言わないように心がけていた言葉を口にした。それと同時にいっそう瞳から涙が溢れ出た。
「ユリ、大丈夫だよ。感覚だって戻ってきているんだし、ユリは消えないよ」
サクラはユリの背中を擦りながら、両親の顔を窺った。
二人は大きくうなずくと、ユリのそばに集まった。
「迎えに来たんだよね。 ……私は今夜消えるの?」
ユリはソファーのほうへ目を向けた。
「何?」
他の三人も同じようにソファーのほうを見た。
(……今夜、還りましょう)
蘭によく似た存在がゆっくりと姿を現した。そして、その横にはレウシアによく似た存在の姿があった。
「こんなことって……」
自分とよく似た存在を目の当たりにした二人は気味の悪さに身震いした。
(シェリー博士には話したけれど、私たちのような存在を見たものは、大抵その不気味さから心が不安定になる。その結果病気になり、事故に遭い、命を落とす者も多々現れる)
男が話すと、サクラは一歩前に出た。
「私は大丈夫よ」
サクラの言葉を聞くと、男は首を横に振った。
(また、私たちの存在は己の存在を求める。時には本物を疎ましく思い、憎しみの念を抱きながら眼を向ける。その念が知らず知らずに相手へ悪影響を及ぼす)
「それなら大丈夫よ。今までそんな風に見られた覚えないもの。ね、ユリ」
サクラはユリに微笑みかけた。しかし、ユリは悲しそうにうつむいた。
(それは最近まで自分の存在を疑っていなかったからだろう。自分が何者かを知ってしまってからは幾度か考えてしまったはずだ)
男は哀れむような目でユリを見た。ユリは悔しそうに下唇を強くかみ締めた。
(その念は本来私たちがこの世に留まる鎖のようなもの。自分の存在を知りながら、相手への憎しみが消えるとき、その存在は姿を消す。その子が自分の存在を知り、すぐに消えかかっているのは本当にあなたを愛しているからだろう)
男は穏やかな表情でサクラを見た。それはレウシアと同じ温かさを持っていた。
(今夜、私たちとともに在るべき場所へ還りましょう)
女の声を聞くと、サクラは納得いかない表情を浮かべた。
「憎しみ以外に留まる方法はないの?」
(……少なくとも、愛情では留まれない)
その言葉を聞き、ユリは下唇をかみ締めた。
「たとえば、離れ離れに暮らして、憎しみを抱き続けたら?」
サクラはユリが消えなくて済むよう必死に打開策を探した。
(病気や事故、どのような形になるかは分からないが、その想いは伝わるだろう。それに、離れ離れになるなら、その子は存在する意味をなくす)
ユリはその言葉に深くうなずいた。
「……わかった。今夜還ろう」
ユリはその存在たちに微笑みかけた。
「ユリ」
「そうしたいの。一人で消えるのは不安だけれど、パパとママが一緒なら怖くないもの」
ユリが言うのを聞くと、女と蘭は瞳に涙を浮かべた。
「ユリ」
蘭はユリを強く抱きしめた。すると、その体からは確かな温もりが感じられた。
(一緒に還ろう、ユリ)
女は穏やかに微笑んだ。
「うん。でも、このご飯だけは食べたいな」
ユリは明るく振舞った。そのあどけなさが、いっそう皆の心を打ちつけた。
(部屋で待っているよ)
男はユリに穏やかな顔を向けると、二人で他の家族に頭を下げた。そして、涙を流す女の肩を抱きながら静かに消えていった。
皆は夕食を再開したが、誰一人口を開くことはなかった。
「私、幸せだったよ。みんなのことが大好きだから消えたいと思えたし、消えられると思った」
ユリは重い空気の中、やっとの思いで口を開いた。
「私も、私たちもユリのこと大好きなんだよ。だから、消えて欲しくないの」
サクラは必死に訴えかけたが、ユリは困った顔をしてただ首を横に振るだけであった。
「ごちそうさま。 ……部屋に戻るね」
ユリはあごを震わせながら席を立った。
「ユリ」
「来ないで欲しい。みんながいると決心が鈍りそうだから……」
ユリは服の裾で涙を拭った。
「でも……」
「どうしようもないんだ」
ユリはリビングのドアをゆっくりと開けた。
「みんな大好きです。だから、さようなら。 ……今までありがとう。幸せでした」
ユリは胸にある言葉を連ねた。
廊下に出ると、ユリは鳴き声を殺しながら階段を一歩一歩上っていった。
三人は何度も立とうとしたが、足に力が入らず立てずにいた。
ユリが部屋に戻ると、窓辺でユリの両親が待っていた。
(もう、いいの?)
母親が尋ねると、ユリは大きくうなずいた。
「うん」
ユリはゆっくりと二人に歩み寄った。
「パパとママって呼んでいい?」
(もちろんだよ)
父親は優しく微笑むと、ユリの頭を撫でた。
「パパ、ママ」
両親はユリを優しく抱きしめた。
月明かりが三人を照らすと、三人の体は光を帯び始めた。
(いい人たちだったわね。昨日一日見ていたけれど、彼らがどれ程あなたを愛しているのか伝わってきたわ)
「うん。幸せだった」
ユリは大きくうなずいた。
(みんな、ありがとう。忘れないよ。だから……)
「うん。私たちも絶対に忘れないよ」
サクラは開いた部屋の入り口から顔を覗かせた。
「何で?」
「あなたは私。想いは伝わる、でしょ? 遠くにいても同じだよ」
サクラが部屋に入ると、続けてレウシアと蘭も入ってきた。
「何で来たの?」
ユリは目を潤ませた。
「娘を見送りに来ただけだよ。何もおかしなことはないだろう」
レウシアはいつもどおり穏やかな表情を浮かべた。
「娘をよろしくお願いします」
蘭は深々と頭を下げた。
(ええ。私たちにとっても大事な娘ですから)
母親はユリの肩を抱き寄せると、優しく微笑んだ。
三人の体が徐々に透け始めた。
「今までありがとう。 ……さようなら」
ユリは笑顔を作った。すると、サクラは何度も首を横に振った。
「いってきます、でしょう?」
サクラが言うのを聞くと、ユリはクスッと笑った。
「いってきます」
ユリは満面の笑みで言い直した。その頬を一筋の涙がこぼれ落ちた。
「いってらっしゃい」
答えたサクラもまた真っ直ぐ涙を流した。レウシアと蘭はその様子を優しい瞳で見守った。
ユリは月の光に溶け込むように姿を消していった。
「ユリ、ユリ」
サクラは窓辺に駆け寄った。しかし、そこにユリの姿はなかった。
「ユリ」
サクラは先ほどまでユリがいた場所で膝をつき、涙を流した。
(あなたは私。いつもそばにいるよ)
「うん」
心に響いた声に返事をすると、サクラは窓に映った自分の姿を見つめた。
蘭はその場で崩れ落ちるように膝をついた。
「……ユリ」
レウシアは大粒の涙を溢した。しかし、自分が涙を溢していることに気づいていなかった。
サクラは気持ちを落ち着かせると、両親のほうを見た。すると、二人とも大粒の涙を零していた。
「何よ、二人とも。そんな顔をしていたらユリに笑われるわよ」
サクラは目一杯笑顔を作った。その顔を見た二人は本当にユリに笑われている気がした。
「ああ、そうだな」
レウシアは小さくうなずくと、蘭の肩に手を置いた。
「そうね」
「そうだよ」
サクラは終始明るく振舞った。レウシアと蘭は辛いはずのサクラの姿に励まされ、強くなろうと心に決めた。
「さあ、今日はもう寝よう」
サクラは落ち着いた口調で言うと、二人に抱きついた。
家族三人はユリのベッドで共に眠った。サクラが蘭の胸の中で留まることのない涙を流した。
ユリがいなくなって一年が過ぎた。
家族三人はカナダの家に戻り、サクラは地元の高校へと通うこととなった。
「サクラ、早く起きなさい」
相変わらずフライパンを叩く音で目を覚ましたサクラは階段を駆け下りた。
「ご飯は?」
「遅刻するからいらない」
サクラは牛乳を一気に飲み干すと家を飛び出た。
「サクラってあんなに騒がしかったか?」
レウシアはため息をついた。
「たまにユリと区別がつかなくなるわね」
蘭は去年サクラの誕生日に撮ったユリとサクラの写真を見つめた。
「さあ、あなたも早くしないと遅刻するわよ」
「おっと、いかん」
レウシアは腕時計を見ると慌てて立ち上がった。
サクラは学校への近道としてユリと出会った公園へ入っていった。
(ユリ、元気にしている? 私もパパとママも元気にしているよ。私ね、運動部に入ったの。しかも、なんと陸上部。それでね……)
サクラは思い出の木の下で立ち止まると、空を見上げた。
「いけない、遅刻する。じゃあ、またね」
サクラは全力で走り始めた。
(いってらっしゃい)
聞きなれた声が頭に響くと、サクラは慌てて振り返った。
公園には誰一人見当たらなかったが、ブランコがゆっくりと揺れていた。
「いってきます」
サクラはニコリと笑うと、雲ひとつない青空の下再び走り始めた。




