武道館
日本武道館ー武道をたしなむ者にとっって憧れの地である。先ほどまで全国高校剣道大会の会場は熱気に包まれていた。今日の試合は先ほど行われた個人決勝で終了し、恵輔は顧問の松沢と帰り支度をしていた。
「ケイ」
聞き覚えのある声に振り返ると幼馴染みが駆け寄ってきた。その後ろは柔道部の三人である。
「葉月に野原先輩たち、来ていたんですか。」
恵輔が道着をたたみながらそう言うと葉月はニコニコした。
「そうなの。そこで会ってビックリ!」
「ホント、さすがにこの人出じゃわかりませんね。」
「武道部が全員揃うとは仲良いな。四条が最後で夏は全員終了だな。じゃあ、俺先に帰るから、お前らも気を付けて帰れよ。」
「ありがとうございました。」
恵輔が礼を言うと松沢は片手をあげて出口に向かった。
恵輔も道着などの荷物を入れた防具袋を背負うと竹刀袋を肩にかける。はっきり言ってかなり重い。試合の帰りは結果よりもこの重さがつらい。試合に向かうときはこの重さでモチベーションが上がるのだが、帰りはかなりの拷問である。
「先輩、持ちますよ。」
柔道部の一年生が竹刀袋に手を伸ばした。
「いや、これは大事だから、ごめんね。ありがとう。」
恵輔はやんわりと断る。一年生は少し傷ついた表情を見せたが、それ以上はなにも言わなかった。恵輔はさすがに疲れていて気を使う余裕がなかったので、経験者の葉月をちらりと見た。
「武士にとって刀は魂なの。魂は人に預けることはできないってこと。」
葉月が一年生の背中をバシリと叩く。恵輔は葉月に小さい声で礼をいった。
一旦東京駅に出てから揃ってJR線に乗る。始発駅のため全員が座ることができた。葉月が一番端でその隣は恵輔が座った。反対側は野原が陣取りその向こうが残りの二人である。
「そういえば、今日は薫と一緒じゃなかったんだね。うまくいっているんだろ。」
葉月が少し困ったような表情を浮かべた。
あれっと思う。プールに行ったとのろけていたのは、先週のことだ。何かあったのだろうか。
「何か、文化祭の準備で忙しいみたい。メールは毎日してるんだけど。」
「そういえば、バンドでステージ発表の申込みしてたよ。何でもメンバーは秘密なんだって。」
葉月は知ってると言ってうつむいた。
「なんだ、本郷は山崎と付き合ってたのか。あいつ人気あるのに見る目もあったんだな。」
ぼそりと野原が呟いた。
「実はそうなんです。クラスが違うのに葉月の名前を知っていたし、僕と幼馴染みだということもどこからか調べてみたらしくて。」
恵輔もボソボソと野原に囁く。
「そういや、お前の方はどうなっているんだ?気になっていたんだが?」
「今は良い先輩の状態です。」
恵輔はなんとか顔を赤くせずに済ませた。
ホントに『良い先輩』でいるしかない状態である。しばらく会っていないので、早く会いたくて仕方がない。
「良い先輩って……お前が落とせないの?顔ヨシ頭ヨシ性格ヨシのおまえが?」
ポカンとした表情の野原に、恵輔は視線をそらした。褒めてくれているのかもしれないが、その言い方はまるで自分が女たらしの様ではないか。顔が良いのは自覚しているが、何となく気分が悪い。
「でも、一緒に登下校をしているんですよ。知りませんでした?」
横から葉月が話しに入ってきた。恵輔の側に乗り出すような体勢のため、身体が密着してしまう。恵輔は背もたれに寄りかかり、幼なじみから身体を離した。
「やるじゃないか。うちの愚弟も良い仕事したな。」
「なに、志穂ちゃんの怪我って先輩の弟さん絡みなんですか?」
「……葉月、僕に乗るなって。」
興味津々にさらに身体を乗り出した葉月は、恵輔の膝の上に手をかけていた。恵輔は口には出さなかったが、その角度では襟元から中が見えそうである。葉月は幼い頃から男女一緒に稽古することが当たり前の生活をしてきたせいか、自分が年頃の女の子だと言うことに無頓着なときがある。恵輔は葉月の行動に耐性があるが、夏の薄着で身体が密着するのはいろいろな意味で遠慮したい。恵輔だって健康な男子であることに代わりは無いのだから。
「あ、ごめん。」
えへへと笑う葉月の頭を小突くと、野原の顔を見る。厳つい顔が呆れたような表情を浮かべている。
「お前が、本郷を端に座らせた理由が良く解った。」
きょとんとしている葉月をチラリと見てから、恵輔は苦く笑った。
翌日の午後、以前志穂と訪れた喫茶店に恵輔はいた。
目の前には、美味しそうにタルトを食べる志穂が座っている。
恵輔は柔らかい笑みを浮かべて、コーヒーを飲んだ。
学校帰りに二人で喫茶店に居るのは、恵輔が誘ったわけではない。志穂が今朝不安そうな表情で誘ってきたのだ。
「喫茶店に一人で入るのが怖くて、一緒に行ってくれませんか?」
上目遣いに大きな瞳で見つめられて、恵輔が断るはずもない。
「先輩?」
今朝のことを思い出してぼんやりしていた恵輔を心配そうに志穂が見つめていた。
「ごめんね、少しぼんやりしていた。」
「大丈夫ですか?疲れているんじゃないですか?」
「いや、大丈夫だよ。」
にっこりと柔らかい笑みを向けると志穂の頬が紅くなる。
ぎゅっと抱きしめたくなるほど可愛らしい。
「レモンタルトも美味しいよ。食べてごらん。」
恵輔の皿を差し出すと、志穂は受け取ってひとくち口に入れる。ぱっと花が咲くように顔が綻び、幸せそうである。
タルトを食べ終わったところで、志穂が鞄の中からスポーツ用品店の袋を取り出した。
「あの、コウくんと私から準優勝のお祝いです。」
ずいっと目の前に差し出された包みを見て、恵輔は瞬きした。昨日の結果を知っているのは、見に来ていた武道部の人間と顧問の松沢先生だけだある。なぜ志穂が知っているのだろう。
「ありがとう。情報早いね。」
受け取りながら言うと、志穂はあっと口を押さえた。
「ん?」
「あの、えっと、昨日コウくんと見に行ったんです。武道館に」
恵輔は目を見開いた。顔が熱くなる。
「…来てたの?」
コクりと志穂が頷くと、恵輔は大きく息をはいた。長めの前髪を照れ隠しに掻き上げる。
「…声をかけてくれれば良かったのに、気付かなくてごめんね。」
「いえ、思っていたよりすごい人で驚きました。コウくんがいなかったら、先輩の試合会場も何処なのか判らなかったと思います。」
恥ずかしそうに笑う志穂がティーカップを手に持った。
「剣道の試合は顔が見えないからね。垂れの名前も上の階からはよく見えないし。」
「でも、先輩はすぐにわかりましたよ。空気が違っているので。」
恵輔はえっと顔を上げる。
「何だか、先輩が面を付けるときって、空気が張り詰めるというのかな?凛とした感じで近づきがたくて、でも目が離せなくて、綺麗なんです。だから、すぐにわかります。」
志穂の言葉に恵輔は顔が紅くなるのわかった。多分耳まで赤くなったいるだろう。嬉しいのだが、何だかものすごく恥ずかしい。思わず片手で顔を隠して窓の外に目を向けていると、小さく謝る声がした。
「ごめんなさい。変なのこと言って。」
驚いて振り返ると、余所を向いた恵輔が気分を悪くしたと思ったのだろう、志穂がうつむいていた。
恵輔は慌てて手を振った。
「違う、違う。そうじゃなくて。」
恵輔はチラリと周りを気にしてから、内緒話をするように志穂の方に体をのり出した。
志穂はキョトンとしてから耳を寄せる。
「佐々宮さんの感じ方が嬉しくて、赤面したから顔を隠しただけだから。気にしないで。」
恵輔が体を戻して照れたように微笑むと、志穂も嬉しそうに笑う。
その表情を見て恵輔はさらに笑みを深くする。
いつも彼女が笑ってくれていたら、自分も幸せな気分になれると思う。自分が彼女を笑顔にできたら、もっと幸せな気分になれるかもしれない。しかも、いつでも隣にいてくれたら、最高だと思う。
恵輔は冷めてしまったコーヒーを口に含んだ。
明けましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いいたします。
投稿する前に年が明けてしまいました。亀の歩み状態ですみません。
年始はしばらく忙しいので、亀の歩みが続きそうです。
やっと終わりが見えてきました。もう少しお付き合いください。




