想い
いつもありがとうございます。
夏休みに入り、暑い日が続いている。
志穂は合唱部の練習があるため、毎日学校へ通っている。松葉杖はすでに必要なくなったが、毎日のように恵輔と行き帰りは一緒になっている。松葉杖がとれたときにやんわりと一緒に通学するのを断ると、生徒会の仕事もあるし目的地が一緒なのだからと恵輔はにっこり笑って志穂の希望を封じた。
志穂自身も一緒に通学するのになれてしまい、いまだに一緒に通学している。
一緒にいることが増えたためか、恵輔が目立つ存在であることをすっかり忘れていた。
「聞いているの?いい加減に四条君の周りをうろちょろしないで。」
「四条君はあんたが怪我をしたから同情で付き添ってあげただけなんだから!」
「その怪我だって、ただの捻挫でしょ。松葉杖まで使って同情引くなんて、最低ね。」
「合唱部なのに伴奏しかできないなんて、音痴なのね。可哀想に。」
合唱部の練習が終わり、顧問に伴奏のことでいくつか注意をされていて、気がつけば部の友人達はすでにいなかった。ピアノを片付けて音楽室を出て昇降口に向かう途中で、数人の女子生徒に囲まれて、言いたい放題されることになった。内容は単純で、「みんなの四条恵輔を独り占めするな」ということのようだ。入学してから今まで恵輔は特定の女子と親しい間柄になったことはないらしい。中学時代のことは同じ市内から通っている人間すらいなかったので、謎に包まれているようである。唯一、本郷葉月が学校は違うものの高校入学前の恵輔を知っているだけであるとのこと。しかし、葉月は稽古中の恵輔のことしか知らないと質問はすべて突っぱねたらしい。そのため、恵輔の過去から好みのタイプなどは推測できなくなり、「みんなのもの」ルールのようになっているそうだ。もっとも、告白するのは自由であり、それにより交際スタートになったときは、見守ることが暗黙の了解らしい。
つまり、今回のような事態は想定外であり、志穂は速やかに恵輔から離れることと、頭ごなしにいわれているのである。
「あんたなんか、四条君の近くにいることも似合わないのよ。わかった?」
ショートカットの二年生がドンと志穂の肩を押した。バランスを取ろうとして捻挫した足が悲鳴をあげる。志穂は体勢を立て直せずに尻餅をついた。彼女が陸上部の先輩で、少し前まで恵輔と噂になっていたことに気がついた。恵輔は噂を否定していたが、本当のところはどうなのだろう。
志穂はうつむいて膝の上で手を握りしめる。
言いたいことを言った彼女達は、最後に志穂のバックの中身を辺りに撒き散らし、その上を踏みつけて去っていった。
楽譜がファイルから散らからなくて良かった。
志穂は女生徒達の後ろ姿を見送り、散らかったものを丁寧にはたきながら、拾い集めてバックの中へしまった。立ち上がった時に涙がこぼれ落ちたのは、足が痛かったからということにした。そう思わないともっと泣きそうだった。
そっと廊下の陰からテラスを覗き、誰もいないことを確認すると下駄箱に近づき、素早く靴を履き替える。そのまま辺りを窺って目的の人物がいないことを確認し、門まで一目散に歩を進めた。
門を出たところで、志穂はホッと息を漏らした。
恵輔はまだ生徒会の仕事中のはずである。怪我をしてからはテラスで待ち合わせして一緒に帰っていた。
今朝の恵輔の話では、午前中に剣道部の顧問の先生と打合わせがあるので生徒会の仕事が長引くかもと話していた。逆に志穂の方は、部活の後の用事がキャンセルになっていた。下校時刻がずれるのは初めてかもしれない。
これをチャンスに一人で帰ろうと考えたのだ。一度でも一人で帰ってしまえば、なし崩し的に一緒になっていた登下校をやめられると思ったのだ。
ほんの少し、胸が痛いと思ったのだけど、気のせいということにしておく。
あんなに素敵な先輩の隣に自分のような何の取り柄も無いような女の子がいたら、いけないと思うのだ。先程の陸上部の先輩のような綺麗な女性-女の子というよりもずっと大人っぽい雰囲気であった-のほうがお似合いである。
きっと、あの人なら、先輩のファンの人たちも納得するのだろう。
そんなことをつらつら考えながら歩いていたため、携帯電話が鳴ったときにはビクリとしてしまった。気が付けば、もう駅前である。携帯を取り出してディスプレイの文字に泣きたくなった。
『四条恵輔』
どうしようと考える。電話に出ないときっと心配するだろう。どちらにしても先に帰ったことを連絡する必要はあったのだ。
志穂は通話ボタンを押した。
『ごめんね。連絡遅くなって、今終わったんだけど、そっちはどうかな?』
「……ごめんなさい。早く終わったので、実はもう駅にいます。だから……え?」
志穂は謝っている途中で電話が切れてしまい、手に持った携帯を見つめる。
勝手なことをしたから怒った?
自分で決めたことなのに、目の前がにじむ。
いつも優しいので無意識に甘えていたのかもしれない。
「佐々宮さん。待たせたね。」
優しい声に驚いて振り返ると、恵輔が息を切らせて立っていた。暑い中どこから走ってきたのか珍しく額に汗がにじんでいる。
「先輩、どうして……?」
声が震えてしまい、口元を押さえる。
いるはずのない人がいて驚いたのか、それとも恵輔の顔を見たためか、胸がドキドキしてしまう。
目の前に綺麗なハンカチで頬をぬぐわれて、泣いていたことに気がついた。
「す、すみません。」
慌てて自分の物を取り出して目元をぬぐう。
恵輔はホッとしたような表情で、今度は自分の汗をぬぐいネクタイを緩めるとパタパタとシャツを仰ぐ。
「さすがに、走ると暑いね。ちょっとだけなんか飲ませて。」
志穂に笑いかけると日陰のベンチを指さす。促されるまま、志穂は日陰のベンチに腰を下ろした。
ちょうど風が通る場所だったようで涼しい。
「はい。紅茶で大丈夫?ミルクとレモンどっちが良い?」
目の前に紙コップを差し出されて、いつものくせでミルクの方を手に取った。
恵輔は隣に腰を下ろして、よほど暑かったのかゴクゴクとコップを傾けている。
志穂は上下する喉仏を思わず見つめてしまった。
「ハァ、生き返った。え、なに?」
口元をぬぐって視線を感じたのか、こちらを振り返り首をかしげる。
まさか、見とれていましたとも言えず、首を振って志穂もコップに口を付けた。
二つの空のコップをゴミ箱に捨ててベンチに戻ると、恵輔は隣をトントンと手のひらで叩く。ここに座れとという意味だろう。
志穂はうつむいて隣に座った。
「今日、何かあった?」
顔をのぞき込まれて志穂は首を振った。
「本当に?」
ぎゅっと唇を噛んで頷く。
恵輔は形の良い眉を寄せて、いったん志穂の方に伸ばした指先を途中で止めて、自分の唇に触れる。
「そんなに噛んだら傷になる。」
志穂は首を振った。そんなに優しくしないで欲しい。
「佐々宮さん、顔を上げて。」
志穂は首を振る。
今日は暑いけど髪を下ろしてきて良かった。いつもは邪魔になる髪が顔を隠してくれる。
陸上部の女生徒の顔が頭をよぎる。
涙はぬぐえない。泣いていることがばれてしまうから、嗚咽を堪えるためさらに唇を噛んだ。
長くなりそうなので、途中で切りました。




