兄弟
いつもありがとうございます。
昇降口に横付けされたタクシーからジャージ姿の生徒が二人と養護教諭が降りてきた。養護教諭が女子生徒に松葉杖を渡している。教頭が養護教諭をねぎらってから、二人の生徒に話しかけると二人は神妙な表情で頷いていた。
恵輔の隣に立っていた野原が、ゆっくりと弟のところへ向かった。
「弟がご迷惑をおかけしました。」
弟の頭をつかんで無理やり頭を下げさせる。怪我人であることはお構いなしだ。教諭たちは鷹揚に笑って、野原兄に何やら話して職員玄関に歩いていった。
野原兄は改めて所在なげに立っている女子生徒に弟の頭を下げさせた。
「バカな弟が申し訳ないことをした。済まない。」
「いえ、ただの捻挫ですから、すぐに治ります。野原君も気にしないでね。」
恵輔は三人に近づいた。
「二人とも着替えないと、鞄は?」
ハッとしたように志穂が振り返った。一歩踏み出して、不意によろける。松葉杖が役に立っていない。
「おっと」
横にいた野原兄が腕を伸ばして、すかさず支えると眉を寄せた。
「…ありがとうございます。」
よろけた自分に驚いたようだ。恵輔は野原兄の表情が気になったが、そのまま近づいた。
「無理しない方が良い。四条、倒れないように気を付けてやれ。」
「はい。鞄は教室?先に着替える?」
「大丈夫ですから。」
慌てたように振っている手を恵輔は捕まえて、真剣に見つめて言う。
「危ないから、抱えていっても良いんだよ。そうする?」
志穂はブンブンと首をぶった。
志穂の着替えが終わるのを更衣室前の廊下で待っていると、野原兄が近づいてきた。こちらも弟の鞄を手に持っている。
「弟さんは着替え一人で大丈夫ですか?」
「自業自得だ。」
恵輔が尋ねると野原は肩をすくめる。
「それより、あの子の方は大丈夫か?家まで遠いんだろう?」
「そうですね。僕の家は駅前だけど、通学には一時間近くかかるから、彼女はさらにかかりますね。」
恵輔は志穂の家の場所は知らないが、図書館の近くと言うことで通学時間を計算する。
「そうか、全くあの馬鹿、女の子になんて怪我させてんだか。ホントにすまないな。」
恵輔は頭を下げる野原に首を振る。自分に謝られても困ってしまう。
「先輩が俺に謝るのは変ですよ。それに、怪我をしたのが手でなくて良かったです。」
野原は器用に片眉を上げて、恵輔を見上げる。
恵輔はその表情で説明が足らなかったことに気づく。
「彼女、ピアニストです。連城先生曰く、ジュニアでは日本で五指に入るそうです。」
言われた内容に野原が一瞬固まった。
「た、確かに不謹慎かもしれないが、脚で良かった。夏休みに入れば学校に来る必要は無いし。」
恵輔は一人頷いている野原に、志穂の所属している合唱部の練習が夏休み中ほぼ毎日あることは言わなかった。
「兄さん、お待たせ。」
野原弟が更衣室脇の階段から下りてくる。
「あれ、佐々宮さんは?」
キョロキョロする弟を野原はこづくのを見て恵輔は苦笑いする。
「先輩達は先に帰ってください。僕たちは駅利用ですから。」
「え、でも、俺が送っていこうと思ってたのに。」
恵輔はにっこりと野原弟に笑いかける。
「君が誠実なのは判ったけど、彼女が、学校までどのくらい時間をかけているのか知っているのかい?あの怪我で、夏休みの前半はあまり出歩けないだろう事は想像できるかい?」
「え、えと、そのくらいは判ってますよ。だから俺が、」
「それで、彼女と仲良くできたらラッキーと思っているわけだ。幸せな頭だね。」
鼻白む野原弟を呆れたように見下ろす。野原兄が恵輔が何か言うよりも速く話し始める。
「あの子の通学は片道一時間以上だ。しかも、都心までのJR線だ。朝はものすごいラッシュにあの脚で乗って来ることになる。しかも、楽しい夏休みだ。もし、初日から旅行をいれていたら、松葉杖で行くことになる。そういうことをキチンと判っているのか?」
「えっと、でも、捻挫だろ。そんなにたいしたことじゃ」
この台詞には恵輔よりも野原兄の方が腹を立てたようだ。
「この馬鹿が!!怪我人じゃ無ければ殴っているところだ!!あの子が怪我をしたのは誰のせいか、よく考えろ!!」
常に怪我とは近いところにいる柔道をしている兄は、弟の軽い考えが許せなかったらしい。野原兄が怒りを抑えていることは、恵輔は共に教頭から話を聞いているときから感じていた。だから、彼が弟の代わりに志穂や教師達に謝っている気持ちが理解できていた。
「そんなことはわかってるよ!だから俺が責任をもってちゃんと送っていこうと思ったんだろ!!」
「そんな怪我をして、ラッシュの電車で、あの子を支えられると思っているのか?!下手すりゃ二人して怪我を悪化させるだけだろう!!そんなことも判らないのか?!」
ギャンギャンと言い合いを始めた兄弟をしばらく眺めていたが、恵輔はすぐ近くの女子更衣室の扉を見つめて、ため息をついた。二人の声は中に丸聞こえだろう。志穂がさらに気を遣うようになってしまう。
「二人とも、五月蝿いです。騒ぐなら、家に帰ってからにしてください。」
大きな声ではないが、良く通る声で恵輔が言うと、兄弟はピタリと黙った。
二人とも恵輔を見ると引きつった表情を浮かべた。自分では判らないが、崇一の話によると無表情の時の顔はものすごく冷たい表情に見えるらしい。
「野原君、佐々宮さんは僕が責任を持って送るよ。明日以降は、本人の意志に任せるけど必要があれば、僕が学校の行き帰りは付き添うから、君は安心して肩の治療に専念しなさい。」
「な、なんだよ、それ。あんた、ただの生徒会の副会長だろ。なんか偉そうなんだけど。」
恵輔はクスリと笑って、野原弟を見下ろす。
「僕は正論を述べただけだよ、僕の家はこの学校では一番彼女の家に近いから。何か意見はあるかい?」
「……四条、この辺りで勘弁してやってくれ。こいつには良く言い聞かせておくから。」
弟が何か言うより先に兄が口を挟んだ。恵輔は野原の顔を見て、肩をすくめた。
「お前も、四条に謝れ。いくら家が近いとはいえ、行き帰りの時間を合わせて付き添うんだ。それにこいつは生徒会役員だ、文化祭前の今の時期はお前なんかより相当忙しい。お前のせいで貴重な時間を割くんだ。ついでに言えば、彼女とはもともと親しいらしい、怪我をさせたお前に怒るもはもっともなことだ。理解できたか?」
兄に諭されて弟は恵輔に初めて頭を下げた。
恵輔は少しだけ笑みを浮かべて、野原弟の怪我をしていない方の肩をたたく。早く治ると良いね。と言葉も添えた。別に彼の怪我が悪化しろとは思っていないからだ。
野原兄が弟を連れて昇降口に向かった。後ろ姿を見ていると、何か話していたようで、再び弟は兄に小突かれていた。恵輔は壁により掛かった。
かなり遅くなってしまいました。




