噂の真実
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やわらかなピアノの調べ、水色の格子柄の傘。たまに真面目な顔でおかしなことをいう。弟と仲良しで、ヴァイオリンも弾く。数学が苦手で解らないとノートに落書きをする。ちまちました絵がまた可愛い。フワフワとした茶色味がかった髪、クルクルと良く動く表情。可愛らしく首をかしげて、恥ずかしそうに微笑む……。
志穂に対する恵輔の印象である。しかし最近の彼女は悲しそうな,泣きそうな表情しか見ていない。
恵輔は志穂のことを脳裏に浮かべて、ぐっと爪が手のひらに食い込むほど握りこんだ。
目の前にいる女は、大切な彼女を誤解させている噂の原因である。
もともとはっきりとした顔立ちではあったが、濃い化粧のせいか年齢よりもずっと年上に見える。大きく開いたデコルテは、形の良い胸を強調し、裾が短くスラリとした脚を惜しげもなくさらしている。パーティ会場にいる男達の視線を集めるためにこんな格好をしているのだろうか。もし、自分に妹なりがいたら、絶対に反対するだろう姿である。
「四条君、娘をよろしく。」
ニヤニヤして恵輔の肩をたたくと濁声男はその場を離れていった。恵輔は無言で男に触られた腕と肩を大げさにはたいた。
「こんなところで、何をしている?」
自分でも驚くほど冷たい声が出た。亜由美はビクリとして恵輔を見上げる。あまりの怯えように恵輔がため息をつく。なるべく平坦な声をだした。
「あの噂、何のつもりなの?」
亜由美は胸の前で祈るように指を組んだ。
「あ、あれは、お父様が、お見合いをするように言ったから、すでに恋人がいれば無理強いされないかとおもって……」
途切れ途切れの話を聞いて、恵輔は腕を組んだ。周囲の人がこちらをチラチラ見ているので、亜由美を促してその場を離れる。
屋上庭園のベンチに亜由美を座らせると、恵輔はガラス張りの会場に背を向ける形でその脇に立ち腕を組んだ。
「つまり、君は僕を盾にするために噂をばらまいた。というわけだね。」
亜由美は力なく頷いた。
「なんで、僕だったわけ?盾にするなら、誰でも良かったんじゃないの?それとも、僕が四条商事の御曹司だって知ってた?」
亜由美は首を振った。恵輔は無表情にその様子を見下ろす。こちらを見ていない亜由美は恵輔がどんな表情をしているか、判っていない。声だけならば、もともと柔らかい声なので、怒っていないように思っているのかもしれない。
「僕は理由を聞いているんだけど。答えないの?」
投げやりな言い方に亜由美はビクリと恵輔を見た。その冷たい視線に怯えたような表情をする。
「早く答えてくれないかな。忙しいんだけど。」
「わ、私、一年の時から、四条君のことが、好きだったから、だから……」
せかすように言われて、慌てたように亜由美が口走る。頬を赤く染めて、恥じらうその姿は彼女のたくさんの男を虜にしそうだが、恵輔は何とも思わなかった。どちらかと言えば、独りよがりのその姿は嫌悪感のほうが強い。
「ありがとう。」
恵輔の言葉に亜由美は何を思ったのか嬉しそうな表情をした。恵輔は組んでいた腕を下ろす。
「でも、僕は好きな人がいるから、君の気持ちは迷惑なんだ。わかった?」
亜由美は顔を歪ませた。震える手を口元に充てる。黒く縁取られた瞳が潤み始める。
恵輔は視線をそらし、近くに咲いている花をみつめて、そっと花びらに触れる。名前は知らないが淡いピンク色の可愛らしい花である。ふと志穂が脳裏に浮かぶ。
「あの噂のせいで、僕の大切な娘が泣いたよ。」
「え……?」
「月曜には噂を否定しておいて。」
恵輔は冷たく言い放つときびすを返した。入れ替わりに辰彦がホテルの警備員を連れて来る。先程のバーテンは恵輔の合図を正しく理解したようだ。
「待って、四条君。わたし…!」
立ち上がった亜由美に対して、恵輔は思い出したように振り返り、にっこり笑って言う。
「あ、そうだ。僕と四条商事の事、外で話すのはダメだから。もっとも、君の話を誰も信じないと思うけどね。御崎さん後はよろしく。」
亜由美は真っ青になってぼろぼろと涙をこぼし、辰彦に促されるまま屋上庭園を後にした。おそらく会場内でも父親の濁声男が他の秘書にさりげなく追い出されているだろう。
たぶん、これで終わりではないだろう。嫌でも学校で亜由美に会うだろうし、会えば話が繰り返されるだろう。
恵輔は大きく息を吐いて空を見上げた。
今すぐ志穂に会いたいと思った。




