噂の弊害
目の前に置かれた湯飲みからは湯気が立ち上っている。一口飲むと苦みとほんのりとした甘さが口の中に広がった。恵輔の前に座る相川範子はお茶を淹れるのがとても上手である。昼休みの当番が一緒になったときだけの贅沢だ。教会の天使画のような愛らしい顔に肩をこえる長さの髪を片方に寄せて紺色のリボンで止めてある。膝をそろえて椅子に腰を下ろす姿は、気品がある。さらに常に微笑を浮かべて人当たりの良い性格は、男女問わず人気が高い。親友の崇一と交際していることは、まだ秘密にしているようだ。
「一つ聞くけど、何度か一緒に帰っているのよね。」
「ああ、何度か帰っているし、勉強を教えたこともあるよ。弟君込みで昼食を食べたこともある。」
範子は恵輔の言葉にパチパチとまばたきして、にっこり笑う。
「それ、崇一に話しても良い?」
恵輔ははっと口元を押さえた。ほんのりと頬が赤くなっている。
「ダメ。……そのうち僕から話すから、内緒にしておいてくれる?」
はいはいと言って、範子はクスリと笑った。いつも飄々としている恵輔の初めて見る姿が新鮮であり、微笑ましい感じがする。
「でも、そんなに仲が良いのなら、どうして逃げたのかしら?彼女は何部なの?」
「たしか、合唱部と聞いたよ。」
右手を頬にあてて少し考え込む様子の範子と大きくため息をこぼす恵輔。生徒会室に沈黙が流れる。
「……もしかして、噂のせい?」
ポツリと範子が呟いた。はっとしたように恵輔が顔を上げる。
「私ね、実は噂が思ったよりも落ち着かないのが、気になっているのよ。」
人差し指を上に向けて、真剣な表情をする範子に恵輔も頷く。組んでいた足を下ろし、机の上で指を組む。
「それは僕も思っていた。…去年の噂は同じようにして収まったからね。でも、今回は効果が薄い。」
「そうよね。去年も同じ噂が流れたわよね。固有名詞が違うだけで。」
「……僕から告ったというのは、無かったけどね。」
苦笑いしてお茶を飲む。
去年の秋頃今回と同じく「四条恵輔が三年の女生徒と交際している」という噂が流れた。相手の三年女子はすでに卒業しているが、当時は入学したときから恵輔につきまとい、家が離れているにも拘わらず、恵輔の家まで押しかけるというストーカー紛いのことまで行った。恵輔の両親は法的手段に訴えようとしたのだが、それは恵輔が止めた。一日だけ相手につきあうことを条件に二度と近寄らないことを約束させた。条件が守られなかったときは、即座に学校と警察に訴える事を相手の親にもに伝えた。さすがに人生を棒に振ることは彼女にも出来なかったようで、その条件をのみ卒業する同時に関西の大学へ行ったと聞いた。その時の一日デートを見かけた生徒達から噂が広まったのである。恵輔がその噂を否定すると徐々に噂は下火になり、収まった。
すでに生徒会の役員になっていた範子はその経緯を知っている。目を伏せて手元の湯飲みをクルクルと回している。
「……どうして今回は噂が収まらないんだろう。」
「うん。そうよね。私、一年生に聞いてみるわ。うちの演劇部の子たち顔が広いみたいだから、何か判るかもしれない。崇一にもメールしておくわ。夕方の役員会には判ると思うから。」
「助かるよ。ありがとう」
恵輔がほっとしたように笑顔を向けると、範子は困ったように微笑む。
「恵輔君のその表情は、目の毒ね。」
「え?なに?」
小さく呟いた声は恵輔には聞こえなかった。
そこらの俳優など裸足で逃げ出すような美貌に浮かべる柔らかい笑顔は、アイドルのような彼氏がいる「慈愛の乙女」ですらクラクラするのだった。
放課後の役員会が終わると二年生役員三人は、中庭に向かった。中庭は自由に出入りすることが出来るが、放課後に人がいることは滅多にない。特に梅雨に入った今の季節は、なおのことである。
「何かわかったかい?」
恵輔の言葉に崇一と範子は顔を見合わせた。小さく頷いて崇一が口を開く。
「一年生に聞いたところ、噂にもう一つ付け足されていた。」
「それは?」
「…『交際していることは秘密だから、本人に聞いても絶対に否定するけれど本当のこと』」
恵輔は息苦しくなって、呼吸を止めていたことに気づいた。声を出そうとして、掠れてしまう。
「それって、否定すればするほど、肯定している事になるってことか…。」
恵輔は左手を見つめた。昨日、届かなかった手である。
脳裏に志穂の悲しそうな表情が浮かぶ。
「はは、僕の手は届かなかった訳だね。」
どんな表情をして良いのか解らず、恵輔はとりあえず笑ってしまった。
「……恵輔。」
崇一の心配そうな声に、恵輔は片手で顔を覆い横を向く。二人に今の顔を見せたくなかった。一番身長の高い恵輔はうつむいたところで、表情が丸見えになってしまう。そのため、横を向くしか出来なかった。
「……演劇部の子には、噂は完全に否定しておいたわ。」
「俺もバスケ部の連中に言っておいた。だから、そのうち噂は収まると思う。」
崇一の言葉に恵輔は意地悪く「そのうちっていつ?」と言いそうになる。そんな自分を戒めて表情を改める。
「ありがとう。二人のおかげで助かるよ。」
恵輔は友人の二人ににっこりと笑顔を見せた。他の表情を見せることは出来なかった。二人に心配をかけたくないと思った。でも、なんだか苦しい。
「…恵輔君、怒らないの?」
範子の言葉に崇一が彼女の袖を引く。
「一年生の彼女は噂を本当の事だと思って、逃げてしまったのよ。彼女のことはどう思っているの?」
範子は睨みつけるように恵輔を見上げてくる。いつもの微笑はどこに捨ててきたんだと、聞かれたことと全く関係ないことを考えてしまう。
「何とも思っていないのなら、恵輔君は自分から声をかけたりしないでしょう?よく考えて!」
恵輔は再び左手を見つめた。何かが脳裏の映った。




