図書館にて
パラパラと紙をめくる音と書き物をしている音が聞こえる学習室で、恵輔はふと顔を上げた。腕時計を見ると一時を過ぎたところだ。集中が途切れたのは空腹のためのようだ。何か食べてこようと机の上の参考書を端にまとめて、鞄をとろうと横を向いた時に隣に座っている女の子が目に入った。
先週傘を借りた佐々宮志穂である。いつの間に来ていたのか、全く気づいていなかった。
学校ではお下げにしている茶色味がかった長い髪は下ろし、緩やかに波うっている。触ったらとても柔らかそうだ。
真剣な表情でノートになにやら書き込んでいる。
のぞき込んで、クスリとつい笑ってしまった。ウサギやらクマやらネコやら動物らしき絵がちまちまと描かれている。そのすぐ上の数式は計算が途中のようだ。
「動物園の絵でも描いているの?」
小さな声で話しかけると志穂はビクリとして、椅子から落ちそうになる。
「……し、四条先輩…?!」
見開きすぎて大きな眼がこぼれ落ちそうだ。
「いつ来たのか、気がつかなかったよ。声掛けてくれれば良かったのに。」
志穂の驚く様子をみて、クスクス笑いながら言うと彼女は少しすねたように横を向く。その頬はほんのり赤くなっていた。
「……私も今、気づきました。眼鏡、かけているし。」
「あぁ、これ?普段はいらないんだけど、勉強するときとかは無いと疲れるんだよね。」
言いながら眼鏡を外して志穂に差し出す。首をかしげながら受け取るとしげしげと眺めて、「老眼鏡?」などと呟いているのが耳に届く。吹き出しそうになって恵輔は口を押さえた。
「そ、それより、数学を勉強しているの?」
「……はい、でも解らなくて…」
志穂は眼鏡を恵輔に返して問題集を引き寄せる。落書きしていたのは、「解らなくて」だったようだ。
恵輔は問題集をのぞき込んで見る。ちょうど一年前に勉強していた単元である。
「もしかして、三番の問題かな?」
ノートと比較して、素早く躓いている問題を見つける。志穂が小さくうなずくのを見て、自分のレポート用紙を一枚破り取って説明を始めた。恵輔の身体は空腹を訴えていたが、栄養補給はもう少し待ってもらおうと頭の隅で考えていた。
ランチタイムの終わる直前のカフェは空いていた。カフェに入ったとたんに視線を感じるが、いつものように気にしないことにする。
恵輔は公園側の窓際の席に落ち着き、コーヒーを一口飲んだ。目の前には最近知り合った姉弟が座っている。この姉弟も目立つ方だ。二人そろっていればなおさらだろう。実際いつもそうなのだろう、視線を受けていてもものともしていない。
「晧君も来ているとは気がつかなかったよ。何時頃に来たの?」
「十時半頃です。家にいると志穂ちゃん勉強しないから。」
しれっと言う晧に対し、志穂はふくれて横を向いてアイスティのストローを銜えた。
「コンクールが近いって聞いたよ。」
「いえ、コンクールが無くても勉強しないんです。部屋にもピアノが置いてあるから。」
晧がため息混じりに言う。わざとらしいその仕草が中三男子だが、かわいい。
恵輔が笑うと志穂が弟を見た。
「だって、弾きたくなちゃうんだもん。晧くんだって、そうでしょ?」
「あのね。俺はやるべき事はやってから弾いているの。一緒にしないでくれる?」
「何よぉ、その言い方。弟なのに生意気よ。」
口で弟にかなわないのだろう姉はぷぅとふくれる。その表情がまた可愛らしい。
兄弟がいない恵輔は、この姉弟と話していると飽きないし、見ているだけで楽しい。知り合って間もないのに、ずいぶん前から知っていたような気がする不思議な感覚であった。
「晧君もピアノ弾くのかい?僕はまったく出来ないんだけど。」
運ばれてきたサンドイッチを食べながら尋ねると、ちょうど口に入れたばかりの晧ではなく、志穂が応じる。
「晧くんはピアノも出来るけど、ヴァイオリンを弾くんです。かっこいいんですよ。」
「……弟にかっこいいはやめてくれよ。恥ずかしいだろ。」
晧が顔を赤くしてアイスコーヒーを飲む。その様子がからかいたくなる。
「ヴァイオリンかぁ、すごいね。一度弾いているところを見てみたいね。かっこいいんだろ?」
恵輔が志穂に話しかけると、志穂は大きく頷いた。晧はその横でむせている。
「ゴホッ……、志穂ちゃんのほうが上手いと思う。ヴァイオリンもコンクールに出ればいいのに。」
「えー、ピアノだけでいいよぉ。ヴァイオリンは弾くのが好きなだけだもん。晧くんこそ出た方がいいよ。」
「それこそ、弾くのが好きなだけだよ。知らない人に聞かせたいとは思わないから。」
二人の会話を聞いていて、恵輔は首をかしげた。子ども二人にピアノとヴァイオリンを習わせるというのは、どういう家なのだろう。そういえばさきほど「部屋にもピアノがある」といっていた。ということは、部屋以外にもピアノがあると言うことだ。家にピアノが二台もある家というのは、いったいどんな家なんだろうと考える。
「四条さん?」
考えにふけっていた恵輔は名を呼ばれてはっと顔を上げた。
心配そうに志穂と晧がこちらを見つめていた。




