私と主さま
「あなたは、私のものよ」
隣で呟く声が聞こえた瞬間―――――ああやっぱり、と私は思いました。
主さまの執着、それは最早後戻りできないまでに強まり。
ただ一人に注がれてしまいました。
私、シャーリー・アイギルは、伯爵家の婚外子として生まれました。
母はよくあることに夫人の侍女をしていて、父の御手付きとなったそうです。
当然、母は夫人によって伯爵家を追い出され、私は生まれるのと同時に天蠍宮の前に手紙とともに捨てられていたそうです。
その手紙も真偽は分からない、と十歳の頃に神官から手渡されましたが、実際に十二歳になる頃に父が迎えにきたので、本当だったのでしょう。
その頃、伯爵家では夫人との間に娘が生まれなかったため、懇意にしていた格上の家に嫁がせる娘を探していたようです。
そこで母が私を産んだことを思い出し、引き取ってそれなりに躾けた後、嫁がせるつもりだったのでしょうが、残念ながら十四の年に私は生まれが卑しいことを理由にその家から正式に断られてしまいました。
そのときの彼らは見物でした。
顔を悪鬼のように歪めて私を罵り、手を上げ、最後は追い出そうとしたようですが、せっかく引き取ったのにもったいないと、半月後には王宮に行儀見習いとして出されてしまいました。
それからスコーピオウの王宮で、私は四年の時を過ごしました。
四年間のうち三年間はあまり思い出したくありませんが、最後の一年は幸せなものでした。
というのも、私の生活は生涯の主となる、クインティア・セレネさまとお会いすることができたからです。
「シャーリー・アイギル? 神殿に居た?」
それが、主さまの第一声でした。
私は、その言葉に驚きました。
一方的に、私が主さまを知っているとばかり思っていたからです。
天蠍宮では主さまを知らぬ者など居ませんでした。
いいえ、『神の娘』として名高い主さまは他国にまでその名を知られていました。
月光を集めたかのような長い銀の髪、青空のような青い瞳、顔立ちはどんな精巧な人形も敵わないと言われるほど、美しく整っていました。
男性が理想とする豊満な胸や腰も娼婦のように下品には見えず、ただ美しいと崇められるものでした。
そんな主さまを私も、神殿で育った者として当然よく知っていました。
近くで仕えたことはありませんが、主さまの評判はどれも素晴らしいものでした。
まさかその主さまが、私のような者を覚えてくださっているとは思いもしませんでした。
「シャーリー、髪を結ってちょうだい」
そして主さまは、神殿に一緒に居たという親しみのようなものを覚えてくださったのでしょうか。
何かと私を重宝してくれるようになりました。
髪を結う、という御身体の一部に触れる行為は、神殿で育った者にとって本当に気を許した者にしかさせないものです。
それを私に命じてくださることを、この頃どれほど嬉しく、誇りに思っていたかなど主さまは思いも寄らないでしょう。
王家に戻り、国王陛下や王妃陛下が誰よりも大事になさろうとする第一王女である主さまに気に入られたい者は、掃いて捨てるほど居ました。
彼らの嫌がらせなど、どうでもよく思えるほど私は主さまに救われていたのです。
ですから誠心誠意お仕えしようと誓った頃、主さまは急に縁談相手を探し始めるようになりました。
陛下方から『当分は好きにしていい』と言われているにも関わらず、まるですぐにでも王家を出て行こうとする様子に、私は不安になりました。
ですから主さまにある日、思い切って尋ねたのです。
なぜそうも急がれるのですか、と。
それに対する答えは、
「だって『神の娘』としての名誉がまだあるうちに探した方が選択肢も多いと思うの」
というものでした。
強かな言葉は、あまり主さまに相応しくないようで首を傾げました。
けれど、私はそれだけではないと、気づいたのはふとしたときでした。
多くある絵姿を眺めながら、
「私は、私だけを見てくれる人がいいの……」
とぽろりと主さまが呟いたからです。
それは、身分に関係なく誰もが思うことでしょう。
かく言う私も幼い頃は、そう思っていました。
けれど神殿に身を置いていれば、よく分かるのです。
男性の身勝手や理不尽さに振り回される女性が多いことが。
浮気や暴力、それに傷ついた女性を前にすれば結婚など、と思うようになります。
伯爵家に引き取られた頃は、特にその思いを強めたものです。
正直、今となっては結婚などどうでも良いと思っていますが、王族である主さまはそうもいかないでしょう。
だからこれほど真剣に縁談相手を探しているのだろうと私は思っていました。
それに……。
『弟? 別に嬉しくも何ともないわ』
私が7歳の頃だったでしょうか。
幼い主さまと神官の声が聞こえてきたのは。
弟王子が生まれたようです、と、嬉しいでしょう、と主さまに神官が言ったのです。
けれどそれに対する主さまの声はひどく冷めたもので、
『ねえ、お父さまやお母さまは私よりもその子の方が大事だと思うかしら? ならそんな子なんていらないわ』
と言い放ったのです。
これには、周りは驚き慌てました。
主さまはその頃には穏やかで良い子だと言われていたので。
それ以降も、主さまは周囲が危惧する片鱗を見せつけました。
それは主さまが大事にしている人形だったり、絵本だったりを誰かが取り上げようとすれば、手が付けられないほどに怒り、暴れると。
気に入ったものに対する執着が、人並み外れていたのです。
それを神官たちは当然よく思わず、主さまに何度も言い聞かせました。
まだ幼い主さまは渋々ながら周囲の声に耳を貸し、次第に主さまも自分の性格を自覚して成人される頃にはすっかりその『狂気』のような執着は潜めましたが、やはりまだその『狂気』は消えたわけではないのでしょう。
『私は、私だけを見てくれる人がいいの……』
その言葉に込められて想いは、どれほどのものでしょうか。
主さまは、探しておられる。
自分の中の『狂気』のような執着を向ける、相手を。
自分の『狂気』を注ぐ相手を――――。
それから主さまは、五人の男性と会われました。
いずれも王子、公爵、という身分の高い男性ばかりと。
共通点は、美形よりもちょっと劣る容姿、でしょうか。
どういう基準で選んだのかは分かりませんが、私なりに主さまの基準を分析した結果、そうなりました。
最後の王子など、特に『平凡』の一言に尽きましたし。
まさかその平凡王子を選ぶなど、私は夢にも思いませんでしたが。
「これだけ私のことを好きでいてくれるなら大丈夫そう。私をきっと大切にしてくださるわ……それに何よりも断るのが面倒になっちゃった」
えへ、と可愛らしく首を傾げる主さま。
それが許されるのは成人前までですと呆れながら二十通目に届いた手紙を覗き込みました。
相変わらず、美辞麗句が並べ立てられ、けれど国の話題を織り込まれた手紙は一言で言うと――――重い。
断るのが面倒、というのも分からないでもないのです。
けれど、とうとう怖れていた日はやってきました。
―――――主さまが嫁がれる。
それも他国、リブラに。
「私は、これからどうしようかしら……」
主さまのいなくなった王宮に居る理由など、何一つないのです。
いえ、初めからここに留まる理由などありません。
ならお金も少しは貯まったことだし、ここを出て行こうかしら。
しばらくはのんびりと旅をするのもいいでしょう。
けれどいずれ定住するならば―――――リブラがいいわね。
主さまの評判が聞ける場所がいい、と一人思っていました。
けれど、
「ねえシャーリー……あなたも私と一緒にリブラに来てくれない?」
髪を結っているときに、まるで明日も髪を結ってとでも言うかのように気軽に言われました。
思わず動きを止め、鏡の中の主さまを見つめます。
その瞳には、真剣な色がありました。
そう、あの『狂気』も。
僅かに滲む主さまのその執着を、私は怖く思うよりも何よりも―――――嬉しいと思ったのです。
誰からも見向きもされない、親にすら捨てられた私に対する執着を。
「クインティアさまが望んでくださるのなら……私はどこまでもお供しましょう」
「……ありがとう」
嬉しそうに微笑む主さまに、私もにっこりと微笑みました。
こうして、私はリブラへと主さまと共に向かうことになったのです。