あなたは私のもの
『――――花は好きです。どんな荒野にも、一輪だけでも咲いているのを見ると……不思議と勇気づけられます』
遠くを見るような眼差しで語ったのは、彼。
平凡だけど、このときだけは格好良く見えて、どきりとしたの。
荒野、そこに咲く花はどんな花なのかしら。
私はまだ見たことのないそれに思いを馳せた―――――。
どうして今まで忘れていたのでしょうか。
いくら彼の顔が平凡だからと言って、この思い出はそれまで会った相手との中で一際印象に残っていたのに。
私は王宮のそれに比べれば荒れている公爵家の庭園を見て、ようやく思い出した自分自身に呆れてしまいました。
囚われた私たちが連れて行かれたのは、『ミストラ』という家名を持つ公爵家でした。
家紋を見て、男たちの主はそれなりに地位のある者だと思っていましたが、まさかここまでとは思いませんでした。
身分の高さはもちろん、その地位にいながらこんなことを仕出かす愚かさに驚きでした。
「手荒な真似をして申し訳ありませんでした、クインティア」
通された豪奢な一室には、気取った仕草で頭を下げるのは、どうやら公爵本人ではなく、跡取りの方のようでした。
整った顔、金色の髪、青い瞳とまるで絵本から抜け出した王子さまのような容姿は、数多の女性を虜にしたことでしょう。
またそれを彼は自覚しているようだともすぐに分かりました。
仕草が一々気取っていますし、まるで自分を好きになって当然、という自信過剰な性格が透けて見えているのです。
どこかで見たことがある、この自信過剰っぷり、と思案してすぐに思い出しました。
送られてきた絵姿の中にあったわ、と。
その絵を見ただけであまりに自信過剰な性格が見えたので、真っ先に縁談相手から外したのです。
顔を見て思い出さないのにその自信過剰で思い出すなんて、どれほどと呆れながら、私は勧められた椅子に腰を掛けました。
正面には、彼が腰をかけます。
ちなみにシャーリーとは先ほど離されてしまいました。
とりあえずは危害を加えないが、私の態度によっては、と脅されました。
シャーリーにも抵抗しないよう脅すと、彼らが連れて行ってしまいました。
「私を呼び出したのは、一体どのような御用件で?」
大体は分かっていますが、それでもあえて素知らぬ振りをして小首を傾げてみせます。
彼は、そう名前すら覚えていない彼は大げさな仕草で首を振り、
「決まっています。私は貴女をあの軟弱王子から救って差し上げたかったのです」
「軟弱王子?」
「そうです。王子というだけでアルフェッカの隊長に就いたレンシェル王子から」
まさか私以外にも勘違いしている人間が居るとは思いませんでした。
自国の貴族にもそう思われているだなんて大丈夫なのかしら私の旦那さまは、と思わず心配になってしまいましたよ。
「王子がどのような卑怯な手を使ったかは分かりませんが、もう安心してください。私が必ず貴女をお守りしますから」
私が旦那さまを心配している間にも、彼は滔々と訳の分からないことを言ってきます。
まるで悪人の手から姫君を救い出す、騎士にでもなったつもりなのでしょうか。
まさか自分がその悪人と同じことをしているとは思いもせず。
思い込みの激しい性格のようね、と会って数分で結論づけました。
「……とても心強いお言葉ですわね」
「ええ、安心して私に身を任せてください。剣の腕には覚えがあります」
「まあ……」
自信満々に言い切っているけど、絶対に大したことないわ。
言い切れる、この方絶対、旦那さまより弱い。
だって本当に強い人って自分から『自分が強い』と口にしないものだ、とアルフェッカの隊士の一人がきらきらした目で語っていたもの。
あの彼、シャーリーのことすごく好きなのよね。
『あの足で踏まれるの本当最高』って恍惚とした目で呟いていたけど、シャーリーはあまり彼のこと好きじゃないようなのよね。
だから足で踏みつけるのでしょうし。
でもシャーリーったら素直じゃないところもあるから、実際のところは分からないわね――――とやや現実逃避している間にも、目の前の彼はいかに自分が強いか語っていました。
私はそんなことはどうでもいいのだけれど、でも先ほどからものすごく聞きたいことがあるの。
「……ところで一つお聞きしてもよろしいでしょうか?」
「何でしょう?」
話を遮られたことに不満そうだったけれど、彼はどうぞと促してくれました。
「私、神殿育ちで世間知らずですし、この国にも来たばかりでまだよく分かっていないもので……」
不思議そうな顔する彼に、小首を傾げてにっこりと微笑みました。
これ以上ないくらい、満面に。
「あなたの御名前を教えていただけます?」
その瞬間の彼の顔と言ったら、見物でした。
ぽかんと、整った顔が間抜けに歪んで。
本当に後で思い出して笑い転げたくらいです。
でも今は心底困ったように頬に手を当てて、呟きます。
「どこかでお会いしたかもしれませんが、私覚えていなくて……」
「わ、私は、貴女が天蠍宮で最後の舞をささげたときにもっ」
「まああのときに来てくださっていたのですか。ですがあのとき多くの方がいらしてくださいましたし……」
「あのとき何度も貴女と目が合った! 何度も貴女は私の方を見ていたではありませんかクインティア!」
この方、本当に馬鹿なのかしら。
舞を舞っているときに誰かと目が合うわけないじゃない。
あれ、楽に見えるかもしれないけれど本当に必死なのよ。
だけど今はそれよりも、
「気安く呼ばないでくれません? あなたに名を許した覚えはありませんわ」
私の名を呼んでいいのは、今は家族を除けば旦那さまだけです。
間違ってもこんな男に許すはずがありません。
どうしてこんな礼儀知らずな人と一緒に居なければならないのかしら、と今更ながらに腹が立ってきました。
だって今頃無事に王宮に帰っていれば、旦那さまをお迎えしているころなのに。
ようやく怒りに燃えてきた私は、すっと椅子から立ち上がると、冷ややかに彼を見下ろしました。
「私はレンシェル第二王子の正式な妃、そしてスコーピオウ王の第一王女ですわ。私に危害を加えるということは、両国に牙を剥くのと同じこと。恐らくは、神殿も黙っていないことでしょう。それを分かった上での行動か、今一度お聞きしましょうか」
お馬鹿な彼に、私は親切にも最後に教えてあげました。
分かっていれば、こんなことなど仕出かさなかったでしょう。
私の視線と声に気圧されたように彼は、言葉を失いました。
でもどこまでも、彼は馬鹿だったようです。
次の瞬間、椅子を蹴倒す勢いで立ち上がると、激高し始めたのです。
「何を生意気な! 私はミストラ公爵家の跡取りだぞ! たかが第二王子の妃ごときが私にそのような口をきいてただで済むと思うなよ……!」
最早、怒りを通り越して呆れすら覚えました。
「あなたの中では、王族よりも貴族が上なのですね」
これはもう何を言っても無駄でしょう。
匙を投げ、私は早く助けが来ないかしらと思いました。
王宮に帰らない、忽然と消えた私たちにもう気づいる頃でしょう。
それにあれだけの男たちを動かしたのですから、目撃する者も居るでしょう。
いくら人気のない通り道だとは言っても、誰かの目を皆無にすることなど無理なのですから。
その点、やはりこの男は愚か極まりないと言えるでしょう。
「親切にも救ってやろうとしたのに、後悔させてやる……っ」
彼は整った顔立ちを今では悪鬼のように歪め、私の腕を掴みました。
抵抗するのも面倒で、引きずられるままについて行くしかありません。
向かう先は、どうやら庭園のようでした。
「生意気なお前など、ヴィクトムの餌にしてやる!」
「……」
ヴィクトム、それがどんな生き物かは分かりませんが、人を餌にするなど尋常ではありません。
恐らくは大型の獣、もしくは――――魔獣。
その言葉に私は眉根を寄せました。
正直、私は魔獣など見たことはありません。
スコーピオウでは魔獣は現れませんでしたし、リブラでも郊外にしか現れないのです。
神殿は神に背いた者の末路などと謳っておりますが、学者の中には人が種族の違う大型獣の交配を行ったために発生したものだとも唱える者もいます。
魔獣は、そのどれも普通の獣とは異なる姿をしていて、知能の低い生き物だと言われています。
ですから彼らは大体動くものを獲物と思い、たとえ己の子であっても殺すことがあると言われていました。
「丁度散歩の時間だからな、庭に居るはずだ。ヴィクトム、ヴィクトム―――――!」
「……」
もしも『ヴィクトム』が魔獣であったならば、確実に彼がしていることは王家に背く行いです。
ほとんどの国がそうであるように、リブラも例外なく魔獣を飼う行為を禁止しています。
厳罰が待っていることを理解しているのかも分からない彼の呼びかけに、庭園に不穏な空気が立ち込めるようでした。
庭園が荒れていたのは、もしかしたら『ヴィクトム』の所為なのでしょうか。
さすがに不安を覚え、彼に腕を掴まれたまま周囲を見回していると、ざ、ざ、と砂を踏む音が聞こえてきました。
その足音にも恐怖を覚え、私は不安に息をのみました。
反対ににや、と彼の口角が上がり、
「来たか、ヴィクトム」
と呟きました。
果たして、現れたのは――――――。
「……っ」
悲鳴を上げなかった自分を、私は褒めてやりたいと思いました。
ただ驚きと恐怖に固まってしまっただけかもしれませんが。
しかし私よりも先に、
「ぎゃあああああ! ヴィクトムーっ!」
彼が驚きと悲しみの悲鳴を上げました。
そう、現れたのは、『ヴィクトム』であったであろう醜い生き物の首を左手に提げた、全身血まみれの―――――旦那さまでした。
右手にはこれも血に濡れた大剣を持っています。
旦那さまは、悲鳴を上げる彼が私の腕を掴んでいることを目に留めると、血が飛び散っている頬を歪めて笑いました。
「貴様がカイル・ミストラだな」
あの平凡な顔が、今はこの世の何よりも恐ろしく見え、私は言葉もなく立ち尽くしましたが私の腕を掴む彼は腰を抜かしたようで、私の手を離して地面に尻餅をついています。
旦那さまは世にも恐ろしい笑顔のままその彼の目の前にヴィクトムらしき首を投げつけると、
「まさか噂通り、ミストラ公爵家で魔獣を飼っていたとはな……それだけでも厳罰に値するが」
彼は投げつけられた首にまた悲鳴を上げて、後ずさりました。
旦那さまはひたりと彼に目を当てて、血に濡れた大剣を一振りします。
……その所為で私のドレスにも血が飛びました。
「俺の妃に手を出したことは、許しがたい。命を持って贖え」
笑みを消し、凄む様はまさに鬼神のようでした。
本当にこれがいつも優しくて、温厚な旦那さまでしょうか。
ちょっと頼りない笑顔で「クインティア」と呼んでくれる、私の旦那さま……。
正直、怒りが深すぎて声を上げることもできません。
何よりも旦那さまもまるで私の存在などいないもののように、見てくれませんでした。
ただ隣で腰を抜かしている彼を見下ろすのみ。
そのことに悲しいやら怖いやらで、本当にどうにかなってしまいそうでした。
でも、ここで気を失ってはいけないと、このままではまずいということは分かっていたのです。
旦那さまは彼を殺る気満々です。
ですが、いくら妃を攫ったとはいえすぐに貴族の命を奪えば、王族と言えど非難を受けかねません。
正当なる裁きを受けさせてこそ、と考える風潮があるからです。
だからこんな人などどうなってもいいとは思うのですが、止めなければならないのです。
「レンシェル、さま……」
恐怖のあまり、それは小さな声でした。
けれど旦那さまはぴくりと反応し、大剣を握り直していた手を止めました。
茶色の瞳が、彼から私へと向けられます。
ですがその目は、彼を見る目と同じく冷ややかで。
ひくり、と喉が鳴りました。
こんな目を向けられたことがない私は、もうどうしていいか分かりません。
「あ、の……」
「……」
「レンシェル、さま……彼を、殺しては、いけませんわ」
それでもどうにかして言葉を紡ぐと、冷ややかだった目に怒りの色が籠るのが分かりました。
その恐ろしさと言ったら。
失神してしまえれば、どれほどよかったか。
ですが、私は恐怖のあまり失神するよりも。
別の方向に突き抜けてしまったようです。
「もう、嫌―――――――――――!」
きーん、ってなりました。
自分の声で。
それはレンシェルさまも、腰を抜かしていた彼も同じだったようです。
「私、とても怖い思いをしましたのに、どうしてさらに怖い思いをしなくてはいけないの!」
本当に、何というか。
申し訳ないです。
自分でも何を言っているか分からない状態でした。
でもこのときの私は、本当に必死だったのです。
旦那さまも私の声に戸惑うように、剣を下していました。
「クインティア……」
「遅いですわ! どうしてもっと早く来てくれなかったのです! それにどうして私をもっと怖がらせるようなことをするのですか! レンシェルさまなど、レンシェルさまなど……っ」
そこで、アルフェッカの皆様もいらしたようです。
息を切って駆け付けた姿が、確かに見えました。
見えたのに……。
でも私は止まりませんでした。
「大嫌い――――――――――っ!」
大絶叫再び。
それはもう静かな庭園に響きわたりました。
皆様の前で。
旦那さまを含むアルフェッカの方々はぴきりと固まり。
唯一、後から来たシャーリーが私に駆け寄ってきました。
無事でよかった、と喜ぶ前に私は彼女に縋り、
「シャーリー! 帰りましょう!」
ぼろぼろ涙を零しました。
もう嫌なの、帰りたいのとまるで子供のように駄々をこねました。
いい大人のすることではありませんね、分かっています。
縋られたシャーリーは、
「あの……蓮の宮に帰る、ということですね?」
小さく、けれど周囲に聞こえるように問い返してきました。
いくら大泣きしていたとはいえ、私にもその意図が分からないはずがありません。
一瞬、本当に一瞬ですが、
「…そうよ」
躊躇いの後、頷きました。
シャーリーはほっと息を吐き出すように分かりました、と頷くと縋りつく私の手を引いて、
「――――馬車の手配をお願いできますか?」
あのアルフェッカの彼に頼み、庭園の外へと連れ出そうとしてくれました。
私たちの背中に、
「クインティア……」
困惑の混じった声が聞こえましたが、完全に無視しました。
主従揃って無視。
庭園から出ると、シャーリーと二人で用意された馬車に乗り込み、蓮の宮まで戻りましたが、その日の夜はもちろん翌日も旦那さまの訪れを拒否しました。
伝言も受け取らない、とシャーリーに言って不貞寝を決め込みました。
お蔭で身体の疲れは取れましたが。
翌々日。
私もさすがに落ち着き、次第にあの態度はまずかったわよね、と後悔し始めていました。
助けにきてくれた旦那さまに大嫌い、と叫んだ挙句に号泣するなんて。
そもそも攫われた理由の一つは、二人で無防備に歩いて帰った所為なのだし。
それなのに助けに来てくれた相手を責めるなんて。
成人した淑女のすることではないわ。
私自身も恥ずかしい振る舞いだったけど、部下の前で妻に大嫌い、と叫ばれたのは旦那さまにとっても恥ずかしいことよね。
怒っても不思議ではない、と思うと今更ながら旦那さまに合わせる顔がなくなってきました。
でもいつまでもこのままで居るわけにはいかないし、と悶々としていると、今日も旦那さまからの伝言を持ってシャーリーがやってきました。
曰く、今夜部屋に行くと。
昨日までは『行ってもいいですか?』というものだったのに、今日は旦那さまの並々ならぬ決意を感じました。
「……お待ちしております、と伝えて」
さすがにも断るわけにはいかないわよね。
ため息をつき、覚悟を決めて旦那さまを待つことにしました。
夜、早めに入浴を済ませ、寝室で待っていると、程なくして旦那さまが入ってきました。
礼の形を取ろうとした私に必要ないと手を振られ、旦那さまは私を寝台ではなく長椅子へと促されました。
明かりが押さえられた室内では、よくは見えませんが、旦那さまの顔は少し強張っているように見えて、やはりお怒りなのかもと思いました。
どうしたら許してもらえるかしらと悩んでいると、彼は静かに口を開きました。
「……カイル・ミストラの処分が決まりました」
「……」
カイル・ミストラって誰だったかしら―――――と瞬きをして。
ああそういえば私を攫った男性の名だった気がするとようやく思い出しました。
そんなことを思っている間にも、彼の処分は極刑になったと言われました。
貴族の極刑は、生涯幽閉です。
どうやら私を攫ったことだけではなく、王家に背いて魔獣を飼っていたことも考慮されたらしいです。
さらにミストラ公爵家は、取り潰しが決まったとか。
その後、公爵家を捜索したところ彼の父親であるミストラ公爵はすでにカイル・ミストラによって監禁され、命を落としていたらしいですが。
「幽閉など生ぬるいと思うのですが……」
命で贖え、と言った旦那さまの姿が思い浮かび、ぶるりと震えました。
あんな怖い思いは、二度としたくありません。
「いえ、私はそれで十分だと思います。それ以上は望みません」
思わずきっぱりと言い切ると、旦那さまが息をのみました
その瞳は、細められて私を見据えます。
レンシェルさま、と上げた声は宙に浮かびました。
え、と思う間もなく長椅子に押し倒されていたのです。
「あなたは……っ」
ぐるりとした視界に頭がついていかず、ぱちぱちと瞬いている私の上に覆いかぶさったのは、まるであのときを彷彿とさせるかのように顔を怒りに染めた旦那さまでした。
「やはりあの男の言うように、あの男のことが好きなのですか?!」
あの男って、誰かしらと首を傾げ、恐らくはカイル・ミストラのことだと気づきました。
そういえば彼は捕えられた後、私とはもともと恋仲で、攫ったのも私に懇願されたからだと言い張ったらしいのです。
私はそれをきっぱりと陛下方に否定しました。
神に誓ってそれはありません、と。
それを旦那さまもご存じでいるはずなのに。
けれど、
「……俺は、あなたが俺を好いてはいないことを知っています」
押し殺した声で、苦しそうに呟かれて息が止まりました。
不実だとなじるわけでもない声は、低くかすれていました。
この国に来て、婚礼を挙げてから旦那さまは何度も私に愛をささやいてくれました。
私ももちろんそれに応えてきました。
最初の頃のそれは、確かに想いのこもっていないものだったかもしれません。
けれど、でも今は……。
旦那さまが私の言葉を疑うようなことは、今まで一度もありませんでした。
ですから、もともと旦那さまを好きで選んだわけではないことを悟られているとは、本当にこのときまで愚かにも気づかなかったのです。
「あなたがどうして俺を選んでくれたのかは知りません。何か目的や理由があるのだろうとは思っていました」
「……」
まさか平凡そうで、もてなさそう、で選んだ私は何も言うことができませんでした。
言葉を失った私に旦那さまは、本当に苦しそうに、けれど決意を持って言葉を紡ぎます。
「それでも俺はあなたが欲しかった。あなたになら利用されてもいいと思えるくらいに―――――あなたを一目見たときから、あなただけが欲しかった」
そう言うと、旦那さまの唇が重なりました。
呼吸も言葉も、何もかも奪い尽くしてしまいそうな口づけは、まるで私の口からは何も聞きたくないと言わんばかりのものでした。
激しい口づけに何も考えられなくなりそうで、でもそれではいけないとも思いました。
旦那さまは間違いなく勘違いをしている。
何か目的があって自分と結婚したのだろう、その目的とはあのカイル・ミストラだろうと。
私が秘密の恋人であるカイル・ミストラとより近くに居るために、自分と結婚したのだろうと。
まさか―――――そんなわけがない、と言いたいのにそれを旦那さまの唇が邪魔をしてできません。
けれど普通に考えれば分かるはずです。
だってそんな回りくどいことをしなくても、本当にカイル・ミストラが好きなら私が旦那さまと結婚することなく、彼と結婚していたと。
けれど、もともと自分を好いているわけではないという考えがある旦那さまには、そこまで考えられないのかもしれません。
これはすべて、私が悪いのでしょう。
すべて私が。
自己嫌悪に浸っている間にも頼りない寝衣の胸元の紐が解かれ、旦那さまの唇がようやく私の唇から離れました。
乱れた呼吸をどうにか落ち着かせながら、私の胸元に口づけを落としているやわらかな茶色の髪を撫でました。
「レンシェルさま……」
静かな囁きは、それでも彼の動きを止めるのに十分な効果があったようです。
私の胸元に顔を埋めたまま動きを止めた、やわらかな髪を何度も撫でます。
その仕草に、少しは落ち着いてくれればいいと思いながら、彼の頬に両手を当てて、顔を上げてくれるよう促します。
望み通り、上げられた顔はこの部屋に入ったときよりも強張っていました。
その強張りが解ければいい、と私は頬を撫でながら、ゆっくりと唇を開きました。
「申し訳ありませんでした」
「……」
「……確かに、最初私はレンシェルさまを好きで選んだのではありません」
すっと細められる茶色の瞳。
やはり、と疑いの色が浮かぶのを見て、否定するために首を左右に振りました。
「ですが……レンシェルさまとお会いして、それから帰国した後にくださった手紙を読んで、あなたをとても誠実で優しい方だと思ったのです。この方ならきっと私を大事にしてくださると。私はそんな気持ちでこの国にやってきました」
本当に失礼なことです、と呟いた私を旦那さまは、いや、と小さく首を振りました。
「この国に来てから、本当にレンシェルさまは私のようなものを大切にしてくださいました。大事にされて、愛されて……私はそれが本当に嬉しくて、幸せで―――――この方を選んでよかったのだと思いました」
「クインティア……」
「愛しています、レンシェルさま……私もあなただけです。あなただけを、愛しています」
決してあの男などではありません。
私が愛しているのは、あなただけです。
その想いは、ゆっくりと、けれど確実に旦那さまに伝わったようでした。
初めは驚きに固まっていた顔が、次第に信じられない、といった顔に変わり。
それから、とうとう嬉しそうに破顔しました。
ほっと胸を撫で下ろし、私も微笑み、とどめとばかりに囁きました。
「大嫌いなどと言って、申し訳ありませんでした。本当は大好きです、レンシェルさま」
頬に当てていた顔を引き寄せ、自分から口づけました。
触れるだけの口づけでしたが、旦那さまの顔は真っ赤でした。
年上ですが、その様子は可愛らしいとくすりと笑ってしまいました。
何というか……それがいけなかったのでしょうか。
その後、息をつく間もなく唇を奪われ、初めて長椅子で、その、してしまいました。
もちろんそれだけで終わらず、寝台でまた。
翌日はぐったりと寝台から起きられない私にシャーリーが、「仲直りができてよかったですね」と呆れたような声を掛けてきたけれど。
本当によかったのかしらと首を傾げるのも、きっと幸せなことなのでしょう。
それから、私はまた神殿での勤めを終えた後、訓練所に寄って帰ることにしました。
旦那さまが、「心配です」と言って、帰りは自分と帰るか必ず馬車を使うようにおっしゃったからでした。
私自身もあんなことがあった後ですから、それには素直に頷きました。
でも毎日旦那さまと帰るのは、やっぱり迷惑がかかるからと馬車をできるだけ利用するようにしていたら、
「もう訓練所には来てくれないのですか?」
とある日、悲しそうに旦那さまから言われました。
そのときにやっぱり垂れた耳と尻尾が見えて、思わずやわらかな茶色の髪を撫でてあげました。
どうやら邪魔に思うどころか、私が見に行くことを喜んでくださっていたようでした。
それなら行かないわけにはいきませんし、私自身も嬉しくてほぼ毎日寄ることにしています。
……でもやっぱりルビアナ、という彼女を見るとちょっと焼きもちを焼いてしまいそうになります。
でもそれよりも私を見つけたときに、嬉しそうに目を輝かせる旦那さまを見たい気持ちが大きいもの。
「レンシェルさま」
平凡で、もてなさそう。
断るのが面倒になっちゃった、なんて言う理由で選んだなんて、本当の理由は口が裂けても言えないけれど。
でも今は誰よりも、何よりも愛しい人。
あなた以外、私はもう誰もいらないの。
あなたしか、見えない。
だからあなたも、私以外を絶対に見ないでくださいね。
「クインティア、もうすぐ終わりますので待っていてください」
「ええ。ここで待たせてもらいますから、どうか私のことなど気になさらないで。いつまでも待ちますわ」
――――――そうでなければ、私何をするか分かりませんよ?
にっこり微笑むだけで、旦那さまは嬉しそうに頷いて訓練に戻って行きます。
私の中にある『狂気』に、気づきもせず。
もちろん生涯気づかせるつもりはありません。
だってそんな必要ありませんもの。
でももしも、もしも気づいたとしても。
「あなたは、私のものよ」
そのときはもう――――――狂気という名の毒が体中に回り、身動きも取れないことでしょう。