俺と隊長
その日のことを、生涯忘れることはないだろう。
隠しきれない悲しみを持って、自分たち家族の前に立ったその人の顔と、言葉を―――――。
俺、ニール・シリクは、リブラ国で平民の身分を与えられている家の三男として生まれた。
上には兄が二人、姉が二人いて、毎日が非常に賑やかな家庭だったと思う。
一番上の兄は、俺が物心つく頃には軍に所属していて、家にはほとんど帰って来なかったが、それでも優しい長兄が俺は一番好きだった。
だから俺も自然と兄を追うように軍人への道を選んだ。
軍での生活は、甘やかされた末っ子の自分にはかなりきついものだった。
それでも兄という目標があった俺は、何とか耐えることができた。
しばらくして兄が、軍の中でも選ばれた者しか所属できない、魔獣討伐を主な任務とする『アルフェッカ』に配属が決まったときは、やっぱり兄ちゃんはすごいと俺は喜んだ。
まだまだ子供だった俺は、同じ軍に所属しながらその隊に所属する本当の意味を理解していなかった。
だから、まさか大好きな兄が、
『魔獣との戦いの中で、命を落とした』
ことになるとは、思いもしなかったのだ。
その日は、休日にも関わらず降り続いた雨の所為で、家族は全員家の中に居た。
昼を過ぎたころに実家を訪ねてきた、雨除けの外套を纏った彼を迎えたのは、皮肉なことにたまたま帰省していた俺だった。
「――――マール・シリクの家はここで間違いないか」
見た目は同い年くらい、なのにその彼は年齢にそぐわない落ち着きを持っていた。
静かな問いかけにやや気圧されながら、頷いた。
そうしている間に、誰が来たのかと家族らが玄関口に姿を見せた。
すると、彼は外套の下から玄関に顔を出した父親に向けてすっと白い封筒を差し出したのだ。
「ヴァーナス・エア・スタル」
まるで歌うかのように紡がれた短い言葉に、息を呑んだ。
母と姉たちが顔を手で覆い、父が震える手でどうにか差し出された封筒を受け取る。
嘘だ、と呟いたのはすぐ上の兄だった。
それは、かつて世界が一つだった頃に使われていた古い言葉で。
封筒の名前にもなっている言葉。
ヴァーナス・エア・スタル―――――彼は神のもとへ旅立った。
その言葉と共に封筒を差し出すのは、現在も残っている軍の風習だった。
遺された家族に、殉職を伝えるための。
「なんで! なんで兄ちゃんが!」
気が付けば、俺は目の前の彼に縋って叫んでいた。
家族たちは、兄がアルフェッカに所属することになったときから、覚悟を決めていたのだろう。
だから一人納得できない俺を止め、ただ静かに頭を下げただけだった。
彼は、薄い茶色の目を伏せて、言葉少なに兄の最後を話した。
自分と二人で郊外に出るという魔獣討伐に向かったが、そこで報告を受けていた以上の等級の魔獣がもう一頭おり、その魔獣によって兄は命を奪われた。
どうにか自分が魔獣を倒したときには、兄はすでに事切れていたと。
家族は彼の説明を静かに聞き、頷いた。
俺は、まさかそれだけで兄の死の説明を終えるつもりか、と彼に食ってかかったがそれすら家族に止められた。
「あいつが軍に入ることが決まったときから覚悟していたことだ……」
「……っ」
父の言葉に、頷く家族らに俺は言葉を失った。
軍に所属する俺だけが、覚悟を決めていなかったのだ、と。
兄と同じ軍に所属しながら、自分だけが『殉職』を勝手に遠いものだと考えていた。
死は、こんなにも近いところにあったというのに。
俺だけが、目を背けていた。
呆然と立ち尽くす間に、兄の殉職を伝えに来た彼は頭を下げて、立ち去った。
家族たちはしばらくの間、玄関に立ち尽くしていたが、粛々と葬儀や手続きを始めた。
覚悟の違い、だろうか。
ただ俺だけが兄の死に納得できないで、その場に立ち尽くしていた。
それから兄の葬儀も終わり、兄の死を家族たちが内心はどうであれ、表面上は受け入れて元通りの生活を始める。
俺だけが納得も受け入れることもできなくて、逃げるように家を出て軍に戻った。
……本当は、迷った軍を辞めるかどうか。
兄の死に俺は正直、軍という死と隣合わせの仕事に怖気づいた、
けれど、辞めて新しく仕事を探す勇気もなく、結局は戻らざるを得なかった。
兄が殉職した話は同僚たちに伝わっていて、皆慰めの言葉を口にしてくれたが、俺はそんなものよりも兄の死について知りたかった。
だが、アルフェッカという特殊な部隊のことを知っている者は少なく、ほとんど情報を得られなかった。
彼らとは訓練場の位置ですら違うのだ。
それならば、自分もそこに入るしかないと稚拙な頭で考えつき、死にもの狂いで剣の腕を磨いた。
その頃、同い年の同僚に比べて身体能力が高かったことや、兄に入れたのだから自分に入れないはずがないと妙な自尊心があった自分は、二十歳でようやくアルフェッカへの入隊を認められたが、その自尊心は早々に砕かれることになる。
あれだけ努力したのだから、と誇っていた俺の実力は、アルフェッカの中では下から数えた方が早かった。
それぐらい隊士たちは強者ばかりで、ラングという能天気な同期も早々に挫折を味わい、ラングに誘われるままに二人で酒を飲みながら情けなくも泣いてしまった。
最初の頃はとにかくついていくのがやっと、と言った訓練も半年が経つ頃にはやっと周りを見回すだけの余裕ができてきた。
そして、俺はやっとこの隊の中にあのとき兄の死を伝えに来た、あの彼が居ることに気づいたのだ。
外套から僅かに覗いていた茶色の髪も、瞳も間違いなかった。
彼は―――――レンシェル王子だった。
この国の第二王子、というこの上ない身分でありながらなぜかこの隊に所属しているのだ。
ラングは、
「きっと我侭言って入れてもらったんだよ」
とこき下ろしていたが、それはすぐに間違いであることに気づく。
それぐらい、王子は強かった。
俺たちとは格が違う。
この半年、この隊で過ごしただけで分かる。
……きっと、俺はこの人を超えることはできないだろう、と。
同時に、それならなぜあのとき兄を死なせたのだ、と思うのだ。
それだけ強いのならば、兄が死ぬことはなかったのではないか、と。
もしかしたら兄を見捨てたのではないか、とすら俺は思った。
王子への疑念が燻る俺は、隊の先輩たちに探りを入れて回った。
どうしても兄の死について、知りたかったのだ。
その際にどうしても王子を非難するような発言を俺は我慢することはできなかった。
けれど、それはすぐにメレディスさんに耳に入り、俺は呼び出された。
「――――マールの死について探っているようですね?」
「……」
普段は誰に対しても穏やかなメレディスさんは、このときは一つでも嘘を吐けば切り捨てられそうなほど真剣な顔をしていた。
だから俺は嘘を吐くことなく、頷いた。
「そうですか……まあ君が入ってきたときから、そんなことだろうとは思っていましたが」
メレディスさんはため息を一つ吐くと、むっとする俺に釘を刺した。
「いいですか、殿下のことを悪く言うのはすぐに止めなさい。マールの死は、殿下の所為ではありません
」
きっぱりと言い切られ、俺は唖然とした。
確かに『昔、殿下の所為で殉職した人が居たというのは本当ですか』という聞き方はまずかったかもしれない。
けれど、メレディスさんの言葉は到底納得できるものではなかった。
だからすぐに食ってかかろうとする俺に、
「私が知っている範囲で構わないのなら、あのときのことを話しましょう。信じるか信じないかは君次第です」
「……聞かせてください」
ぐっと唇を噛んで、俺はその話を聞いた。
俺にとって、想像もつかなかった兄の話を。
――――兄は、功を焦っていたと。
「マールは、今の副隊長と同じ時期にアルフェッカに入隊しています。彼らの実力はほぼ同じ、けれど前の副隊長が除隊することが決まったとき、次の副隊長に推薦されたのは、マールではなく今の副隊長であるエリスでした」
兄は、そのことに納得がいかなかったらしい。
それから手柄を挙げれば自分が認められると短絡にも思い、無茶な魔獣討伐に出た。
「当時、報告が上がっていた郊外に出る魔獣の等級は八級で、確かにマールなら一人でも余裕で討伐できたでしょう。しかし隊長も当時の副隊長もマール一人で行かせることは承諾しませんでした。ですがマールは隊長たちの声を無視して一人で討伐に出て行き、最初に気づいた殿下がその後を追いました」
想像していた話とは全く違う内容に、俺は混乱を隠せなかった。
まさか兄が、そんなことをするはずがないと思いたいのに、メレディスさんは嘘を吐くような人でなければ、都合の良いように事実を歪める人ではないことを知っている。
だから、この話は本当なのだ。
「郊外に出る、というその魔獣は確かに八級程度のものでマールは余裕で倒したと聞いています。ですが……そこにはもう一頭報告にはなかった魔獣が潜んでいたのです。等級は五級。マールと殿下がそのことに気付いたときには、既に遅かった」
……兄は、そこで魔獣に殺されたのだ。
手柄を焦るばかりに、自ら命を落としたのだ。
「殿下も傷を負いながらもどうにか、魔獣を倒し……その後は君も知っている通りでしょう。殿下は重傷であったにも関わらず、周囲の反対を押し切って君の家までマールの死を告げに行きました」
あのとき、王子はどんな思いで自分の家に来たのだろうか。
傷を負いながらも兄の死を告げにやってきた、王子。
それを自分は……。
「これが、私が知っていることです」
メレディスさんは、もう一度信じるか信じないかは俺次第だと言うと、背を向けた。
俺は、その背に何も言うことができなかった。
メレディスさんの話を聞いて、後から後から思い出す。
あのときの王子の感情を隠しきれなかった瞳を、言葉を。
エリス副隊長が、俺を見て懐かしそうに目を眇め、けれど一瞬だけつらそうな色を宿したのを。
見落としていたそれらは、とても大きくて重たいものだった。
俺は、兄の一体何を見ていたのだろう。
無邪気に慕っていた、兄は何だったのだろう。
優しい兄だと、それしか俺は見ていなかったのかもしれない。
それからの俺は、ぼんやりと兄のことを思い出したり、王子のことを考える日々が増えた。
同時に失敗も増えたけれど、どうしても兄のことに心が囚われていた。
そんな中、命じられた任務ではやっぱり失敗をやらかして、一緒に来ていた王子たちにも迷惑をかけることになって、落ち込んだ。
ラングは、八級の魔獣を初めて倒すことができて喜んでいたが、俺はといえば危うく魔獣の爪の餌食になるところで、王子に救われた。
俺の失敗には関係なく任務は終了し、リブラへの帰途をたどりながら途中、野宿をすることになった。
野宿の用意をしながら、ラングが能天気にメレディスさんに話しかけている。
「そういえば、この辺って数年前まで魔獣が出たんですよね? それも結構強いやつ」
「……出ましたよ。殿下が倒しています」
「へえ。やっぱり殿下ってすごいんだな」
その王子は、今はどこかに行ってしまった。
野宿の用意がある程度できると、あまり一人で遠くに行くと危ないから、とメレディスさんに言われて俺は王子を探すことになった。
一体どこに行ったのか。
小川を超え、木々の間を抜けて俺は言葉を失った。
そこは……一面の、青だった。
「ニール?」
呼びかけられ、はっと我に返る。
目の前には王子が、一面に広がる青い花を背に立っていた。
言葉を失うほど美しい、光景だった。
見惚れていたことを悟られないように、俺は目を逸らしながら言った。
「……野宿の用意ができたので、探しに来ました」
「ああ、ありがとう」
「………」
そう言いながらも王子は立ち去る気配を見せない。
俺もあまりの花の美しさに、離れがたかった。
二人で無言のまま、しばらく花を眺めた。
「――――ここは、魔獣の所為で以前は草すら生えない荒野だったんだ」
ぽつり、と呟いた王子に俺は顔を上げた。
二歳年下でありながら、王子は俺よりも背が高かった。
「けど、そのとき一輪だけ青い花が咲いていた。その花がまさかここまで根を生やすとは思わなかった」
「……」
――――数年前、王子がここに居た魔獣を倒したと。
ラングとメレディスさんの会話が、蘇る。
まさか、と俺はその可能性に思い至った。
そんな都合の良いことがあるだろうか。
けれど……目を細めて花を眺める王子の顔を見ていれば、それが間違いではない気さえしてきた。
「綺麗、ですね」
「……ああ」
どうしてか、後から後から涙が零れた。
……ここが、兄の死に場所かもしれない。
けれど、違うかもしれない。
王子に聞けば分かるけれど、俺はそうしなかった。
たとえ違っていても、それでも、いい。
俺は、この綺麗な場所で兄が亡くなったのだと、思いたかった。
兄のために、そして自分のために。
俺はいくつもいくつも涙を零した。
その俺の頭を無言で王子が撫でたけれど、俺は俺の方が年上なのにな、と思った。
でも、優しい大きな手が心地よくて、振り払うことはしなかった―――――。