第一話
器楽棟の一室、個人練習用の完全防音の部屋に、優美な曲が響き渡っていた。
そこにいるのは淡い黄色の髪をもつ少年だった。まだ幼い指先が優雅にバイオリンを滑り、作曲家ヒューベルの代表的な曲、『楽園』を奏でている。そのさまを、傍らの椅子に座って聞き惚れているのは青い髪の少女だ。目を閉じて、じっと少年の弾くバイオリンの音色に耳を傾けていた。
最後の音が部屋に余韻を残し、数秒後。少女が一人で割れんばかりの拍手を送る。それを特に気にした風もなく、少年はバイオリンを下ろした。
「やっぱり、シロンはうまいのね。どうせなら、国王様が主催するコンクールに出ればいいのに」
少女は目を輝かせ勢い込んで少年に近づき、声をかけた。しかし少年の方は、少女の言葉に応えることも反応することもせず、バイオリンをケースにしまっている。その、一見するとそっけない態度を意にも介さず、少女は言葉を続けた。
「ヒューベルの曲自体が良いっていうのもあると思うけど、シロンが演奏すると違う気がするの。先生が弾くヒューベルはなんだかつまらないもの」
「……エリン、そろそろ授業が始まるよ」
楽しそうに言う少女に向かって、少年が顔を上げて呟いた。それを聞いて、少女は慌てた。
「えっ、もうそんな時間なの!? 今日もありがとね、シロンっ」
少女はそばに置いていた荷物を手に取り大急ぎで部屋を出て行った。
「おはようございます、皆さん。今日の音楽講義では――」
教師が教壇に立ち、もうお決まりの文句をいつものように喋りだした。
ここは、国では唯一であり、最大でもある専門学校。音楽家を養成する、グレンダール音楽学校である。広大な敷地には、器楽棟、声楽棟、教室棟といった建物があり、他には一流の演奏家が使用するような演奏ホールも存在している。
何人もの音楽家を世に輩出してきたグレンダール音楽学校では、当然のごとく授業の8割は音楽に関するものが占めていて、教師は名だたる音楽家が勢ぞろいしている。その徹底した音楽一筋の教育体系は他国の音楽学校の追随を許さず、グレンダール音楽学校を歴史と実績のある教育機関たらしめていた。
そんな学校の生徒の一人であるエリンも、有名な先輩たちに負けぬ音楽家になろうと日々努力しているのだ。その努力の一端が、まさしくこの授業、今講義を受けていることということになる。
音楽のなんたるかについて熱く語る教師の話を聞きながら、ちらと斜め前の空席に目を向けた。
シロンは、今日もサボるのかな。
きっと、さっきの練習室にこもったままヴァイオリンを弾いているのだろう。シロンの才能を認めているのか、先生たちもそのことについてシロンを咎めようとはしない。グレンダール音楽学校は、すぐれた音楽家を育てるための機関として、実力のある生徒に対してはそういう特別措置も辞さないらしい。ちなみに、エリンがもし授業をさぼってピアノでも弾いていようものならすぐさま担任のリドル先生がやってきてお説教を受けるだろう。シロンとはずいぶん扱いが違う。つまり、そういうことである。
「――ロメル・ヒューベルは、この時代を代表する作曲家で、当時私達の国では何百もの演奏家がこぞって彼の曲を演奏し――」
いつのまにか、先生の話はヒューベルに移っている。それによれば、ヒューベルはこの学校の創立当初、学校に寄付金をたくさん送ったらしい。この学校の創始者ヴィシス・グレンダールとヒューベルは旧知の仲で、当時起きた戦乱をともに戦ったのだという。
すでに自分でヒューベルの経歴を調べて知っているエリンはほとんど暗記しているそれらをサラサラと紙に書き始めた。もともとヒューベルの曲が好きで音楽の道に入ったようなものだから、ヒューベルについてエリンが知らないことはないと言ってもいい。もしかしたら、教壇にいる先生よりも詳しいかもしれない。先生の話す内容を先取りして書き留めていく。いつの間にか、先生の方もさらに熱が入ってヒューベルについて長々と話していた。
「――というわけで、音楽がひとびとに与える影響についてですが――」
ヒューベルの話がひととおり終わると、先生はそう言ってやっと本題に入った。
授業終了のベルが鳴り先生が退出すると、エリンはパンの入った包みを手に持って急いで廊下に出た。ほとんど走って屋上に続く階段を駆け上がり、扉を開けた。
とたんに、外の新鮮な空気がエリンの身体を通り抜ける。その気持ちよさに身を任せていると、いつもの場所に腰を下ろしているシロンが目に入った。
「やっほ、シロン」
「今日の音楽講義、何だった?」
エリンが傍にやってくると、挨拶に返事をするわけでもなく、リンゴをまるごとかじりながら尋ねてきた。シロンの傍らには、ヴァイオリンのケースが二つ置かれている。
「ヒューベルのことと、音楽がひとに与える影響と……戦乱における音楽の有効性、だったかな?」
首をかしげつつ、エリンは人差し指を顎に当て応える。すると、シロンはリンゴを片手に横目で少女の方を見た。
「……ちゃんと話、聞いてた?」
とがめるような声音ではないが、呆れが含まれている。エリンは、少年の目線に慌てた。
「も、もっちろん聞いてたよ。……そりゃ、ちょっと聞きそびれたところもあるけど。だって、ヒューベルの話聞いたら思わずね」
シロンはため息をついた。
「……エリンは、ヒューベルが大好きだからね」
「まぁねっ」
得意げに、少々頼りない胸をそらしてみせるエリンを見て、シロンは苦笑した。
「それより、シロンはまた練習室にいたの?」
授業中、からっぽだった彼の席を思い出しながら、尋ねた。
「うん。彼らが謳いたがっていたから」
苦笑ではない穏やかな微笑を浮かべ、"彼ら"―――傍らのバイオリンケース―――を撫でてみせる。
シロンには、楽器の"声"が聞こえるのだという。とても小さくて、とても控えめな声だけれど、確かに彼らは、弾き手に語り掛けてくるというのだ。
そのことをいうと、たいていの人は馬鹿馬鹿しいと一蹴するが、エリンは、幼馴染のシロンが嘘を言うような性格ではないことを知っている。楽器の"声"が聞こえる、それは、彼の持つ特別な力なのだと、今もエリンは信じていた。
「いいなぁ、シロンは。楽器の声が聞こえて」
膝に顎を乗せ、シロンの撫でるバイオリンケースを見つめた。
シロンの力は信じていたけど、エリンにはそんな特別なものは備わっていなかった。自分にも聞こえないかと、この学校に入って幾度もピアノに耳を傾けた。だが、エリンには何も聞こえなかった。聞こえるのはピアノの奏でる音だけ。特別な"声"は、何も聞こえなかった。
「エリンもきっと、聞こえるようになるよ」
そう言って、シロンはリンゴの最後のひとかけらを食べ終え立ち上がった。
「行くの?」
「うん。リドル先生に呼ばれてるから」
両肩にバイオリンのケースを背負い、扉に向かう。
「シロン、放課後また聞きに行ってもいい?」
「いいよ。練習室の117だからね」
部屋番号を告げ、シロンは屋上を去っていった。
シロンの消えていった背中を見つめながら、エリンはパンを一口ほおばった。
「いいなぁ……」
シロンは最近、担任のリドル先生に進路についての指導を受けているらしい。こうしたらどうだ、ああしたらどうだといろいろ提案されるという。まだ最終学年でもないのにそういうふうに言われるのは嫌らしいが、エリンにとってはうらやましい話だった。最終学年でないのに進路指導を受けるということは、それだけの実力者だということである。
そうやって目をかけられるほどの実力を、エリンは持っていなかった。
「っと、私もぼんやりしてる場合じゃなかった」
エリンは我にかえり、パンをさっさと食べ終わると、先日の講義で出された課題をこなすために屋上を後にした。
「エリン・シルバーバーグさん。この間の課題だけど、酷かったわね」
担任のリドル先生は、開口一番、エリンに向かってそう言った。
立ちつくすエリンを尻目に、リドルはエリンが提出した課題、5枚ほどの譜面に目を落とした。
「メロディの配分が滅茶苦茶。主旋律でもないこっちの第二ピアノが明らかに主役のピアノを邪魔しているわ」
エリンは、器楽棟の練習室の中で、担任のリドルに説教を受けていた。わざわざここに呼び出したのはリドルの方で、この部屋は本来であればピアノの練習のために使う部屋だ。
先生の呼び出しというのは、それだけ注目されている証といえる。
しかし、エリンの場合は、"悪い意味で"注目されているようだった。
「ここの部分、第二ピアノは休ませて。それと、いい? 主旋律担当のピアノの、13小節目のところ、これじゃぁ」
リドルは、エリンが作曲した課題の曲を見ながら、そのメロディラインをピアノで弾いてみせる。
「次の小節に向かう気持ちになれないわ。ラインに乗りきれていないのよ」
そんなふうに、リドルは逐一エリンの曲に文句をつけ、修正を加えていく。
課題は、簡単なピアノ用楽曲を作曲する、というもの。5枚の譜面は、エリンが連日うなりながらなんとか完成させたものだった。
修正を加えすぎたために不幸にも全く別のものになってしまったエリンの曲を眺めながら、リドルは最後にこう告げた。
「一応、こうやって修正は加えたけれどね、正直あなたの作曲するものはどれもテーマが曖昧なのよ。だからどんなに修正しても素晴らしい一曲にはならないわ。テーマをはっきりさせること、これを最重要課題にしなさい」
「もっと早く言え、このバカーっ!」
エリンの精一杯の叫び声が、屋上にこだました。
ぜえはあと息を整えると、急に馬鹿馬鹿しくなって地面に腰をおろした。
リドル先生はあの後、特別に課題を与えるわ、と言って欲しくもない課題をエリンにくれた。来週までに形にしなさい、と言われたが、エリンは正直もうやる気などかけらも起きてこなかった。
これまで見てきているからわかる。リドルは生徒に対して厳しい。
リドル・ドルレットといえば、以前はけっこう名の知れたピアノ奏者である。今は引退しているが、その高い音楽性とピアノの腕は健在で、生徒へのアドバイスも的確だと評判らしい。
しかし、それにしたって。せっかく一生懸命やってきた課題を修正の赤まみれにしたうえ、とどめの一発とばかりエリンの作りだすもの全部を否定するとは、真綿で首を締めあげられたあとに断崖から一気に突き落とされたような気分である。
「……もう……、やめちゃおうかな……」
膝を抱え込み、その間に顔をうずめた。
振るわない成績に、こき下ろされた自作の曲、全く無い才能、努力しても身に付かないセンス。そんなふうに考えていくだけで、エリンの心は絶望の淵へ落とされていく。
すでに放課の時間。音楽学校であるこの学校の生徒なら、皆それぞれに作曲や演奏の練習にいそしむ時刻だ。だが、エリンはそんな事をする気力もなかった。ほとんど毎日のようにしている、シロンの演奏を聴きに練習室へ行くことも億劫だった。
「娘、あまり大声はいかんぞ」
「……へ?」
どこからか、唐突に降ってきた凛々しい男の声。
思わず間抜けな声をあげて周りを見回すと、そこにいたのは、礼服に身を包んだ青年だった。
歳の頃はおそらく20代。沈み始めた陽に照らされる髪は青みがかった黒だ。よく見ると、ずいぶん整った顔立ちをしている。クラスの女子が見たらやたらと騒ぎそうだ。こういうのを美形と称するのだろう。着ている礼服はエリンの着ている服の素材とは明らかにモノが違う、高価そうなものだった。そんな高価そうな礼服なのに、青年は屋上の地面に座り込んでいた。
青年は、自分から声をかけておいて何故か驚いたような顔になった。そして、整った顔を緩ませ、微笑んだ。
「娘。そのような間抜け面というのもいかんな。せっかくの可愛い顔が台無しだ」
「……は、えっ?」
可愛い、なんて、これくらいの歳の男の人に言われた経験は、エリンには無い。いや、男の誰からも言われたことは無い。エリンは思わず顔を赤くして、戸惑いから目を白黒させた。
そんな反応を楽しむかのように、青年は笑った。
「ふふふ。面白い子だな」
「う、えと、」
慌てながら、エリンは青年の顔を見た。教師、にしては若い。上級生……というには大人びている。
「あの、あなたは、」
あなたは、誰ですか?
エリンが発そうとした言葉は、青年の続く言葉によって打ち消された。
「ところで、やめるというのは、何をやめるのだね? 曲を作ることかい? それとも、この学校かい?」
「……!」
エリンの顔が、別の意味で赤くなった。
「あ……あなたには、関係ありませんっ」
語気も強く言い放ち、エリンは立ち上がって屋上を走り去っていった。
あとに残された青年は、エリンを追うことなく、空を見上げた。そして、苦笑いとともに一人ごちた。
「……やれやれ」