↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR

変わるものと、変わらないなにか

作者: AVAR
掲載日:2026/11/07

――写真に残らなかった時間ほど、よく覚えているものだ。

春という季節は、いつも少しだけ嘘つきだ。


冬の寒さが終わったことを、あたかも何かが始まる合図のように見せる。街路樹には新しい葉が芽吹き、駅前の花屋には色鮮やかな花が並ぶ。昨日までと同じ街なのに、少しだけ違う場所に見える。


けれど、春になったからといって、昨日までの自分が急に変わるわけではない。


僕はその春も、いつもと変わらない毎日を送っていた。


大学へ行き、授業を受け、アルバイトをして、帰り道にコンビニへ寄る。特別な不満はなかった。かといって、何かを心待ちにしているわけでもない。


日々はそれなりに忙しく、退屈で、そして驚くほど規則正しく過ぎていた。


そんな生活に、君が入り込んできた。


きっかけは、ありふれたメッセージだった。


『はじめまして!』


画面に表示されたその文字を、僕は特に深く考えずに返した。


『はじめまして。よろしくお願いします』


それだけだった。


最初のうちは、互いのプロフィールに書かれたことを話題にしていた。好きな食べ物、休日の過ごし方、学校のこと。会話が途切れそうになるたびに、どちらかが質問を投げかけた。


君は、よく笑う人だった。


文章の最後に「笑」とつけることが多く、たまに送られてくる写真には、食べかけの料理や、道端で見つけた変な看板が写っていた。


何が面白いのかよくわからない写真もあった。


けれど、僕はその写真が届くのを待つようになっていた。


ある夜、君から電話の誘いがあった。


『今何してる?』


『特に何も』


『電話しない?』


僕はすぐに返事をした。


通話が始まるまでの数秒が、やけに長く感じられた。


「もしもし」


「もしもし」


最初の声は、少しだけ緊張していた。


それでも、話し始めてしまえば不思議なほど自然だった。


学校の話をして、アルバイトの話をして、最近見た動画の話をした。君は話の途中でよく脱線した。何かを説明している最中に別のことを思い出し、結局最初の話題に戻ってこないこともあった。


「それで、結局何の話だったっけ?」


「知らないよ(笑)」


「ひどいなあ」


そんなやりとりが続いた。


気づけば、窓の外は真っ暗になっていた。


「もうこんな時間だね」


君が言った。


「明日大丈夫なの?」


「たぶん大丈夫」


「絶対起きられないでしょ」


「起こしてよ」


「なんで僕が(笑)」


君は笑った。


その声を聞きながら、僕はこの電話が終わらなければいいと思っていた。


けれど、終わりはいつも突然やってくる。


「じゃあ、そろそろ寝るね」


「うん。おやすみ」


「おやすみ。また話そうね」


通話が切れた。


画面には、通話時間が表示されていた。


一時間四十七分。


そんなに話していたのかと驚いた。


さっきまで確かにそこにあった声がなくなり、部屋には冷蔵庫の小さな作動音だけが残っていた。


僕はスマートフォンを充電器につないだ。


その夜は、いつもより少しだけ寝つきが悪かった。


初めて会うことになったのは、それから一週間ほど経った頃だった。


待ち合わせは駅の改札前。


僕は約束の二十分前に着いてしまい、駅前のコンビニで時間を潰していた。


買うつもりもなかった水を一本だけ買い、店の外に出る。


冷たいペットボトルを持ったまま、何度もスマートフォンを確認した。


『着いたら連絡するね』


君からのメッセージはまだ届いていない。


改札の前には、待ち合わせをしているらしい人たちが何組もいた。誰かを見つけて手を振る人、相手の姿を探して背伸びする人、到着した途端に笑顔になる人。


僕もその中の一人になるのだと思うと、少しだけ落ち着かなかった。


やがて君から連絡が来た。


『着いた!』


顔を上げると、少し離れた場所に君が立っていた。


写真で何度も見ていた顔なのに、実際に目の前にいると、知らない人のように感じた。


「初めまして」


君は笑って言った。


「初めまして」


その挨拶が少しおかしくて、二人で笑った。


駅から少し歩いたところにあるカフェに入った。


君はメニューを開くと、しばらく悩んでいた。


「これもおいしそうだし、こっちも気になる」


「好きなの頼みなよ」


「でも、こっちにしたらよかったって思いそう」


「そんなに悩むこと?」


「大事なことだよ」


君は真剣な顔でメニューを見比べた。


結局、最初に気になったものを注文した。


料理が運ばれてくると、君はすぐにスマートフォンを取り出した。カップの向きを変え、少し角度を調整して、何枚か写真を撮る。


「そんなに撮るの?」


「せっかくだから」


「一枚でよくない?」


「そういうところだよ」


君は呆れたように笑った。


そのあと、僕たちは街を歩いた。


雑貨屋に入って、特に必要のない小物を眺め、ゲームセンターでクレーンゲームに挑戦した。


君は青いクラゲのキーホルダーを見つけた。


透明なビニールの中に小さな青いクラゲが入っていて、光を受けると水の中に浮かんでいるように見えた。


「これ、かわいくない?」


君はケースの中を覗き込んだ。


「クラゲが?」


「うん。なんかいいじゃん」


「よくわからないな」


「えー、絶対かわいいよ」


君は景品を取ろうと何度か挑戦した。


けれど、アームはクラゲの頭をかすめるだけで、持ち上げることすらできなかった。


「絶対取れると思ったのに」


「今のは惜しかったね」


「本当に思ってる?」


「思ってるよ」


「絶対嘘(笑)」


結局、君はクラゲを取れなかった。


店を出る頃には、君はもう別の話をしていた。


それでも、僕はあの青いクラゲのことを覚えていた。


帰り道、君は何度も今日のことを振り返った。


「あの店よかったね」


「うん」


「ゲームセンターも楽しかった」


「クラゲは取れなかったけどね」


「それは言わないでよ」


君は笑った。


駅に着くと、君は改札の前で立ち止まった。


「今日はありがとう。また遊ぼうね」


「うん。また行こう」


君が改札を抜けていく。


その背中を見送りながら、僕は自分が思っていたよりも今日を楽しんでいたことに気づいた。


その夜、君からメッセージが届いた。


『今日はありがとう!楽しかった!』


僕はすぐに返した。


『こっちこそ。次はクラゲ取ろうね』


『まだ言ってる(笑)』


その返信を見て、僕は笑った。


たった一日の出来事が、明日を少し楽しみにさせていた。


春は、いつも何かを始める。


ただ、その始まりが何になるのかを、僕たちはまだ知らない。








二度目に会った日は、初めて会ったときよりも緊張しなかった。


待ち合わせ場所に着くと、君はすでに駅前のベンチに座っていた。


僕に気づくと、少しだけ手を振った。


「おはよう」


「おはよう。早かったね」


「今日は遅刻しないようにした」


「いつも遅刻するみたいな言い方だね」


「そんなことないよ」


君は笑って立ち上がった。


その日の目的地は、少し離れた場所にある水族館だった。


電車に乗ると、君は窓の外を眺めていた。


流れていく建物や看板を見つけては、どうでもいいことを話す。


「見て、あの建物」


「どれ?」


「あ、もう過ぎちゃった」


「見せる気ある?」


「あるよ(笑)」


目的地に着くまで、そんな会話が続いた。


水族館は思っていたよりも空いていた。


青い照明に包まれた館内を、魚たちがゆっくりと泳いでいる。


君は大きな水槽の前で足を止めた。


「きれい」


水槽の向こうには、光を反射する魚の群れがあった。


君はしばらく黙ってそれを見ていた。


「こういうところ好きなんだ」


「うん。なんか落ち着く」


「水の中にいるみたい?」


「それもあるけど、ここにいると何も考えなくていい気がする」


君は水槽に映る自分の姿を見つめた。


その横顔が、青い光の中で少しだけ遠くに見えた。


クラゲの展示室に入ると、君は急に足を速めた。


「クラゲいる!」


そこには、いくつもの水槽が並んでいた。


白く透き通ったクラゲが、ゆっくりと傘を開いたり閉じたりしている。


君はその前に立ち止まり、しばらく動かなかった。


「ずっと見ていられるね」


「そんなに好きなの?」


「うん。何も急いでない感じがいい」


「クラゲも生きるの大変なんじゃない?」


「そういう現実的なこと言わないでよ」


君は笑った。


そのあと、売店に寄った。


そこには、初めて会った日に見たものとよく似た青いクラゲのキーホルダーが売られていた。


君はそれを手に取った。


「またクラゲ?」


「かわいいんだもん」


「取れなかったから?」


「それもある」


君は値札を見て、少し考えた。


「どうしようかな」


「買わないの?」


「うーん、今日はいいかな」


そう言って、君はキーホルダーを棚に戻した。


僕はそのことを覚えていた。


けれど、その日は何も言わなかった。


帰り道、僕たちは公園に寄った。


ベンチに座ってアイスを食べる。


君はアイスを一口食べて、少し顔をしかめた。


「冷たすぎた」


「アイスなんだから当たり前でしょ」


「そうだけど」


君は笑いながら、溶けかけたアイスを食べた。


しばらくして、君が聞いた。


「ねえ、私たちって今どういう感じなの?」


僕は手に持っていたアイスを見た。


急に聞かれたものだから、すぐには答えられなかった。


「どういう感じって?」


「なんか、普通に遊んでるだけなのかなって」


君は前を向いたままだった。


公園の向こうを、小さな子どもが走っていく。


僕は、ここで曖昧な答えを返したくないと思った。


「僕は、もっと一緒にいたいと思ってるよ」


君は少しだけこちらを向いた。


「それって?」


「好きってこと」


口に出してみると、思っていたよりも簡単だった。


ただ、言い終えたあとの沈黙は長かった。


君は手に持ったアイスを見つめていた。


やがて、小さく笑った。


「私も好きだよ」


その言葉を聞いた瞬間、胸の奥にあった何かがほどけた気がした。


僕たちは、その日から付き合うことになった。


帰り道、駅までの距離がいつもより短く感じた。


改札の前で別れるとき、君は少し照れくさそうに言った。


「これからよろしくね」


「こちらこそ」


君が改札を抜ける。


僕はその背中を見ながら、これから始まる時間を想像していた。


その数日後、僕はもう一度あの水族館の売店を訪れた。


青いクラゲのキーホルダーは、まだ棚に残っていた。


僕はそれを手に取り、会計へ持っていった。


何か特別な理由があったわけではない。


ただ、君がかわいいと言っていたものを、君に渡したかった。


袋に入った小さなクラゲは、思っていたよりも軽かった。


次に会ったときに渡そう。


そう思って、机の引き出しにしまった。


けれど、次に会ったとき、僕はそれを渡し忘れた。


その次も、その次も。


大切にしようと思っていたものほど、渡すタイミングを考えすぎてしまうことがある。


僕はそのことを、まだ知らなかった。








付き合い始めてから、僕たちは以前より頻繁に会うようになった。


特別な場所に出かける日もあれば、駅前でご飯を食べるだけの日もあった。


君は、予定を立てるのが少し苦手だった。


「どこ行きたい?」


そう聞くと、たいてい「どこでもいい」と返ってくる。


けれど、いざ出かけると、行きたい場所を次々に見つける。


「ここ寄りたい」


「さっきも寄りたいところあったじゃん」


「だって気になるんだもん」


君と出かける日は、予定通りに進まないことが多かった。


それでも、僕はその時間が好きだった。


君といると、目的地に着くことよりも、そこへ向かう途中の方が大切に思えた。


ある日、二人で映画を見に行った。


映画が終わると、君はエンドロールが流れ終わるまで席を立たなかった。


「もう出ないの?」


「最後まで見たい」


「何かあるの?」


「ないかもしれないけど」


「じゃあ帰ろうよ」


「待って」


君は真剣な顔でスクリーンを見ていた。


やがて照明が点き、僕たちは劇場を出た。


「何もなかったね」


「でも最後まで見たかったんだもん」


「そういうところあるよね」


「どういうところ?」


「何かあるかもしれないって、最後まで期待するところ」


君は少し考えてから言った。


「だって、最後まで見ないとわからないじゃん」


その言葉は、何気ない会話の一つとして流れていった。


けれど、なぜか僕の中に残った。


七月の終わり、僕たちは花火大会へ行くことになった。


君は浴衣を着てくると言っていた。


当日まで、僕は何度も天気予報を確認した。


雨の予報が出るたびに気分が沈み、晴れの予報に変わるたびに安心した。


待ち合わせ場所に現れた君は、淡い水色の浴衣を着ていた。


髪はいつもより丁寧にまとめられていて、耳元には小さな飾りが揺れていた。


「どう?」


君は少し照れながら、くるりと一回転した。


「似合ってる」


それ以上の言葉が出てこなかった。


君は「ありがとう」と笑った。


その笑顔を見て、僕は今日という日を忘れたくないと思った。


会場には多くの人が集まっていた。


屋台の明かり、焼きそばの匂い、遠くから聞こえる太鼓の音。人々の話し声が重なり、街全体が一つの大きな祭りになっていた。


君はりんご飴を買った。


「一口いる?」


「いらない」


「おいしいのに」


君は僕の返事を待たずに差し出した。


僕は仕方なく一口かじった。


甘かった。


君は満足そうに笑った。


「ね、おいしいでしょ」


「まあね」


「素直じゃないなあ」


花火が始まるまで、僕たちは屋台を回った。


君は射的に挑戦し、景品を一つも倒せずに悔しがった。


「絶対あれ取れたと思ったのに」


「惜しかったね」


「今日そればっかり言ってない?」


「実際惜しいんだから」


「じゃあ次は取ってよ」


僕は挑戦したが、結局一つも取れなかった。


君は大笑いした。


その笑い声を聞いているだけで、僕は十分だった。


花火が始まる頃、僕たちは河川敷に座った。


空が暗くなり、最初の一発が夜空に咲く。


光が広がり、少し遅れて音が胸に届いた。


君は小さく声を上げた。


「きれい」


花火の光が君の顔を照らす。


一瞬だけ明るくなり、次の瞬間にはまた暗くなる。


僕は花火を見ているふりをして、何度も君の横顔を見た。


そのとき、君が鞄から小さなカメラを取り出した。


「これ、使い捨てカメラなんだ」


「今どき?」


「なんかいいじゃん」


君はカメラを構えた。


「撮るよ」


「花火?」


「うん。あと、今日のこと」


シャッターを切る音がした。


「撮れた?」


「わかんない。現像するまでのお楽しみ」


君はカメラを僕に渡した。


「次は撮って」


僕はカメラを構えた。


君は花火を見上げていた。


シャッターを切る。


その瞬間、君がこちらを向いた。


「今撮った?」


「撮ったよ」


「変な顔してない?」


「大丈夫」


「絶対嘘」


君は笑った。


カメラの中には、どんな表情が残っているのだろう。


それは、しばらく先までわからない。


花火が終わると、僕たちは人混みを避けて駅へ向かった。


君は少し疲れた様子だった。


「楽しかった?」


僕が聞くと、君は頷いた。


「うん。来年も来たいね」


「来よう」


「約束ね」


「約束」


君は小指を差し出した。


僕はその指に自分の指を絡めた。


小さな約束だった。


でも、僕たちはそのとき、本当に来年も一緒にいるつもりだった。


帰り道、君は僕の腕に寄りかかっていた。


「眠い?」


「ちょっと」


「寝ていいよ」


「駅着いたら起こしてね」


「わかった」


君は目を閉じた。


電車の揺れに合わせて、君の頭が少しずつ僕の肩に寄ってくる。


僕は動かないようにしていた。


窓の外には、夜の街が流れていた。


あの時間が、いつまでも続けばいいと思った。








夏が終わる頃、僕たちは少しずつ互いの生活に慣れていった。


毎日連絡を取り、時間が合えば電話をする。


会う日には、何を食べるか、どこへ行くかを相談する。


特別なことは何もなかった。


ただ、君がいることが日常になっていた。


ある夜、二人でファミレスに入った。


窓の外では雨が降っていた。


僕たちはドリンクバーを何度も往復し、長い時間を過ごした。


君はストローをくるくる回しながら、窓の外を眺めていた。


「雨って嫌い?」


僕が聞くと、君は少し考えた。


「家にいるときは好き」


「外にいるときは?」


「嫌い。髪が崩れるから」


「理由が現実的だね」


「大事なことだよ」


君は笑った。


しばらくして、君が言った。


「私ね、いつか海の近くに住みたい」


「急だね」


「なんかいいじゃん。朝起きて海が見えて、休みの日は何もしないで過ごすの」


「それなら僕は駅の近くがいいな」


「なんで?」


「便利だから」


「夢がないなあ」


「海の近くって不便そうじゃん」


「そういうところだよ」


君は笑った。


僕たちは、将来の話をすることがあった。


どこに住みたいか、どんな仕事をしたいか、どんな休日を過ごしたいか。


具体的な約束をするわけではない。


ただ、何年か先の話をしても、そこに互いがいることを疑っていなかった。


「もし海の近くに住んだら、毎日見に行くの?」


「最初だけかもね」


「じゃあ意味ないじゃん」


「でも、たまに見るからいいんだよ」


君はそう言って、窓の外に目を戻した。


雨はまだ降り続いていた。


店を出ると、傘を持っていなかった僕たちは、駅まで走ることになった。


君は走るのが遅かった。


途中で笑い出し、結局ほとんど歩いていた。


「早く!」


「無理!」


「濡れるよ」


「もう濡れてるよ!」


駅に着いた頃には、二人とも少し濡れていた。


君は前髪を手で整えながら、僕を見た。


「最悪」


「だから傘持ってくればよかったのに」


「こんなに降ると思わなかった」


「天気予報で言ってたよ」


「そういうこと言わないでよ」


僕たちは笑った。


その夜、君からメッセージが届いた。


『今日は楽しかった!』


『雨でびしょびしょだったけどね』


『それも含めて楽しかったよ』


僕はその言葉を見て、しばらく画面を眺めていた。


雨に濡れた帰り道が、こんなにも大切な思い出になるとは思わなかった。


秋になると、君の生活は少しずつ忙しくなった。


課題やアルバイト、友達との予定。


以前ならすぐに返ってきた返信が、数時間後になることも増えた。


電話をしようと誘っても、疲れているからと断られる日があった。


最初は、気にしていなかった。


誰にだって忙しい時期はある。


僕も大学の課題やアルバイトで、余裕がない日があった。


それでも、君との時間を作ることはできていた。


だから、君にも同じようにできるはずだと、どこかで思っていた。


その考えが間違っていることに気づくのは、もう少し先のことだった。


ある日、僕たちは久しぶりに会う約束をした。


待ち合わせは午後一時。


僕は少し早く着き、駅前のベンチで君を待っていた。


約束の時間を過ぎても、君は来なかった。


スマートフォンを見ると、メッセージが届いていた。


『ごめん、少し遅れる!』


『大丈夫だよ』


それから二十分ほど経って、君が現れた。


「ごめんね」


「大丈夫」


「準備に時間かかっちゃって」


「いいよ」


君は申し訳なさそうに笑った。


その笑顔を見て、僕は何も言わなかった。


昼食を食べて、買い物をして、映画を見る。


一日は楽しく過ぎた。


ただ、帰り際に君がスマートフォンを何度も確認していたことが、少し気になった。


「何かあった?」


僕が聞くと、君は画面を閉じた。


「ううん。友達から連絡来てただけ」


「そっか」


「ごめんね」


「別にいいよ」


君は少しだけ安心したように笑った。


僕はその笑顔を見て、何も聞かないことにした。


聞かないことが優しさだと思っていた。


でも、本当は違った。


聞いてしまえば、知らなくていいことまで知ってしまうかもしれない。


自分が傷つくのが怖かっただけだった。








十月の終わり、僕たちは花火大会で撮った使い捨てカメラのことを思い出した。


「そういえば、あの写真どうする?」


君が聞いた。


「現像してないね」


「いつ行く?」


「今度でいいんじゃない?」


「また今度?」


君は少し笑った。


「それ、いつも言ってる」


「じゃあ今度こそ行こう」


「約束ね」


僕たちは、週末に写真屋へ行くことにした。


けれど、その週末は君の予定が入ってしまった。


次の週も、僕のアルバイトがあった。


その次の週には、君が体調を崩した。


気づけば、カメラは僕の机の引き出しにしまわれたままになっていた。


写真を現像することは、いつでもできると思っていた。


そのうち時間ができたら。


また二人で会えたら。


そんなふうに先延ばしにしているうちに、カメラの中の時間だけが止まってしまった。


十一月に入ると、君はさらに忙しくなった。


会う約束をしても、直前になって予定が変わることが増えた。


ある日、僕たちは久しぶりに電話をした。


「最近どう?」


僕が聞くと、君は少し疲れた声で答えた。


「うーん、忙しい」


「大変そうだね」


「やることが多くてさ」


「無理しないでね」


「ありがとう」


それから、少し沈黙があった。


僕は何か話題を探した。


けれど、何を話せばいいのかわからなかった。


以前なら、沈黙が訪れても気にならなかった。


君が何かを思い出して話し始めるまで待っていられた。


今は違った。


沈黙が続くことが、二人の間に何かが足りなくなった証拠のように思えた。


「ねえ」


君が言った。


「最近、私たちってあんまり話してないね」


「そうだね」


「前はもっと電話してたのに」


「忙しいから仕方ないよ」


僕はそう答えた。


君は少し黙った。


「そうだね」


その返事を聞いて、僕は少し後悔した。


本当は、もっと話したかった。


会いたかった。


でも、そんなことを言えば、君を困らせるような気がした。


「今度、どこか行こうよ」


僕は言った。


「うん。行きたいね」


「どこがいい?」


「考えておく」


その会話は、それで終わった。


電話を切ったあと、僕は机の引き出しを開けた。


中には、使い捨てカメラが入っていた。


まだ現像されていない、夏の写真。


あの日の君が、どんな顔をしていたのか。


僕はもう、正確には思い出せなくなっていた。








十二月になると、街はクリスマスの装いを始めた。


駅前には大きなツリーが飾られ、店先には赤や金色のリボンが並ぶ。


僕は君と会う約束をしていた。


久しぶりに一日空けてくれた日だった。


待ち合わせ場所に着いたとき、君はまだ来ていなかった。


僕は以前と同じように、少し早く着いていた。


駅前のイルミネーションを眺めながら、君を待つ。


やがて君が現れた。


「ごめん、遅くなっちゃった」


「大丈夫」


君は少し疲れた顔をしていた。


それでも、笑ってくれた。


僕たちは予約していた店へ向かった。


料理はおいしかったし、店の雰囲気も悪くなかった。


窓の外にはイルミネーションが見え、隣の席では楽しそうなカップルが笑っていた。


けれど、僕たちの会話はあまり続かなかった。


学校のことを聞いても、君は短く答えるだけだった。


僕が最近の出来事を話しても、君は相槌を打つばかりだった。


沈黙が訪れるたびに、僕は何か話題を探した。


それは会話を楽しんでいるというより、会話が途切れることを恐れているようだった。


食事を終えたあと、僕たちは少し歩いた。


イルミネーションの光が地面に落ちている。


「最近、忙しい?」


僕は聞いた。


「うん。ちょっとね」


「そっか」


「いろいろあって」


「大変そうだね」


君は頷いた。


そのあと、また沈黙が訪れた。


僕はポケットの中で手を握った。


本当は聞きたいことがあった。


僕のことをどう思っているのか。


これからも一緒にいたいと思っているのか。


会いたいと思ってくれているのか。


けれど、どの質問も口に出すことができなかった。


聞いた答えによって、今までの時間が変わってしまうような気がしたからだ。


「また来ようね」


僕は結局、そんなことを言った。


君は少しだけ目を伏せた。


「うん」


その返事は、ひどく静かだった。


帰り道、君はスマートフォンを見ながら歩いていた。


ふと、君が立ち止まった。


「ごめん。ちょっと返事してもいい?」


「うん」


君は画面を操作していた。


その横顔を見ながら、僕は君が遠くなったように感じていた。


「お待たせ」


君が言った。


「大丈夫」


また歩き出す。


そのとき、僕は君の手を握ろうとした。


けれど、君はコートのポケットに手を入れてしまった。


僕の手は、行き場をなくして空中で止まった。


すぐにポケットへ戻す。


君は気づいていないようだった。


駅に着くと、君は改札の前で立ち止まった。


「今日はありがとう」


「うん」


「気をつけて帰ってね」


「そっちもね」


君が改札を抜けていく。


以前なら、改札の向こうから振り返って手を振ってくれた。


今日は、それがなかった。


君の姿が人混みに消えたあと、僕はしばらくその場に立っていた。


イルミネーションは相変わらず綺麗だった。


けれど、僕にはもう、それが誰かのために輝いているようには見えなかった。


年が明けた。


新年の挨拶を送ると、君からも短い返信が届いた。


『今年もよろしくね!』


僕はその文章を見て、少しだけ安心した。


まだつながっている。


そう思いたかった。


一月の終わり、僕は君に会いたいと伝えた。


『今度、時間ある日ある?』


既読がついたのは、数時間後だった。


『ごめん、最近ちょっと忙しくて』


僕は返信を考えた。


以前なら、いつ空いているのか聞き返していたと思う。


別の日を提案して、何とか会える日を探そうとしていたと思う。


でも、その日は違った。


『そっか。無理しないでね』


それだけ送って、スマートフォンを伏せた。


君からは、それ以上連絡がなかった。


窓の外には薄い雲が広がっていた。


冬の空は、どこまでも白かった。








二月のある夜、僕は君に電話をかけた。


何度も迷った末の電話だった。


呼び出し音が続く。


一回、二回、三回。


やがて通話がつながった。


「もしもし」


君の声がした。


久しぶりに聞く声だった。


「久しぶり」


「うん。どうしたの?」


「ちょっと話したくて」


「そっか」


少し沈黙があった。


僕は何から話せばいいのかわからなかった。


最近どうしているのか。


何か困っていることはないか。


僕に何かできることはないか。


聞きたいことはたくさんあった。


でも、本当に聞きたいことは一つだった。


「最近、僕たちってどうなのかな」


君はすぐには答えなかった。


電話の向こうで、何かを置く音がした。


「どうって?」


「なんか、前みたいに話せなくなったし、会えなくなったし」


「うん」


「僕はまだ一緒にいたいと思ってるんだけど」


言葉にすると、思っていたよりも情けなく聞こえた。


君は少し息を吸った。


「ごめんね」


その一言で、僕はだいたいのことを理解した。


「最近、私もどうしたらいいかわからなくて」


「うん」


「嫌いになったとかじゃないんだけど」


「うん」


「前みたいに、ちゃんと向き合えてないと思う」


僕は何も言わなかった。


君は続けた。


「忙しいのを理由にして、連絡も後回しにしてたし、会う約束もちゃんと考えられてなかった」


「そうだね」


「でも、どうしたらいいのかもわからなくて」


僕は、君を責めたくなかった。


忙しいことも、余裕がないことも、きっと本当なのだと思う。


ただ、僕は寂しかった。


それを伝えたかった。


「僕は、会いたいって言ってほしかった」


君は黙った。


「忙しいのはわかってる。でも、会えないなら会えないって言ってほしかったし、少しでも話したいって思ってくれてるなら、それを聞きたかった」


「ごめん」


「謝ってほしいわけじゃないんだ」


僕は少し笑った。


「ただ、何を考えてるのかわからなくなっちゃって」


君の声が少し小さくなった。


「私も、自分の気持ちがよくわからない」


その言葉を聞いたとき、胸の奥が静かに沈んでいった。


好きか嫌いか。


続けたいか終わりたいか。


その答えさえ、君の中にはまだなかったのかもしれない。


「一度、会って話せる?」


僕は聞いた。


君は少し考えてから答えた。


「うん。会おう」


その約束を最後に、電話は終わった。


数日後、君から連絡が届いた。


『久しぶりに会える?』


僕はすぐに返事をした。


『うん。いつがいい?』


『来週なら大丈夫』


『じゃあその日にしよう』


待ち合わせ場所は、初めて会った駅だった。


僕は約束の二十分前に着いた。


あの日と同じように、コンビニで水を買った。


冷たいペットボトルを持ちながら、改札の前に立つ。


あの日のことを思い出す。


君が来るまで何度も時計を見たこと。


初めて顔を合わせたときの緊張。


カフェでメニューを悩んでいた君。


クレーンゲームで取れなかった青いクラゲ。


あの頃の僕は、今日という日が来ることを想像していなかった。


やがて君が現れた。


「久しぶり」


「久しぶり」


君は笑った。


その笑顔は、以前と同じようで、どこか違っていた。


僕たちは近くのカフェに入った。


君はメニューを開き、しばらく悩んでいた。


「これもおいしそうだし、こっちも気になる」


僕は思わず笑った。


「まだ悩むんだね」


「だって大事なことだもん」


その言葉に、初めて会った日の記憶が重なった。


何も変わっていないように思えた。


けれど、僕たちはもう、あの日と同じではなかった。








カフェを出たあと、僕たちは公園まで歩いた。


春が近づいていた。


木々の枝先には小さなつぼみがつき、風の中には冬とは違う匂いが混ざっていた。


公園のベンチに座る。


君はしばらく黙っていた。


僕も何も言わなかった。


やがて君が口を開いた。


「私たちって、どうしたらいいんだろうね」


その言葉は、あまりにも自然に聞こえた。


まるで、ずっと前から決まっていたことを確認するような声だった。


「どうしたい?」


僕は聞き返した。


君は少し考えてから、答えた。


「今は、前みたいには戻れないと思う」


風が吹いた。


公園の木の枝が揺れ、乾いた葉が一枚、僕たちの足元に落ちた。


「そっか」


それしか言えなかった。


本当は、嫌だと言いたかった。


戻りたいと言いたかった。


まだ好きだと言いたかった。


けれど、君がその言葉を選ぶまでに、どれだけ考えたのかを想像すると、何も言えなくなった。


「ごめんね」


君は言った。


僕は首を横に振った。


「謝らなくていいよ」


「でも、いろいろ待たせちゃったし」


「うん」


「ちゃんと向き合えなくて、ごめん」


僕は足元を見た。


舗装された道の隙間から、小さな草が生えていた。


いつからそこにあったのだろう。


誰にも気づかれない場所で、季節が変わるのを待っていたのかもしれない。


「楽しかったよ」


僕は言った。


君は僕を見た。


「一緒にいた時間、全部楽しかった」


それは嘘ではなかった。


会えなかった日も、寂しかった夜も、今こうして別れようとしている時間も。


君を好きだったことまで、間違いだったとは思いたくなかった。


君は小さく頷いた。


「私も楽しかった」


その言葉を聞いたとき、僕はようやく少しだけ息ができた気がした。


僕たちはしばらくベンチに座っていた。


やがて君が立ち上がった。


「そろそろ行こうか」


「うん」


駅までの道を並んで歩く。


君の歩く速度は、以前と変わらなかった。


僕はその少し後ろを歩いた。


駅に着くと、君は改札の前で立ち止まった。


「今日はありがとう」


「こちらこそ」


「元気でね」


その言葉を聞いて、僕は初めて、これが最後なのだと理解した。


「そっちもね」


君は笑った。


そして、改札の向こうへ歩いていった。


今度は、僕も追いかけなかった。


君の背中は人混みに紛れ、やがて見えなくなった。


僕はしばらく改札の前に立っていた。


人々が次々と通り過ぎていく。


誰も僕のことなど気にしていない。


それが当たり前なのに、世界があまりにも普通に動いていることが、少しだけ残酷に思えた。


君と過ごした時間が終わったというのに、電車はいつも通り走り、店の明かりはいつも通り点き、誰かの笑い声はいつも通り聞こえてくる。


世界は、僕たちの別れを知らない。


そして、知らないままでいいのだと思った。


家に帰ってから、僕は机の引き出しを開けた。


中には、使い捨てカメラと、小さな青いクラゲのキーホルダーが入っていた。


ずっと渡せなかったもの。


ずっと現像しなかった写真。


僕はカメラを手に取った。


最後に撮ったのは、あの花火大会の日だった。


まだフィルムが残っているはずだった。


現像することにした。


翌日、写真屋へ持っていった。


数日後、出来上がった写真を受け取りに行く。


封筒の中には、夏の記憶が並んでいた。


屋台のりんご飴。


射的で景品を狙う君。


花火を見上げる君。


僕が撮った、少しぶれた君の横顔。


そして、最後の一枚。


そこには、何も写っていなかった。


真っ暗な写真だった。


おそらく、花火が終わったあとに、誤ってシャッターを切ったのだろう。


僕はその写真をしばらく眺めた。


何も写っていないのに、そこにあの日の夜があるような気がした。


花火の音。


君の笑い声。


りんご飴の甘さ。


駅へ向かう人混み。


「来年も来ようね」


君の声が、耳の奥でよみがえった。


写真には残らなかった。


けれど、確かにそこにあった。


僕は封筒の中に写真を戻した。


青いクラゲのキーホルダーも手に取る。


君がかわいいと言っていたもの。


あの日、君に渡そうと思って買ったもの。


渡すタイミングを考えすぎて、結局渡せなかったもの。


今さら渡す理由はない。


僕はそれを机の上に置いた。


捨てることはできなかった。


それは君のために買ったものだけれど、同時に、君を喜ばせたかった頃の僕の気持ちでもあったからだ。








君と会わなくなってから、僕の生活は少しずつ元に戻っていった。


朝起きて、学校へ行き、授業を受け、アルバイトをして、家に帰る。


以前と同じような日々だった。


ただ、少しだけ違うことがあった。


何か面白いものを見つけても、写真を送る相手がいない。


新しい店を見つけても、一緒に行こうと言う相手がいない。


夜、何となく誰かと話したくなっても、電話をかける理由がない。


日常の中にあった小さな習慣が、行き場をなくしていた。


それらは、君がいなくなったことで初めて、君のために存在していたのだとわかった。


六月、雨の日が続いた。


僕は帰り道、駅前のコンビニで傘を買った。


外に出ると、雨は少し強くなっていた。


傘を開いて歩き出す。


そのとき、ふと君と雨宿りをした夜を思い出した。


あの日も、こんな雨だった。


僕たちは駅近くのファミレスに入り、窓際の席で何時間も話した。


君はドリンクバーのカップを持ったまま、窓の外を眺めていた。


「雨って嫌い?」


僕が聞くと、君は少し考えて答えた。


「家にいるときは好き」


「外にいるときは?」


「嫌い。髪が崩れるから」


「それだけ?」


「それだけ(笑)」


僕たちは笑った。


あの夜、雨が止むのを待ちながら、僕は君の横顔を見ていた。


帰りたくないと思った。


雨がずっと降っていればいいと思った。


今になって考えれば、そんなことを願う必要はなかったのかもしれない。


雨が止んでも、また会えると思っていたのだから。


傘に雨粒が当たる音がした。


僕は足を止めずに歩いた。


濡れた道路に、街灯の光が滲んでいる。


君と見た景色は、どこにも残っていない。


それでも、僕の中にはまだある。


それは写真よりも曖昧で、動画よりも不確かで、けれど時々、どうしようもなく鮮明だった。


八月の終わり、僕は一人で花火大会へ行った。


去年と同じ場所だった。


偶然、予定が空いていたからだ。


会場には大勢の人が集まっていた。浴衣姿の人たちが歩き、屋台からは甘い匂いが漂っていた。


去年、君と食べたりんご飴を見つけた。


買おうか迷った。


一人で食べるには少し大きい気がした。


結局、買わなかった。


河川敷に座り、空を見上げる。


最初の花火が上がった。


光が広がり、音が遅れて届く。


去年と同じように、夜空は一瞬だけ明るくなった。


隣に君はいなかった。


それでも僕は、去年の君を思い出した。


淡い水色の浴衣。


花火を見上げた顔。


りんご飴を差し出してきた手。


そして、あのとき交わした約束。


「来年も?」


「うん。来年も」


約束は守れなかった。


でも、約束をしたことまで嘘になるわけではない。


あのときの僕たちは、本当に来年も一緒にいたいと思っていたのだろう。


それなら、十分だったのかもしれない。


花火が終わると、人々は一斉に帰り始めた。


僕は少しだけその場に残った。


煙が風に流れ、夜空には何も残っていなかった。


けれど、耳の奥にはまだ音が残っていた。


僕は立ち上がり、駅へ向かった。


去年と同じように、人混みの中を歩く。


ただ、今年は誰かの歩幅に合わせる必要がなかった。


自分の速度で歩いていけばよかった。


秋が来た。


街の木々は少しずつ色を変え、夕方の風は冷たさを帯び始めた。


僕は久しぶりに、あの水族館の近くを通った。


入り口の前には、家族連れやカップルが並んでいた。


その中に、青いクラゲのキーホルダーを鞄につけた女の子がいた。


僕は一瞬だけ足を止めた。


あのとき、君が欲しがっていたものと同じだった。


君なら、きっとかわいいと言うだろう。


そんなことを考えて、少しだけ笑った。


もう、君に渡すことはない。


けれど、あの日に買ったキーホルダーは、今も机の上にある。


捨てなくてもいいと思った。


過去をすべて片づける必要はない。


忘れられないものを、無理に忘れる必要もない。


人はきっと、いろいろなものを抱えたまま生きていく。


思い出も、後悔も、伝えられなかった言葉も。


それらを全部なくしてしまったら、今の自分が何でできているのかさえわからなくなってしまう。


だから僕は、君を忘れることをやめた。


忘れられない自分を責めることもやめた。


ただ、君のいない日々を生きていくことにした。








一年が過ぎた。


春が来た。


駅前の花屋には、去年と同じように色とりどりの花が並んでいた。


街路樹の枝先には薄い緑が芽吹き、昨日まで冬の顔をしていた空が、何食わぬ顔で柔らかくなる。


僕は改札を抜け、いつもの道を歩いていた。


ふと、スマートフォンを取り出す。


新しい通知はなかった。


それでも、もう画面を何度も確認することはなかった。


君がいなくなったからといって、僕の日常がなくなったわけではない。


君と出会う前から、僕には僕の生活があった。


君と出会って、その生活に色が増えた。


君と別れて、その色が少し変わった。


それだけのことなのだと思う。


駅前の横断歩道で信号を待っていると、向こう側に君によく似た人がいた。


髪の長さも、服の色も、歩き方も、どこか君に似ていた。


僕は一瞬だけ目で追った。


けれど、その人は僕に気づくことなく、別の道へ歩いていった。


当然だ。


その人は君ではない。


君も、今はどこか別の場所で暮らしている。


僕の知らない街で、僕の知らない人たちと、僕の知らない話をしているのだろう。


もしかしたら、君も僕のことを思い出す日があるかもしれない。


花火を見たとき。


雨の降る夜。


水族館でクラゲを見たとき。


使い捨てカメラを見つけたとき。


けれど、それを確かめることはできない。


確かめなくてもいいと思った。


信号が青に変わった。


僕は歩き出した。


春の風が吹き、桜の花びらが足元を通り過ぎていく。


その一枚が、少し先の道路に落ちた。


僕は振り返らなかった。


君と出会った春も、君と過ごした夏も、君を見送った冬も、全部が僕の中に残っている。


それらはもう、戻ってこない。


けれど、なくなったわけでもない。


君と見た花火は、今も僕の中で咲いている。


君と歩いた帰り道は、今も僕の中に続いている。


君が笑った声は、もう聞こえないのに、時々、確かに思い出せる。


いつか、君のことを思い出さなくなる日が来るのだろうか。


それは少し寂しい気もする。


でも、もしそうなったとしても、君と過ごした時間が消えるわけではない。


あの頃の僕は、確かに君が好きだった。


君といるだけで嬉しくて、君からの連絡を待って、君の笑顔に救われていた。


その気持ちは、今さら誰にも否定できない。


だから、もうそれでいい。


君を知らない季節が、これからも僕の前にやってくる。


君のいない春。


君のいない夏。


君のいない秋。


君のいない冬。


その一つひとつを、僕はこれから生きていく。


いつか、君のことを思い出しても笑えるように。


いつか、君と同じように誰かを大切にできるように。


そしていつか、あの日の僕に胸を張って言えるように。


君を好きになってよかった、と。


僕は歩き続けた。


春の光は、思っていたよりも眩しかった。






その年の春、部屋の模様替えをした。


机を動かし、本棚の位置を変え、引き出しの中身を整理した。


奥にしまっていた封筒が出てきた。


あの夏に現像した写真が入っている。


僕は一枚ずつ取り出した。


りんご飴を持つ君。


射的に失敗して笑う君。


花火を見上げる君。


少しぶれた横顔。


そして、真っ暗な最後の一枚。


写真の中の君は、もう変わらない。


あの日のまま笑っている。


写真を見ていると、不思議なことに気づいた。


僕は君の顔を、少しずつ忘れ始めていた。


声の高さも、笑うときの癖も、細かな表情も、以前ほど正確には思い出せない。


けれど、写真を見ると、あの日の空気まで思い出すことができた。


花火の音。


人混みの熱気。


君が差し出したりんご飴。


「来年も来ようね」と言った声。


写真には、写らなかったものばかりだった。


僕は最後の一枚をもう一度見た。


真っ暗な写真。


何も写っていない。


それでも、そこには確かに二人がいた。


僕は写真を封筒に戻した。


そして、机の上に置いていた青いクラゲのキーホルダーを手に取った。


透明な袋は少し黄ばんでいた。


あの日、君がかわいいと言っていたもの。


結局、渡せなかったもの。


僕はしばらくそれを眺めたあと、机の引き出しにしまった。


もう、君に渡したいとは思わなかった。


それでも、捨てたいとも思わなかった。


引き出しを閉める。


部屋の窓を開けると、春の風が入ってきた。


遠くで電車の音がした。


僕は、あの日と同じようにスマートフォンを手に取った。


けれど、画面には誰からの連絡もない。


もう、誰かの返信を待つ必要はなかった。


それでも、今日の空がきれいだったことを、誰かに伝えたいと思った。


その気持ちを抱えたまま、僕は窓の外を眺めた。


春は、また始まっていた。


君の知らない春が。


そして、僕もまた、君の知らない僕になっていく。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。