変わるものと、変わらないなにか
――写真に残らなかった時間ほど、よく覚えているものだ。
春という季節は、いつも少しだけ嘘つきだ。
冬の寒さが終わったことを、あたかも何かが始まる合図のように見せる。街路樹には新しい葉が芽吹き、駅前の花屋には色鮮やかな花が並ぶ。昨日までと同じ街なのに、少しだけ違う場所に見える。
けれど、春になったからといって、昨日までの自分が急に変わるわけではない。
僕はその春も、いつもと変わらない毎日を送っていた。
大学へ行き、授業を受け、アルバイトをして、帰り道にコンビニへ寄る。特別な不満はなかった。かといって、何かを心待ちにしているわけでもない。
日々はそれなりに忙しく、退屈で、そして驚くほど規則正しく過ぎていた。
そんな生活に、君が入り込んできた。
きっかけは、ありふれたメッセージだった。
『はじめまして!』
画面に表示されたその文字を、僕は特に深く考えずに返した。
『はじめまして。よろしくお願いします』
それだけだった。
最初のうちは、互いのプロフィールに書かれたことを話題にしていた。好きな食べ物、休日の過ごし方、学校のこと。会話が途切れそうになるたびに、どちらかが質問を投げかけた。
君は、よく笑う人だった。
文章の最後に「笑」とつけることが多く、たまに送られてくる写真には、食べかけの料理や、道端で見つけた変な看板が写っていた。
何が面白いのかよくわからない写真もあった。
けれど、僕はその写真が届くのを待つようになっていた。
ある夜、君から電話の誘いがあった。
『今何してる?』
『特に何も』
『電話しない?』
僕はすぐに返事をした。
通話が始まるまでの数秒が、やけに長く感じられた。
「もしもし」
「もしもし」
最初の声は、少しだけ緊張していた。
それでも、話し始めてしまえば不思議なほど自然だった。
学校の話をして、アルバイトの話をして、最近見た動画の話をした。君は話の途中でよく脱線した。何かを説明している最中に別のことを思い出し、結局最初の話題に戻ってこないこともあった。
「それで、結局何の話だったっけ?」
「知らないよ(笑)」
「ひどいなあ」
そんなやりとりが続いた。
気づけば、窓の外は真っ暗になっていた。
「もうこんな時間だね」
君が言った。
「明日大丈夫なの?」
「たぶん大丈夫」
「絶対起きられないでしょ」
「起こしてよ」
「なんで僕が(笑)」
君は笑った。
その声を聞きながら、僕はこの電話が終わらなければいいと思っていた。
けれど、終わりはいつも突然やってくる。
「じゃあ、そろそろ寝るね」
「うん。おやすみ」
「おやすみ。また話そうね」
通話が切れた。
画面には、通話時間が表示されていた。
一時間四十七分。
そんなに話していたのかと驚いた。
さっきまで確かにそこにあった声がなくなり、部屋には冷蔵庫の小さな作動音だけが残っていた。
僕はスマートフォンを充電器につないだ。
その夜は、いつもより少しだけ寝つきが悪かった。
初めて会うことになったのは、それから一週間ほど経った頃だった。
待ち合わせは駅の改札前。
僕は約束の二十分前に着いてしまい、駅前のコンビニで時間を潰していた。
買うつもりもなかった水を一本だけ買い、店の外に出る。
冷たいペットボトルを持ったまま、何度もスマートフォンを確認した。
『着いたら連絡するね』
君からのメッセージはまだ届いていない。
改札の前には、待ち合わせをしているらしい人たちが何組もいた。誰かを見つけて手を振る人、相手の姿を探して背伸びする人、到着した途端に笑顔になる人。
僕もその中の一人になるのだと思うと、少しだけ落ち着かなかった。
やがて君から連絡が来た。
『着いた!』
顔を上げると、少し離れた場所に君が立っていた。
写真で何度も見ていた顔なのに、実際に目の前にいると、知らない人のように感じた。
「初めまして」
君は笑って言った。
「初めまして」
その挨拶が少しおかしくて、二人で笑った。
駅から少し歩いたところにあるカフェに入った。
君はメニューを開くと、しばらく悩んでいた。
「これもおいしそうだし、こっちも気になる」
「好きなの頼みなよ」
「でも、こっちにしたらよかったって思いそう」
「そんなに悩むこと?」
「大事なことだよ」
君は真剣な顔でメニューを見比べた。
結局、最初に気になったものを注文した。
料理が運ばれてくると、君はすぐにスマートフォンを取り出した。カップの向きを変え、少し角度を調整して、何枚か写真を撮る。
「そんなに撮るの?」
「せっかくだから」
「一枚でよくない?」
「そういうところだよ」
君は呆れたように笑った。
そのあと、僕たちは街を歩いた。
雑貨屋に入って、特に必要のない小物を眺め、ゲームセンターでクレーンゲームに挑戦した。
君は青いクラゲのキーホルダーを見つけた。
透明なビニールの中に小さな青いクラゲが入っていて、光を受けると水の中に浮かんでいるように見えた。
「これ、かわいくない?」
君はケースの中を覗き込んだ。
「クラゲが?」
「うん。なんかいいじゃん」
「よくわからないな」
「えー、絶対かわいいよ」
君は景品を取ろうと何度か挑戦した。
けれど、アームはクラゲの頭をかすめるだけで、持ち上げることすらできなかった。
「絶対取れると思ったのに」
「今のは惜しかったね」
「本当に思ってる?」
「思ってるよ」
「絶対嘘(笑)」
結局、君はクラゲを取れなかった。
店を出る頃には、君はもう別の話をしていた。
それでも、僕はあの青いクラゲのことを覚えていた。
帰り道、君は何度も今日のことを振り返った。
「あの店よかったね」
「うん」
「ゲームセンターも楽しかった」
「クラゲは取れなかったけどね」
「それは言わないでよ」
君は笑った。
駅に着くと、君は改札の前で立ち止まった。
「今日はありがとう。また遊ぼうね」
「うん。また行こう」
君が改札を抜けていく。
その背中を見送りながら、僕は自分が思っていたよりも今日を楽しんでいたことに気づいた。
その夜、君からメッセージが届いた。
『今日はありがとう!楽しかった!』
僕はすぐに返した。
『こっちこそ。次はクラゲ取ろうね』
『まだ言ってる(笑)』
その返信を見て、僕は笑った。
たった一日の出来事が、明日を少し楽しみにさせていた。
春は、いつも何かを始める。
ただ、その始まりが何になるのかを、僕たちはまだ知らない。
二度目に会った日は、初めて会ったときよりも緊張しなかった。
待ち合わせ場所に着くと、君はすでに駅前のベンチに座っていた。
僕に気づくと、少しだけ手を振った。
「おはよう」
「おはよう。早かったね」
「今日は遅刻しないようにした」
「いつも遅刻するみたいな言い方だね」
「そんなことないよ」
君は笑って立ち上がった。
その日の目的地は、少し離れた場所にある水族館だった。
電車に乗ると、君は窓の外を眺めていた。
流れていく建物や看板を見つけては、どうでもいいことを話す。
「見て、あの建物」
「どれ?」
「あ、もう過ぎちゃった」
「見せる気ある?」
「あるよ(笑)」
目的地に着くまで、そんな会話が続いた。
水族館は思っていたよりも空いていた。
青い照明に包まれた館内を、魚たちがゆっくりと泳いでいる。
君は大きな水槽の前で足を止めた。
「きれい」
水槽の向こうには、光を反射する魚の群れがあった。
君はしばらく黙ってそれを見ていた。
「こういうところ好きなんだ」
「うん。なんか落ち着く」
「水の中にいるみたい?」
「それもあるけど、ここにいると何も考えなくていい気がする」
君は水槽に映る自分の姿を見つめた。
その横顔が、青い光の中で少しだけ遠くに見えた。
クラゲの展示室に入ると、君は急に足を速めた。
「クラゲいる!」
そこには、いくつもの水槽が並んでいた。
白く透き通ったクラゲが、ゆっくりと傘を開いたり閉じたりしている。
君はその前に立ち止まり、しばらく動かなかった。
「ずっと見ていられるね」
「そんなに好きなの?」
「うん。何も急いでない感じがいい」
「クラゲも生きるの大変なんじゃない?」
「そういう現実的なこと言わないでよ」
君は笑った。
そのあと、売店に寄った。
そこには、初めて会った日に見たものとよく似た青いクラゲのキーホルダーが売られていた。
君はそれを手に取った。
「またクラゲ?」
「かわいいんだもん」
「取れなかったから?」
「それもある」
君は値札を見て、少し考えた。
「どうしようかな」
「買わないの?」
「うーん、今日はいいかな」
そう言って、君はキーホルダーを棚に戻した。
僕はそのことを覚えていた。
けれど、その日は何も言わなかった。
帰り道、僕たちは公園に寄った。
ベンチに座ってアイスを食べる。
君はアイスを一口食べて、少し顔をしかめた。
「冷たすぎた」
「アイスなんだから当たり前でしょ」
「そうだけど」
君は笑いながら、溶けかけたアイスを食べた。
しばらくして、君が聞いた。
「ねえ、私たちって今どういう感じなの?」
僕は手に持っていたアイスを見た。
急に聞かれたものだから、すぐには答えられなかった。
「どういう感じって?」
「なんか、普通に遊んでるだけなのかなって」
君は前を向いたままだった。
公園の向こうを、小さな子どもが走っていく。
僕は、ここで曖昧な答えを返したくないと思った。
「僕は、もっと一緒にいたいと思ってるよ」
君は少しだけこちらを向いた。
「それって?」
「好きってこと」
口に出してみると、思っていたよりも簡単だった。
ただ、言い終えたあとの沈黙は長かった。
君は手に持ったアイスを見つめていた。
やがて、小さく笑った。
「私も好きだよ」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥にあった何かがほどけた気がした。
僕たちは、その日から付き合うことになった。
帰り道、駅までの距離がいつもより短く感じた。
改札の前で別れるとき、君は少し照れくさそうに言った。
「これからよろしくね」
「こちらこそ」
君が改札を抜ける。
僕はその背中を見ながら、これから始まる時間を想像していた。
その数日後、僕はもう一度あの水族館の売店を訪れた。
青いクラゲのキーホルダーは、まだ棚に残っていた。
僕はそれを手に取り、会計へ持っていった。
何か特別な理由があったわけではない。
ただ、君がかわいいと言っていたものを、君に渡したかった。
袋に入った小さなクラゲは、思っていたよりも軽かった。
次に会ったときに渡そう。
そう思って、机の引き出しにしまった。
けれど、次に会ったとき、僕はそれを渡し忘れた。
その次も、その次も。
大切にしようと思っていたものほど、渡すタイミングを考えすぎてしまうことがある。
僕はそのことを、まだ知らなかった。
付き合い始めてから、僕たちは以前より頻繁に会うようになった。
特別な場所に出かける日もあれば、駅前でご飯を食べるだけの日もあった。
君は、予定を立てるのが少し苦手だった。
「どこ行きたい?」
そう聞くと、たいてい「どこでもいい」と返ってくる。
けれど、いざ出かけると、行きたい場所を次々に見つける。
「ここ寄りたい」
「さっきも寄りたいところあったじゃん」
「だって気になるんだもん」
君と出かける日は、予定通りに進まないことが多かった。
それでも、僕はその時間が好きだった。
君といると、目的地に着くことよりも、そこへ向かう途中の方が大切に思えた。
ある日、二人で映画を見に行った。
映画が終わると、君はエンドロールが流れ終わるまで席を立たなかった。
「もう出ないの?」
「最後まで見たい」
「何かあるの?」
「ないかもしれないけど」
「じゃあ帰ろうよ」
「待って」
君は真剣な顔でスクリーンを見ていた。
やがて照明が点き、僕たちは劇場を出た。
「何もなかったね」
「でも最後まで見たかったんだもん」
「そういうところあるよね」
「どういうところ?」
「何かあるかもしれないって、最後まで期待するところ」
君は少し考えてから言った。
「だって、最後まで見ないとわからないじゃん」
その言葉は、何気ない会話の一つとして流れていった。
けれど、なぜか僕の中に残った。
七月の終わり、僕たちは花火大会へ行くことになった。
君は浴衣を着てくると言っていた。
当日まで、僕は何度も天気予報を確認した。
雨の予報が出るたびに気分が沈み、晴れの予報に変わるたびに安心した。
待ち合わせ場所に現れた君は、淡い水色の浴衣を着ていた。
髪はいつもより丁寧にまとめられていて、耳元には小さな飾りが揺れていた。
「どう?」
君は少し照れながら、くるりと一回転した。
「似合ってる」
それ以上の言葉が出てこなかった。
君は「ありがとう」と笑った。
その笑顔を見て、僕は今日という日を忘れたくないと思った。
会場には多くの人が集まっていた。
屋台の明かり、焼きそばの匂い、遠くから聞こえる太鼓の音。人々の話し声が重なり、街全体が一つの大きな祭りになっていた。
君はりんご飴を買った。
「一口いる?」
「いらない」
「おいしいのに」
君は僕の返事を待たずに差し出した。
僕は仕方なく一口かじった。
甘かった。
君は満足そうに笑った。
「ね、おいしいでしょ」
「まあね」
「素直じゃないなあ」
花火が始まるまで、僕たちは屋台を回った。
君は射的に挑戦し、景品を一つも倒せずに悔しがった。
「絶対あれ取れたと思ったのに」
「惜しかったね」
「今日そればっかり言ってない?」
「実際惜しいんだから」
「じゃあ次は取ってよ」
僕は挑戦したが、結局一つも取れなかった。
君は大笑いした。
その笑い声を聞いているだけで、僕は十分だった。
花火が始まる頃、僕たちは河川敷に座った。
空が暗くなり、最初の一発が夜空に咲く。
光が広がり、少し遅れて音が胸に届いた。
君は小さく声を上げた。
「きれい」
花火の光が君の顔を照らす。
一瞬だけ明るくなり、次の瞬間にはまた暗くなる。
僕は花火を見ているふりをして、何度も君の横顔を見た。
そのとき、君が鞄から小さなカメラを取り出した。
「これ、使い捨てカメラなんだ」
「今どき?」
「なんかいいじゃん」
君はカメラを構えた。
「撮るよ」
「花火?」
「うん。あと、今日のこと」
シャッターを切る音がした。
「撮れた?」
「わかんない。現像するまでのお楽しみ」
君はカメラを僕に渡した。
「次は撮って」
僕はカメラを構えた。
君は花火を見上げていた。
シャッターを切る。
その瞬間、君がこちらを向いた。
「今撮った?」
「撮ったよ」
「変な顔してない?」
「大丈夫」
「絶対嘘」
君は笑った。
カメラの中には、どんな表情が残っているのだろう。
それは、しばらく先までわからない。
花火が終わると、僕たちは人混みを避けて駅へ向かった。
君は少し疲れた様子だった。
「楽しかった?」
僕が聞くと、君は頷いた。
「うん。来年も来たいね」
「来よう」
「約束ね」
「約束」
君は小指を差し出した。
僕はその指に自分の指を絡めた。
小さな約束だった。
でも、僕たちはそのとき、本当に来年も一緒にいるつもりだった。
帰り道、君は僕の腕に寄りかかっていた。
「眠い?」
「ちょっと」
「寝ていいよ」
「駅着いたら起こしてね」
「わかった」
君は目を閉じた。
電車の揺れに合わせて、君の頭が少しずつ僕の肩に寄ってくる。
僕は動かないようにしていた。
窓の外には、夜の街が流れていた。
あの時間が、いつまでも続けばいいと思った。
夏が終わる頃、僕たちは少しずつ互いの生活に慣れていった。
毎日連絡を取り、時間が合えば電話をする。
会う日には、何を食べるか、どこへ行くかを相談する。
特別なことは何もなかった。
ただ、君がいることが日常になっていた。
ある夜、二人でファミレスに入った。
窓の外では雨が降っていた。
僕たちはドリンクバーを何度も往復し、長い時間を過ごした。
君はストローをくるくる回しながら、窓の外を眺めていた。
「雨って嫌い?」
僕が聞くと、君は少し考えた。
「家にいるときは好き」
「外にいるときは?」
「嫌い。髪が崩れるから」
「理由が現実的だね」
「大事なことだよ」
君は笑った。
しばらくして、君が言った。
「私ね、いつか海の近くに住みたい」
「急だね」
「なんかいいじゃん。朝起きて海が見えて、休みの日は何もしないで過ごすの」
「それなら僕は駅の近くがいいな」
「なんで?」
「便利だから」
「夢がないなあ」
「海の近くって不便そうじゃん」
「そういうところだよ」
君は笑った。
僕たちは、将来の話をすることがあった。
どこに住みたいか、どんな仕事をしたいか、どんな休日を過ごしたいか。
具体的な約束をするわけではない。
ただ、何年か先の話をしても、そこに互いがいることを疑っていなかった。
「もし海の近くに住んだら、毎日見に行くの?」
「最初だけかもね」
「じゃあ意味ないじゃん」
「でも、たまに見るからいいんだよ」
君はそう言って、窓の外に目を戻した。
雨はまだ降り続いていた。
店を出ると、傘を持っていなかった僕たちは、駅まで走ることになった。
君は走るのが遅かった。
途中で笑い出し、結局ほとんど歩いていた。
「早く!」
「無理!」
「濡れるよ」
「もう濡れてるよ!」
駅に着いた頃には、二人とも少し濡れていた。
君は前髪を手で整えながら、僕を見た。
「最悪」
「だから傘持ってくればよかったのに」
「こんなに降ると思わなかった」
「天気予報で言ってたよ」
「そういうこと言わないでよ」
僕たちは笑った。
その夜、君からメッセージが届いた。
『今日は楽しかった!』
『雨でびしょびしょだったけどね』
『それも含めて楽しかったよ』
僕はその言葉を見て、しばらく画面を眺めていた。
雨に濡れた帰り道が、こんなにも大切な思い出になるとは思わなかった。
秋になると、君の生活は少しずつ忙しくなった。
課題やアルバイト、友達との予定。
以前ならすぐに返ってきた返信が、数時間後になることも増えた。
電話をしようと誘っても、疲れているからと断られる日があった。
最初は、気にしていなかった。
誰にだって忙しい時期はある。
僕も大学の課題やアルバイトで、余裕がない日があった。
それでも、君との時間を作ることはできていた。
だから、君にも同じようにできるはずだと、どこかで思っていた。
その考えが間違っていることに気づくのは、もう少し先のことだった。
ある日、僕たちは久しぶりに会う約束をした。
待ち合わせは午後一時。
僕は少し早く着き、駅前のベンチで君を待っていた。
約束の時間を過ぎても、君は来なかった。
スマートフォンを見ると、メッセージが届いていた。
『ごめん、少し遅れる!』
『大丈夫だよ』
それから二十分ほど経って、君が現れた。
「ごめんね」
「大丈夫」
「準備に時間かかっちゃって」
「いいよ」
君は申し訳なさそうに笑った。
その笑顔を見て、僕は何も言わなかった。
昼食を食べて、買い物をして、映画を見る。
一日は楽しく過ぎた。
ただ、帰り際に君がスマートフォンを何度も確認していたことが、少し気になった。
「何かあった?」
僕が聞くと、君は画面を閉じた。
「ううん。友達から連絡来てただけ」
「そっか」
「ごめんね」
「別にいいよ」
君は少しだけ安心したように笑った。
僕はその笑顔を見て、何も聞かないことにした。
聞かないことが優しさだと思っていた。
でも、本当は違った。
聞いてしまえば、知らなくていいことまで知ってしまうかもしれない。
自分が傷つくのが怖かっただけだった。
十月の終わり、僕たちは花火大会で撮った使い捨てカメラのことを思い出した。
「そういえば、あの写真どうする?」
君が聞いた。
「現像してないね」
「いつ行く?」
「今度でいいんじゃない?」
「また今度?」
君は少し笑った。
「それ、いつも言ってる」
「じゃあ今度こそ行こう」
「約束ね」
僕たちは、週末に写真屋へ行くことにした。
けれど、その週末は君の予定が入ってしまった。
次の週も、僕のアルバイトがあった。
その次の週には、君が体調を崩した。
気づけば、カメラは僕の机の引き出しにしまわれたままになっていた。
写真を現像することは、いつでもできると思っていた。
そのうち時間ができたら。
また二人で会えたら。
そんなふうに先延ばしにしているうちに、カメラの中の時間だけが止まってしまった。
十一月に入ると、君はさらに忙しくなった。
会う約束をしても、直前になって予定が変わることが増えた。
ある日、僕たちは久しぶりに電話をした。
「最近どう?」
僕が聞くと、君は少し疲れた声で答えた。
「うーん、忙しい」
「大変そうだね」
「やることが多くてさ」
「無理しないでね」
「ありがとう」
それから、少し沈黙があった。
僕は何か話題を探した。
けれど、何を話せばいいのかわからなかった。
以前なら、沈黙が訪れても気にならなかった。
君が何かを思い出して話し始めるまで待っていられた。
今は違った。
沈黙が続くことが、二人の間に何かが足りなくなった証拠のように思えた。
「ねえ」
君が言った。
「最近、私たちってあんまり話してないね」
「そうだね」
「前はもっと電話してたのに」
「忙しいから仕方ないよ」
僕はそう答えた。
君は少し黙った。
「そうだね」
その返事を聞いて、僕は少し後悔した。
本当は、もっと話したかった。
会いたかった。
でも、そんなことを言えば、君を困らせるような気がした。
「今度、どこか行こうよ」
僕は言った。
「うん。行きたいね」
「どこがいい?」
「考えておく」
その会話は、それで終わった。
電話を切ったあと、僕は机の引き出しを開けた。
中には、使い捨てカメラが入っていた。
まだ現像されていない、夏の写真。
あの日の君が、どんな顔をしていたのか。
僕はもう、正確には思い出せなくなっていた。
十二月になると、街はクリスマスの装いを始めた。
駅前には大きなツリーが飾られ、店先には赤や金色のリボンが並ぶ。
僕は君と会う約束をしていた。
久しぶりに一日空けてくれた日だった。
待ち合わせ場所に着いたとき、君はまだ来ていなかった。
僕は以前と同じように、少し早く着いていた。
駅前のイルミネーションを眺めながら、君を待つ。
やがて君が現れた。
「ごめん、遅くなっちゃった」
「大丈夫」
君は少し疲れた顔をしていた。
それでも、笑ってくれた。
僕たちは予約していた店へ向かった。
料理はおいしかったし、店の雰囲気も悪くなかった。
窓の外にはイルミネーションが見え、隣の席では楽しそうなカップルが笑っていた。
けれど、僕たちの会話はあまり続かなかった。
学校のことを聞いても、君は短く答えるだけだった。
僕が最近の出来事を話しても、君は相槌を打つばかりだった。
沈黙が訪れるたびに、僕は何か話題を探した。
それは会話を楽しんでいるというより、会話が途切れることを恐れているようだった。
食事を終えたあと、僕たちは少し歩いた。
イルミネーションの光が地面に落ちている。
「最近、忙しい?」
僕は聞いた。
「うん。ちょっとね」
「そっか」
「いろいろあって」
「大変そうだね」
君は頷いた。
そのあと、また沈黙が訪れた。
僕はポケットの中で手を握った。
本当は聞きたいことがあった。
僕のことをどう思っているのか。
これからも一緒にいたいと思っているのか。
会いたいと思ってくれているのか。
けれど、どの質問も口に出すことができなかった。
聞いた答えによって、今までの時間が変わってしまうような気がしたからだ。
「また来ようね」
僕は結局、そんなことを言った。
君は少しだけ目を伏せた。
「うん」
その返事は、ひどく静かだった。
帰り道、君はスマートフォンを見ながら歩いていた。
ふと、君が立ち止まった。
「ごめん。ちょっと返事してもいい?」
「うん」
君は画面を操作していた。
その横顔を見ながら、僕は君が遠くなったように感じていた。
「お待たせ」
君が言った。
「大丈夫」
また歩き出す。
そのとき、僕は君の手を握ろうとした。
けれど、君はコートのポケットに手を入れてしまった。
僕の手は、行き場をなくして空中で止まった。
すぐにポケットへ戻す。
君は気づいていないようだった。
駅に着くと、君は改札の前で立ち止まった。
「今日はありがとう」
「うん」
「気をつけて帰ってね」
「そっちもね」
君が改札を抜けていく。
以前なら、改札の向こうから振り返って手を振ってくれた。
今日は、それがなかった。
君の姿が人混みに消えたあと、僕はしばらくその場に立っていた。
イルミネーションは相変わらず綺麗だった。
けれど、僕にはもう、それが誰かのために輝いているようには見えなかった。
年が明けた。
新年の挨拶を送ると、君からも短い返信が届いた。
『今年もよろしくね!』
僕はその文章を見て、少しだけ安心した。
まだつながっている。
そう思いたかった。
一月の終わり、僕は君に会いたいと伝えた。
『今度、時間ある日ある?』
既読がついたのは、数時間後だった。
『ごめん、最近ちょっと忙しくて』
僕は返信を考えた。
以前なら、いつ空いているのか聞き返していたと思う。
別の日を提案して、何とか会える日を探そうとしていたと思う。
でも、その日は違った。
『そっか。無理しないでね』
それだけ送って、スマートフォンを伏せた。
君からは、それ以上連絡がなかった。
窓の外には薄い雲が広がっていた。
冬の空は、どこまでも白かった。
二月のある夜、僕は君に電話をかけた。
何度も迷った末の電話だった。
呼び出し音が続く。
一回、二回、三回。
やがて通話がつながった。
「もしもし」
君の声がした。
久しぶりに聞く声だった。
「久しぶり」
「うん。どうしたの?」
「ちょっと話したくて」
「そっか」
少し沈黙があった。
僕は何から話せばいいのかわからなかった。
最近どうしているのか。
何か困っていることはないか。
僕に何かできることはないか。
聞きたいことはたくさんあった。
でも、本当に聞きたいことは一つだった。
「最近、僕たちってどうなのかな」
君はすぐには答えなかった。
電話の向こうで、何かを置く音がした。
「どうって?」
「なんか、前みたいに話せなくなったし、会えなくなったし」
「うん」
「僕はまだ一緒にいたいと思ってるんだけど」
言葉にすると、思っていたよりも情けなく聞こえた。
君は少し息を吸った。
「ごめんね」
その一言で、僕はだいたいのことを理解した。
「最近、私もどうしたらいいかわからなくて」
「うん」
「嫌いになったとかじゃないんだけど」
「うん」
「前みたいに、ちゃんと向き合えてないと思う」
僕は何も言わなかった。
君は続けた。
「忙しいのを理由にして、連絡も後回しにしてたし、会う約束もちゃんと考えられてなかった」
「そうだね」
「でも、どうしたらいいのかもわからなくて」
僕は、君を責めたくなかった。
忙しいことも、余裕がないことも、きっと本当なのだと思う。
ただ、僕は寂しかった。
それを伝えたかった。
「僕は、会いたいって言ってほしかった」
君は黙った。
「忙しいのはわかってる。でも、会えないなら会えないって言ってほしかったし、少しでも話したいって思ってくれてるなら、それを聞きたかった」
「ごめん」
「謝ってほしいわけじゃないんだ」
僕は少し笑った。
「ただ、何を考えてるのかわからなくなっちゃって」
君の声が少し小さくなった。
「私も、自分の気持ちがよくわからない」
その言葉を聞いたとき、胸の奥が静かに沈んでいった。
好きか嫌いか。
続けたいか終わりたいか。
その答えさえ、君の中にはまだなかったのかもしれない。
「一度、会って話せる?」
僕は聞いた。
君は少し考えてから答えた。
「うん。会おう」
その約束を最後に、電話は終わった。
数日後、君から連絡が届いた。
『久しぶりに会える?』
僕はすぐに返事をした。
『うん。いつがいい?』
『来週なら大丈夫』
『じゃあその日にしよう』
待ち合わせ場所は、初めて会った駅だった。
僕は約束の二十分前に着いた。
あの日と同じように、コンビニで水を買った。
冷たいペットボトルを持ちながら、改札の前に立つ。
あの日のことを思い出す。
君が来るまで何度も時計を見たこと。
初めて顔を合わせたときの緊張。
カフェでメニューを悩んでいた君。
クレーンゲームで取れなかった青いクラゲ。
あの頃の僕は、今日という日が来ることを想像していなかった。
やがて君が現れた。
「久しぶり」
「久しぶり」
君は笑った。
その笑顔は、以前と同じようで、どこか違っていた。
僕たちは近くのカフェに入った。
君はメニューを開き、しばらく悩んでいた。
「これもおいしそうだし、こっちも気になる」
僕は思わず笑った。
「まだ悩むんだね」
「だって大事なことだもん」
その言葉に、初めて会った日の記憶が重なった。
何も変わっていないように思えた。
けれど、僕たちはもう、あの日と同じではなかった。
カフェを出たあと、僕たちは公園まで歩いた。
春が近づいていた。
木々の枝先には小さなつぼみがつき、風の中には冬とは違う匂いが混ざっていた。
公園のベンチに座る。
君はしばらく黙っていた。
僕も何も言わなかった。
やがて君が口を開いた。
「私たちって、どうしたらいいんだろうね」
その言葉は、あまりにも自然に聞こえた。
まるで、ずっと前から決まっていたことを確認するような声だった。
「どうしたい?」
僕は聞き返した。
君は少し考えてから、答えた。
「今は、前みたいには戻れないと思う」
風が吹いた。
公園の木の枝が揺れ、乾いた葉が一枚、僕たちの足元に落ちた。
「そっか」
それしか言えなかった。
本当は、嫌だと言いたかった。
戻りたいと言いたかった。
まだ好きだと言いたかった。
けれど、君がその言葉を選ぶまでに、どれだけ考えたのかを想像すると、何も言えなくなった。
「ごめんね」
君は言った。
僕は首を横に振った。
「謝らなくていいよ」
「でも、いろいろ待たせちゃったし」
「うん」
「ちゃんと向き合えなくて、ごめん」
僕は足元を見た。
舗装された道の隙間から、小さな草が生えていた。
いつからそこにあったのだろう。
誰にも気づかれない場所で、季節が変わるのを待っていたのかもしれない。
「楽しかったよ」
僕は言った。
君は僕を見た。
「一緒にいた時間、全部楽しかった」
それは嘘ではなかった。
会えなかった日も、寂しかった夜も、今こうして別れようとしている時間も。
君を好きだったことまで、間違いだったとは思いたくなかった。
君は小さく頷いた。
「私も楽しかった」
その言葉を聞いたとき、僕はようやく少しだけ息ができた気がした。
僕たちはしばらくベンチに座っていた。
やがて君が立ち上がった。
「そろそろ行こうか」
「うん」
駅までの道を並んで歩く。
君の歩く速度は、以前と変わらなかった。
僕はその少し後ろを歩いた。
駅に着くと、君は改札の前で立ち止まった。
「今日はありがとう」
「こちらこそ」
「元気でね」
その言葉を聞いて、僕は初めて、これが最後なのだと理解した。
「そっちもね」
君は笑った。
そして、改札の向こうへ歩いていった。
今度は、僕も追いかけなかった。
君の背中は人混みに紛れ、やがて見えなくなった。
僕はしばらく改札の前に立っていた。
人々が次々と通り過ぎていく。
誰も僕のことなど気にしていない。
それが当たり前なのに、世界があまりにも普通に動いていることが、少しだけ残酷に思えた。
君と過ごした時間が終わったというのに、電車はいつも通り走り、店の明かりはいつも通り点き、誰かの笑い声はいつも通り聞こえてくる。
世界は、僕たちの別れを知らない。
そして、知らないままでいいのだと思った。
家に帰ってから、僕は机の引き出しを開けた。
中には、使い捨てカメラと、小さな青いクラゲのキーホルダーが入っていた。
ずっと渡せなかったもの。
ずっと現像しなかった写真。
僕はカメラを手に取った。
最後に撮ったのは、あの花火大会の日だった。
まだフィルムが残っているはずだった。
現像することにした。
翌日、写真屋へ持っていった。
数日後、出来上がった写真を受け取りに行く。
封筒の中には、夏の記憶が並んでいた。
屋台のりんご飴。
射的で景品を狙う君。
花火を見上げる君。
僕が撮った、少しぶれた君の横顔。
そして、最後の一枚。
そこには、何も写っていなかった。
真っ暗な写真だった。
おそらく、花火が終わったあとに、誤ってシャッターを切ったのだろう。
僕はその写真をしばらく眺めた。
何も写っていないのに、そこにあの日の夜があるような気がした。
花火の音。
君の笑い声。
りんご飴の甘さ。
駅へ向かう人混み。
「来年も来ようね」
君の声が、耳の奥でよみがえった。
写真には残らなかった。
けれど、確かにそこにあった。
僕は封筒の中に写真を戻した。
青いクラゲのキーホルダーも手に取る。
君がかわいいと言っていたもの。
あの日、君に渡そうと思って買ったもの。
渡すタイミングを考えすぎて、結局渡せなかったもの。
今さら渡す理由はない。
僕はそれを机の上に置いた。
捨てることはできなかった。
それは君のために買ったものだけれど、同時に、君を喜ばせたかった頃の僕の気持ちでもあったからだ。
君と会わなくなってから、僕の生活は少しずつ元に戻っていった。
朝起きて、学校へ行き、授業を受け、アルバイトをして、家に帰る。
以前と同じような日々だった。
ただ、少しだけ違うことがあった。
何か面白いものを見つけても、写真を送る相手がいない。
新しい店を見つけても、一緒に行こうと言う相手がいない。
夜、何となく誰かと話したくなっても、電話をかける理由がない。
日常の中にあった小さな習慣が、行き場をなくしていた。
それらは、君がいなくなったことで初めて、君のために存在していたのだとわかった。
六月、雨の日が続いた。
僕は帰り道、駅前のコンビニで傘を買った。
外に出ると、雨は少し強くなっていた。
傘を開いて歩き出す。
そのとき、ふと君と雨宿りをした夜を思い出した。
あの日も、こんな雨だった。
僕たちは駅近くのファミレスに入り、窓際の席で何時間も話した。
君はドリンクバーのカップを持ったまま、窓の外を眺めていた。
「雨って嫌い?」
僕が聞くと、君は少し考えて答えた。
「家にいるときは好き」
「外にいるときは?」
「嫌い。髪が崩れるから」
「それだけ?」
「それだけ(笑)」
僕たちは笑った。
あの夜、雨が止むのを待ちながら、僕は君の横顔を見ていた。
帰りたくないと思った。
雨がずっと降っていればいいと思った。
今になって考えれば、そんなことを願う必要はなかったのかもしれない。
雨が止んでも、また会えると思っていたのだから。
傘に雨粒が当たる音がした。
僕は足を止めずに歩いた。
濡れた道路に、街灯の光が滲んでいる。
君と見た景色は、どこにも残っていない。
それでも、僕の中にはまだある。
それは写真よりも曖昧で、動画よりも不確かで、けれど時々、どうしようもなく鮮明だった。
八月の終わり、僕は一人で花火大会へ行った。
去年と同じ場所だった。
偶然、予定が空いていたからだ。
会場には大勢の人が集まっていた。浴衣姿の人たちが歩き、屋台からは甘い匂いが漂っていた。
去年、君と食べたりんご飴を見つけた。
買おうか迷った。
一人で食べるには少し大きい気がした。
結局、買わなかった。
河川敷に座り、空を見上げる。
最初の花火が上がった。
光が広がり、音が遅れて届く。
去年と同じように、夜空は一瞬だけ明るくなった。
隣に君はいなかった。
それでも僕は、去年の君を思い出した。
淡い水色の浴衣。
花火を見上げた顔。
りんご飴を差し出してきた手。
そして、あのとき交わした約束。
「来年も?」
「うん。来年も」
約束は守れなかった。
でも、約束をしたことまで嘘になるわけではない。
あのときの僕たちは、本当に来年も一緒にいたいと思っていたのだろう。
それなら、十分だったのかもしれない。
花火が終わると、人々は一斉に帰り始めた。
僕は少しだけその場に残った。
煙が風に流れ、夜空には何も残っていなかった。
けれど、耳の奥にはまだ音が残っていた。
僕は立ち上がり、駅へ向かった。
去年と同じように、人混みの中を歩く。
ただ、今年は誰かの歩幅に合わせる必要がなかった。
自分の速度で歩いていけばよかった。
秋が来た。
街の木々は少しずつ色を変え、夕方の風は冷たさを帯び始めた。
僕は久しぶりに、あの水族館の近くを通った。
入り口の前には、家族連れやカップルが並んでいた。
その中に、青いクラゲのキーホルダーを鞄につけた女の子がいた。
僕は一瞬だけ足を止めた。
あのとき、君が欲しがっていたものと同じだった。
君なら、きっとかわいいと言うだろう。
そんなことを考えて、少しだけ笑った。
もう、君に渡すことはない。
けれど、あの日に買ったキーホルダーは、今も机の上にある。
捨てなくてもいいと思った。
過去をすべて片づける必要はない。
忘れられないものを、無理に忘れる必要もない。
人はきっと、いろいろなものを抱えたまま生きていく。
思い出も、後悔も、伝えられなかった言葉も。
それらを全部なくしてしまったら、今の自分が何でできているのかさえわからなくなってしまう。
だから僕は、君を忘れることをやめた。
忘れられない自分を責めることもやめた。
ただ、君のいない日々を生きていくことにした。
一年が過ぎた。
春が来た。
駅前の花屋には、去年と同じように色とりどりの花が並んでいた。
街路樹の枝先には薄い緑が芽吹き、昨日まで冬の顔をしていた空が、何食わぬ顔で柔らかくなる。
僕は改札を抜け、いつもの道を歩いていた。
ふと、スマートフォンを取り出す。
新しい通知はなかった。
それでも、もう画面を何度も確認することはなかった。
君がいなくなったからといって、僕の日常がなくなったわけではない。
君と出会う前から、僕には僕の生活があった。
君と出会って、その生活に色が増えた。
君と別れて、その色が少し変わった。
それだけのことなのだと思う。
駅前の横断歩道で信号を待っていると、向こう側に君によく似た人がいた。
髪の長さも、服の色も、歩き方も、どこか君に似ていた。
僕は一瞬だけ目で追った。
けれど、その人は僕に気づくことなく、別の道へ歩いていった。
当然だ。
その人は君ではない。
君も、今はどこか別の場所で暮らしている。
僕の知らない街で、僕の知らない人たちと、僕の知らない話をしているのだろう。
もしかしたら、君も僕のことを思い出す日があるかもしれない。
花火を見たとき。
雨の降る夜。
水族館でクラゲを見たとき。
使い捨てカメラを見つけたとき。
けれど、それを確かめることはできない。
確かめなくてもいいと思った。
信号が青に変わった。
僕は歩き出した。
春の風が吹き、桜の花びらが足元を通り過ぎていく。
その一枚が、少し先の道路に落ちた。
僕は振り返らなかった。
君と出会った春も、君と過ごした夏も、君を見送った冬も、全部が僕の中に残っている。
それらはもう、戻ってこない。
けれど、なくなったわけでもない。
君と見た花火は、今も僕の中で咲いている。
君と歩いた帰り道は、今も僕の中に続いている。
君が笑った声は、もう聞こえないのに、時々、確かに思い出せる。
いつか、君のことを思い出さなくなる日が来るのだろうか。
それは少し寂しい気もする。
でも、もしそうなったとしても、君と過ごした時間が消えるわけではない。
あの頃の僕は、確かに君が好きだった。
君といるだけで嬉しくて、君からの連絡を待って、君の笑顔に救われていた。
その気持ちは、今さら誰にも否定できない。
だから、もうそれでいい。
君を知らない季節が、これからも僕の前にやってくる。
君のいない春。
君のいない夏。
君のいない秋。
君のいない冬。
その一つひとつを、僕はこれから生きていく。
いつか、君のことを思い出しても笑えるように。
いつか、君と同じように誰かを大切にできるように。
そしていつか、あの日の僕に胸を張って言えるように。
君を好きになってよかった、と。
僕は歩き続けた。
春の光は、思っていたよりも眩しかった。
その年の春、部屋の模様替えをした。
机を動かし、本棚の位置を変え、引き出しの中身を整理した。
奥にしまっていた封筒が出てきた。
あの夏に現像した写真が入っている。
僕は一枚ずつ取り出した。
りんご飴を持つ君。
射的に失敗して笑う君。
花火を見上げる君。
少しぶれた横顔。
そして、真っ暗な最後の一枚。
写真の中の君は、もう変わらない。
あの日のまま笑っている。
写真を見ていると、不思議なことに気づいた。
僕は君の顔を、少しずつ忘れ始めていた。
声の高さも、笑うときの癖も、細かな表情も、以前ほど正確には思い出せない。
けれど、写真を見ると、あの日の空気まで思い出すことができた。
花火の音。
人混みの熱気。
君が差し出したりんご飴。
「来年も来ようね」と言った声。
写真には、写らなかったものばかりだった。
僕は最後の一枚をもう一度見た。
真っ暗な写真。
何も写っていない。
それでも、そこには確かに二人がいた。
僕は写真を封筒に戻した。
そして、机の上に置いていた青いクラゲのキーホルダーを手に取った。
透明な袋は少し黄ばんでいた。
あの日、君がかわいいと言っていたもの。
結局、渡せなかったもの。
僕はしばらくそれを眺めたあと、机の引き出しにしまった。
もう、君に渡したいとは思わなかった。
それでも、捨てたいとも思わなかった。
引き出しを閉める。
部屋の窓を開けると、春の風が入ってきた。
遠くで電車の音がした。
僕は、あの日と同じようにスマートフォンを手に取った。
けれど、画面には誰からの連絡もない。
もう、誰かの返信を待つ必要はなかった。
それでも、今日の空がきれいだったことを、誰かに伝えたいと思った。
その気持ちを抱えたまま、僕は窓の外を眺めた。
春は、また始まっていた。
君の知らない春が。
そして、僕もまた、君の知らない僕になっていく。




