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同僚が「貧乏だから」と捨てた彼氏を拾った結果、私は一生遊んで暮らせる女になりました

作者: 熾星
掲載日:2026/06/13

 

「鷹宮怜央! あんた、人の話が分からないわけ!?」


 私は社員食堂でいちばん安いA定食を食べていた。


 その箸が止まったのは、相沢杏奈の甲高い声が、昼休みの食堂じゅうに響き渡ったからだった。


 次の瞬間。


 彼女の手にあった飲みかけのアイスコーヒーが、向かいに立つ男の顔へ、容赦なく浴びせられた。


 褐色の液体が、やけに整った彼の顔を伝い、洗いざらしの白いシャツの襟元へぽたぽたと落ちていく。


「別れるって言ってるの! 聞こえないの!?」


 杏奈の指先は、ほとんど彼の鼻先に触れそうだった。


「あんたみたいな甲斐性なしに、これ以上付き合ってられないのよ!」


 鷹宮怜央は、襟元の擦り切れた白いシャツを着たまま、人垣の中心に立っていた。


 雨に濡れた野良犬みたいに、黙り込んでいる。


 それでも杏奈の怒りは収まらなかった。


 彼女は怜央の手からトレーを奪うと、「ガシャン」と大きな音を立てて、味噌汁ごと回収口の脇へひっくり返した。


「あんた、自分の格好を鏡で見たことある?」


「全身合わせたって、銀座で口紅一本買えるかどうかでしょ?」


「一緒にご飯を食べてるだけで、こっちが恥ずかしいの!」


 周りでは、誰かが小さく笑い、誰かが目をそらし、誰かがひそひそと囁いていた。


 社内の誰もが、彼をただの新人インターンだと思っている。


 昼食代を節約するために半額弁当を買うような、貧乏な男だと。


 けれど、私は知っていた。


 彼は違う。


 先週、私は丸の内の本社ビルへ緊急書類を届けに行き、階を間違えた。


 そして、噂にしか聞いたことのない役員専用エレベーターの前で、私は見てしまったのだ。


 今ここでコーヒーを浴びせられ、一文の価値もない男みたいに罵られているこの「貧乏インターン」が、経済ニュースで何度も見たことのある老人たちに囲まれているところを。


 彼らは腰を低くし、彼に向かって深々と頭を下げていた。


 そして、口々にこう呼んでいた。


「怜央様」


 その瞬間、私は悟った。


 相沢杏奈は、貧乏男を捨てたのではない。


 彼女は、自分の足で金の山を蹴り飛ばし、私の前へ転がしてくれたのだ。


 1


 鷹宮怜央は、床に散らばった食事を見下ろしていた。


 しばらくしてから、彼はゆっくりとしゃがみ込み、ひっくり返ったトレーを拾い上げた。


 それから、脇にあった雑巾を手に取り、床に広がった味噌汁を少しずつ拭き始める。


 動作はひどく遅かった。


 横顔は硬く強ばっている。


 首筋には、細い青筋がわずかに浮かんでいた。


 それでも、相沢杏奈はまるでようやく鬱憤を晴らす場所を見つけたみたいに、さらに声を張り上げた。


 彼女はスマホを取り出し、ほとんど怜央の顔に押しつけるように画面を突き出した。


「ちゃんと見なさいよ。これが今の彼氏。営業部の佐久間課長よ」


 写真の中では、頭頂部の薄い、腹の出た中年男が杏奈の肩を抱き、六本木の高級レストランの前で黄ばんだ歯を見せて笑っていた。


 杏奈は得意げに顎を上げる。


「佐久間課長はレクサスに乗ってるし、港区の高級マンションに住んでるの。来月には、私の正社員登用も推薦してくれるって」


「それに比べて、あんたは?」


「正社員になれるかどうかも分からない、ただの貧乏インターンじゃない」


「あんたが、あの人に何で勝てるの?」


 周囲のざわめきが、さらに大きくなった。


「ひどいな……」


「杏奈、さすがに言いすぎじゃない?」


「でも、貧乏なのは本当でしょ」


「顔がよくても意味ないよ。東京に金のないイケメンなんていくらでもいるし」


 鷹宮怜央は反論しなかった。


 ただ黙って床を拭いていた。


 その姿は、確かに惨めに見えた。


 杏奈は言いたいだけ言うと、細いヒールを鳴らして、ちょうど食堂へ入ってきた佐久間課長の腕に絡みついた。


 その顔には、さっきまでの怒りなど欠片もない。


 甘ったるい笑みに一瞬で切り替わっていた。


「佐久間課長、外で食べましょう? ここの味噌汁の匂い、私ちょっと無理です」


 佐久間課長はビール腹を揺らし、床を拭いている怜央を軽蔑するように一瞥して、杏奈を連れて食堂を出て行った。


 人垣はすぐに散った。


 残されたのは、いまだに黙々と散らばった食事を片づけている鷹宮怜央だけだった。


 私は箸を置き、紙ナプキンで口元を拭いた。


 そして、彼の横を通り過ぎるとき、バッグの中に入っていた未開封のウェットティッシュを、そっと近くのテーブルへ置いた。


 何も言わない。


 そのまま背を向けて歩き出す。


 けれど、私だけが知っていた。


 心臓が、少し速く鳴っていたことを。


 相沢杏奈が金の山をゴミみたいに蹴り飛ばす様子を見て、私は笑い出しそうになった。


 馬鹿な女。


 東京は広いけれど、ここまで見事に愚かな女は、そうそういない。


 2


 その夜、私は遅くまで残業した。


 最後のデータ表を仕上げたとき、オフィスに残っていたのは、低く唸る空調の音だけだった。


 凝り固まった首を揉みながらビルを出ると、外はひどい雨だった。


 雨粒が丸の内の舗道を叩き、白い霧のような水しぶきを上げている。


 私は傘を持っていなかった。


 地下鉄の駅まで走るか、それとも諦めてタクシーを呼ぶか迷っていたとき、ふと柱の陰に立つ人影が目に入った。


 鷹宮怜央だった。


 彼は昼間と同じ古いシャツを着て、上着を無造作に腕へかけていた。


 雨の向こうで、東京の夜景は滲んでいる。


 彼は横顔だけで通りを見つめていた。街灯の光が、高い鼻梁と固く結んだ唇の線を浮かび上がらせている。


 落ちぶれているのに、危ういほど綺麗だった。


 まるで、今だけ爪を隠した獣のように。


 私は小さく息を吸い、バッグの持ち手を握り直してから、彼へ近づいた。


「鷹宮くん?」


 声は、少しだけ柔らかくした。


 ためらいと心配を、ちょうどよく混ぜて。


 彼がこちらを向いた。


 目は淡い。


 私は手の中の小さな折り畳み傘を開いた。


「雨、すごいね」


「傘、ないんでしょう? 駅まで一緒に行かない?」


 傘は小さすぎた。


 二人で入るには狭く、私は自然なふりをして傘の半分以上を彼の方へ傾けた。


 風に煽られた雨が斜めに吹き込み、私の左肩はすぐに濡れてしまう。


 白いブラウスが肌に張りつき、冷たさに私は小さく身震いした。


 鷹宮怜央は、私よりずっと背が高い。


 彼の視線は私の顔に一秒ほど留まり、それから雨に濡れた肩へ落ちた。


 その瞬間、彼の喉仏がはっきりと上下するのが見えた。


「ありがとう」


 ようやく彼が口を開いた。


 低く、少し掠れた声だった。


 駅までの道中、私たちはほとんど何も話さなかった。


 聞こえるのは、雨音と、水たまりを踏む靴音だけだった。


 駅の入口が見えてきたころ、私は俯き、小さな声で言った。


「今日のお昼のこと、あまり気にしないでね」


「杏奈先輩も……きっと、少し感情的になっていただけだと思うから」


 自分で言っていて、白々しいと思った。


 いかにもあざとい、優しげな言い方だった。


 けれど、顔を上げて彼を見るときの私は、ひどく真剣で、真っ直ぐで、私自身でさえ信じそうになるほどだった。


 鷹宮怜央は返事をしなかった。


 彼は半分濡れた私の身体をちらりと見て、唐突に尋ねた。


「どこに住んでる?」


 私は一瞬、言葉に詰まった。


「雨がひどい」


 彼は淡々と言った。


「送る」


 胸の奥で、細い弦がそっと鳴った。


 私は、自分の住んでいる住所を告げた。


 杉並区にある、築四十年以上の古い木造アパート。


 六畳一間。


 北向き。


 風呂はなく、近くのコインシャワーか銭湯を使うしかない。


 普通の派遣社員が住むには、あまりにも似合いすぎる貧しさだった。


 彼はうなずくと、ちょうど通りかかったタクシーを止めた。


 車内は静かだった。


 彼は後部座席にもたれ、目を閉じている。


 私は窓に映る彼の横顔をこっそり盗み見た。


 本当に、顔だけなら完璧だ。


 今は安物の服で隠しているけれど、埃の中にわざと埋められた宝石みたいだった。


 アパートの下に着いても、雨は少しも弱まっていなかった。


 私は少し迷ったふりをして、声を低くした。


「よかったら……少し上がっていく?」


「温かいお茶くらいなら出せるし、髪も拭けるから」


「あなたも濡れているでしょう?」


 鷹宮怜央は目を開けた。


 外の雨を見て、それから濡れた私を見た。


 しばらくしてから、彼は小さくうなずいた。


 その後のことは、少し曖昧だった。


 そして、最初からそうなると決まっていたようでもあった。


 部屋は狭かった。


 灯りは暗かった。


 雨音は、あまりにも大きかった。


 私は分かっていた。


 これは賭けだ。


 彼が私に興味を持つかどうか。


 すぐに飽きないかどうか。


 彼が私を見抜く前に、私が彼のゲームの中へ入り込めるかどうか。


 3


 翌朝、目が覚めたとき、全身が軋むように痛んだ。


 窓の外はまだ薄暗い。


 鷹宮怜央は、もう起きていた。


 汚れたガラス越しの淡い朝の光が、彼の広い背中と引き締まった腰の線をはっきり浮かび上がらせている。


 私は枕に頬を預けたまま、彼がシャツのボタンを留めるのを眺めた。


 頭に浮かんだのは、ただ一つだった。


 この身体を安物の服で包むなんて、もったいなさすぎる。


「起きた?」


 彼が振り向いた。


 視線が私の肩と鎖骨に落ちる。


 そこには、昨夜彼が残した痕があるはずだった。


 彼の口元が、わずかに上がった。


 その笑みは、少し気まぐれで、少し退屈しのぎのようで、ひどく危うかった。


「昨夜、悪くなかった」


 私はすぐに顔を赤くした。


 慌てて布団を引き寄せ、肩まできっちり隠す。


 恥ずかしさと怒りでどうしていいか分からない、何も知らない女のふりをした。


 鷹宮怜央はベッドの端に腰を下ろした。


 マットレスが少し沈む。


 彼は洗いざらしのジーンズのポケットを探り、小さなものを取り出して、私の枕元へ無造作に投げた。


 カフリンクスだった。


 金属の縁は少しくすんでいて、古びて見える。


 一見すると、銀座の地下街で数千円も出せば買えそうな雑貨だった。


「現金を持ってない」


 彼は言った。


「大したものじゃない。記念に」


 私はそのカフリンクスを見つめながら、心の中で笑った。


 大したものじゃない?


 カルティエのヴィンテージ、パンテールシリーズ。


 プラチナにダイヤ。


 役員フロアへ書類を届けたとき、ある大株主が同じものを身につけているのを見たことがある。


 そのとき秘書が小声で言っていた。


 あれ一組で、入門クラスの車が買える、と。


 本当に、よくやる。


 貧乏王子のごっこ遊びに、すっかり夢中らしい。


 けれど、顔を上げる頃には、私の目にはうっすら涙が浮かんでいた。


 私はそのカフリンクスを掴み、震える手で彼へ押し返した。


「私を、何だと思ってるの?」


「私は、そういう女じゃない」


「持って帰って」


 鷹宮怜央が一瞬、動きを止めた。


 彼はカフリンクスを摘まんだまま、目を細めて、私の表情をじっと見つめた。


 私は、自分がひどく傷つき、怒り、そして少しだけ清らかであるように見えるよう、必死に顔を作った。


 数秒後、彼は低く笑った。


 そしてカフリンクスをポケットへ戻す。


「いいよ」


 彼は言った。


「一ノ瀬凛。覚えておく」


 4


 会社に戻ると、空気は妙にざわついていた。


 相沢杏奈は、私を見るたびに仇でも見るような目をした。


 どうせ、誰かから聞いたのだろう。


 昨夜、私と鷹宮怜央が一緒に会社を出たことを。


 昼休み、彼女はスターバックスのカップを片手に、ヒールの音を響かせながら私の席へやって来た。


「あら、一ノ瀬じゃない」


 彼女はパーテーションにもたれ、周囲に聞こえる程度の声で言った。


「昨日の夜はずいぶん熱心だったみたいね」


「落ち目の貧乏インターンに、深夜まで付き合ってあげたんでしょう?」


 彼女と仲のいい女子社員たちが、口元を押さえて笑った。


 私は書類を整えるふりをして、何も答えなかった。


 すると杏奈はますます調子に乗り、私の机の上にあった白いマグカップを指先で弾いた。


「このカップ、何年使ってるの? 塗装が剥げてるじゃない」


 彼女は鼻で笑う。


「まあ、似合ってるけど。安物には安物。貧乏人には貧乏人ってね」


 私は唇を引き結んだまま、黙っていた。


 午後、私は給湯室へ水を取りに行った。


 席に戻ると、ちょうど相沢杏奈が書類の束を抱えて私の机の横を通り過ぎるところだった。


 その肘が、「うっかり」私のカップに当たった。


「パリン」


 白いマグカップは床に落ち、細かな破片が四方へ散った。


「あら」


 杏奈は口元を押さえたが、目には少しの申し訳なさもなかった。


「ごめんなさい、一ノ瀬さん」


「でも、そんな安物、割れても惜しくないでしょう? 今度、佐久間課長に新しいのを買ってもらったら?」


 彼女はわざとヒールの先で破片を蹴った。


 耳障りな音がした。


 私はしゃがみ込み、一つずつ白い破片を拾った。


 指先が切れ、赤い血が滲んだ。


 それでも手を止めなかった。


「まだ拾うの?」


 杏奈は私を見下ろしながら、呆れたように笑った。


「そんなに貧乏なの? カップ一つ捨てられないなんて」


「まあ、貧乏な彼氏を支えるのは大変よね」


 私は破片をすべて拾い、紙で包んでゴミ箱へ捨てた。


 最初から最後まで、彼女を見なかった。


 夜、家に帰ってから、私は鷹宮怜央へLINEを送った。


 写真には、絆創膏を貼った指先が写っている。


 隅には、「偶然」ゴミ箱の中の白い破片の包みも映っていた。


 【今日、うっかりカップを割っちゃった】


 【あの白いやつ。長く使ってたから、少しだけ惜しくて】


 しばらくして、彼から返信が来た。


 【割れたものは仕方ない。怪我が大したことなくてよかった】


 私はさらに打った。


 【うん。古いものがなくなれば、新しいものが来るって言うし】


 【ただ、少し寂しいなって思っただけ】


 【あなたも使ったことがあったから】


 彼からの返信は、もう来なかった。


 翌朝、杏奈の担当していたプロジェクトで問題が起きた。


 取引先が突然、企画書の主要データに捏造があると抗議してきたのだ。


 性質はかなり悪く、電話は本部の副部長にまで届いた。


 朝のミーティングで、佐久間課長は部員全員の前で叱責され、顔面蒼白になって汗を流していた。


 会議後、彼は杏奈を自分の部屋へ呼び出した。


 厚いガラス扉の向こうからでも、怒鳴り声が聞こえてくる。


「お前は何をしていたんだ!」


「こんな重要なデータを間違えるなんてあり得ないだろ!」


「俺まで巻き込む気か!」


 杏奈が出てきたとき、化粧は涙でぐちゃぐちゃだった。


 彼女が正社員登用を勝ち取るための切り札だったプロジェクトは、完全に潰れた。


 佐久間課長が彼女を見る目も、明らかに冷たくなっていた。


 私は知っている。


 これは鷹宮怜央の仕業だ。


 あの男は、たとえ誰かを玩具にしていたとしても、その玩具に他人が勝手に触れることは許さない。


 5


 数日後、社内に噂が流れ始めた。


 グループ全体の調整の影響で、今年のインターンは一人も正社員登用されないかもしれない、と。


 部署じゅうで、その話題でもちきりになった。


 インターンたちは、誰もが不安そうな顔をしている。


 私は、鷹宮怜央の動きを注意深く見ていた。


 退勤時間が近づいたころ、彼が一人で非常階段へ向かうのを見つける。


 私は人がほとんどいなくなるのを待ってから、用意していた保温ボトルを持って、その後を追った。


 重い防火扉を押し開けると、彼は冷たい壁にもたれ、指先に煙草を挟んでいた。


 薄暗い階段室に、白い煙がゆっくりと漂っている。


「鷹宮くん?」


 私が小さく呼ぶと、彼は顔を上げた。


 私だと分かると、わずかに目が動いた。


 私は保温ボトルを差し出した。


「温かいお茶。寒いから」


 彼は受け取ったものの、飲まなかった。


 ただ、私を見ている。


 私は彼を見上げた。


 目には、全面的な信頼と、少しの心配を込める。


「あまり不安にならないで」


「もしこの会社が私たちを必要としなくても、大丈夫だよ」


「道がなくなるわけじゃない」


「夜に翻訳の仕事を増やしてもいいし、週末に家庭教師をしてもいい」


「二人で頑張れば、きっと少しずつお金も貯められるし、もっといい場所へ行けるよ」


 私は少し間を置き、そっと彼の袖口を掴んだ。


 布地は安っぽく、ごわついている。


「だから、諦めないで。ね?」


 鷹宮怜央は、私の手を見下ろした。


 振り払わない。


 彼は長いこと黙ってから、ふいに口を開いた。


「一ノ瀬凛」


「俺は今、仕事を失うかもしれない」


「住んでいるボロアパートの来月の家賃だって、どうなるか分からない」


「そんな俺についてきて、お前は何を得る?」


 来た。


 試されている。


 私は問われて戸惑ったように、頬を一気に赤らめた。


 俯き、無意識のように服の裾を握りしめる。


 声は、蚊の鳴くような小ささにした。


「私は……」


「あなた自身が、好きなの」


「あなたと一緒なら、毎日コンビニのおにぎりでも、終電に揺られて帰る生活でもいい」


 階段室が数秒、静まり返った。


 遠くで、東京の夜の車の音がかすかに聞こえる。


 それから、彼が小さく笑うのが聞こえた。


 彼は手を伸ばし、私が握りしめていた裾から、私の指をそっと取った。


「分かった」


 彼は言った。


「なら、お前が俺を養え」


 少し身をかがめ、息が額にかかる距離で続ける。


「今の言葉、自分で言ったんだからな」


「覚えておけ。後悔するなよ」


 心臓が大きく鳴った。


 それでも私は顔を上げ、真剣な目で彼を見た。


「絶対に後悔しない」


 6


 関係は、そのまま曖昧な形で始まった。


 彼はときどき、私の古い木造アパートへ来る。


 ほとんどの日は、私たちはそれぞれ別々に会社へ行き、別々に帰った。


 私は分かっていた。


 彼は私を観察している。


 評価している。


 面白いロールプレイングゲームでもするみたいに。


 そして、私も演じていた。


 恋に目がくらみ、貧乏な男に尽くすことを幸せだと思い込む、普通の女を。


 私は懸命に演じた。


 安いけれど心がこもって見えるものを贈った。


 手作りのクッキー、コンビニ限定のホットドリンク、歪んだ編み目のマフラー。


 立ち食い蕎麦を一緒に食べても、心から楽しそうに笑った。


 彼の、私の部屋よりさらに狭くて古いアパートに行ったときには、こうまで言った。


「狭いけど、落ち着くね」


 彼はすべて受け取った。


 ときどき、彼も小さなものをくれた。


 見切り品の苺。


 ドラッグストアで買ったリップクリーム。


 私はそのたび、大げさなほど喜び、大切そうに扱った。


 あの金曜日の夜までは。


 彼が来たのは、いつもよりずっと遅い時間だった。


 身体には、少し酒の匂いが残っていた。


 その夜の彼は、いつもより乱暴だった。


 終わったあと、私はほとんど動けなかった。


 彼がシャワーを浴びに行き、スマホをベッドサイドへ放り出した。


 私はうとうとしていた。


 けれど、そのスマホの画面が突然光った。


 暗い部屋の中で、青白い光がやけに目立つ。


 銀行アプリの通知だった。


 【お客様の末尾8888口座に、本日23:15、50,000,000円の入金がありました。現在の普通預金残高は……】


 その後ろに続く長い数字を見た瞬間、私は息を呑んだ。


 五千万円?


 普通預金?


 心臓が激しく跳ね、眠気は一瞬で消えた。


 何かに導かれるように、私は手を伸ばし、何の変哲もない黒いスマホを手に取った。


 ロック解除の番号は、何度か「偶然」見ていた。


 震える指で入力する。


 開いた。


 私はそのまま銀行アプリを開いた。


 現実のものとは思えないほど長い残高の数字が、はっきり画面に表示された瞬間、巨大な歓喜が頭のてっぺんまで駆け上がった。


 私は唇を強く噛み、笑い声を押し殺した。


 どこが貧乏インターンなの。


 これは、呼吸する金の山だ。


 次に、私はLINEを開いた。


 いちばん上に固定されていたグループ名は――


 【観察日記】


 メンバーは三人だけ。


 最新のメッセージは、三十分前のものだった。


 【哲也:怜央、今日の「インターン全員落ちるかも」って芝居、なかなかだったな。あの子、どんな反応した? 本気にした?】


 その下に音声メッセージがあった。


 私は再生した。


 鷹宮怜央の、低く笑いを含んだ声が流れ出す。


「信じたんじゃないか。演技は上手い。心配で泣きそうな顔までしていた」


「ただ、少し焦りすぎだな」


「痕跡が消しきれていない」


 指先が、一瞬で冷たくなった。


 私はさらに上へスクロールする。


 チャット履歴の中には、雨の中で彼に傘を差し出す私の横顔があった。


 写真の下に、彼はこう記している。


 【Day1:獲物、接触。】


 保温ボトルを渡す私が俯き、頬を赤くしている写真もあった。


 【Day5:同情ルート開始。】


 そして、私が目を潤ませて「あなた自身が好き」と言ったときの短い動画まであった。


 彼がいつ撮ったのか分からない。


 動画の下には、仲間たちの返信が並んでいた。


 【哲也:すげえな。涙、出そうと思えば出せるのか? 女優じゃん】


 【隼人:今回はどこまで遊ぶ? 本気で愛は金に勝つとか思わせてから、全部ゲームだったってバラす?】


 【怜央:急がない】


 【怜央:まだ何を演じるか見ていたい】


 【怜央:少し面白い】


 さらに上には、もっと前の記録もあった。


 どうやって仕事の危機を演出するか。


 どうやって私に心配させるか。


 どうやって、この「金目当ての女」がいつ馬脚を現すか観察するか。


 身体中が冷えていった。


 私は、自分が金持ちの男を釣っているつもりだった。


 けれど本当は、見世物にされていたのは私だった。


 私は必死に舞台で演じていた。


 その男は客席に座り、酒でも飲みながら、友人たちと私の演技を採点していたのだ。


 私がいつ演じ損なうのかを待ちながら。


 シャワーの音は、いつの間にか止まっていた。


 浴室のドアが、かちゃりと開く。


 鷹宮怜央は、腰にタオルを巻いただけの姿で出てきた。


 濡れた髪から水滴が落ち、鎖骨を伝って胸元へ流れていく。


 彼は、私がスマホを握りしめ、顔を真っ白にしてベッドに座っているのを見ても、少しも驚かなかった。


 むしろ、ひどく落ち着いた様子でベッド脇へ来ると、煙草の箱を取り、一本を咥えて火をつけた。


 口元には、隠す気もない見下すような笑みが浮かんでいた。


「どうした、一ノ瀬凛」


「もう芝居は続けられないか?」


「観客席を見てしまったんだな」


 7


 頭の中が真っ白になった。


 羞恥、怒り、完全に弄ばれた屈辱感が、私を丸ごと呑み込もうとしている。


 けれど、崩れてはいけない。


 ここで崩れたら、すべてが終わる。


 これまでの投資が全部、無駄になる。


 私は太ももを強くつねった。


 痛みで、一瞬にして意識が戻る。


 顔を上げる。


 もう怯えた純情な女の仮面は被らず、彼の嘲るような目を真正面から受け止めた。


「そうよ」


「あなたが誰か、私は最初から知っていた」


「丸の内本社の役員フロアで、あなたを見たから」


 鷹宮怜央が片眉を上げる。


 彼は煙草の灰を軽く落とした。


「続けろ」


「あなたに近づいたのは、お金のため」


 私ははっきりと言った。


「六畳一間のボロアパートに住み続けたくなかった」


「中央線の終電に押し込まれて帰る生活も嫌だった」


「上司の顔色を見ながら生きるのも、もう嫌だった」


「上に行きたかった。有り余るお金のある生活が欲しかった」


「それの何が悪いの?」


 彼は鼻で笑った。


「悪くない」


「だから、ゲームはここで終わりだ」


「見たかったものは見ただろう。知るべきことも知った」


「荷物を持って、出て行け」


「出て行け?」


 私は机の上にある新品のビジネスバッグを指した。


 三か月分の給料をつぎ込み、さらに分割払いまでして買った贈り物だった。


「鷹宮怜央。私が本当に、目先の金だけ欲しい馬鹿な女なら、全財産を賭けて、あなたの『正社員登用祝い』のためにあれを買うと思う?」


「プロの金目当ての女が、毛一本も見返りをもらっていない段階で、手持ちのチップを全部賭けると思う?」


「ねえ?」


 彼の視線が、一瞬だけビジネスバッグへ落ちた。


 そして、私の顔へ戻る。


 何も言わなかった。


 私はその一瞬の迷いを逃さない。


 すぐに目を赤くし、声に濃い涙を混ぜた。


 感情の切り替えの速さには、自分でも感心する。


「あなたのお金が欲しかったのは本当よ」


「認める」


「私は虚栄心が強い。いい暮らしがしたい。上へ行きたい」


「でも、どれだけ計算しても、自分があなたに本気で惹かれるなんて、計算に入ってなかった」


 涙が一粒、頬を転がった。


 ちょうどいい。


「私は、あなたが相沢杏奈の選んだあんな中年男たちとは違うと思っていた」


「あなたのあの友人たちみたいに、金で人を弄ぶだけの人間じゃないと思っていた」


「たとえ貧乏なふりをしていても、根っこの部分は、そんなに悪質じゃないって」


 言い終えると、私はそのビジネスバッグを掴み、全力で床へ叩きつけようとした。


 鷹宮怜央の反応は速かった。


 長い腕が伸び、バッグは床に落ちる前に彼の手の中で止まった。


 私は彼の手を振りほどき、ドアノブへ向かう。


 傷つき、これ以上一秒もここにいたくない女のふりをした。


 指先が冷たいドアノブに触れた瞬間、腰に強い腕が回った。


 次の瞬間、背中が壁に強く押しつけられる。


 彼の腕と身体に、狭い空間へ閉じ込められた。


 シャワー後の冷たい香りと、煙草の匂いが近づいてくる。


 近すぎて、彼のまつ毛の形まで見えた。


「いいだろう」


 彼は私の目を見て、一語ずつ言った。


「金が欲しいなら、話は早い」


 彼は私から離れ、机の上のスマホを取ると、指先で数回操作した。


 ポケットの中で、私のスマホが震える。


 取り出すと、銀行の入金通知だった。


 並んだゼロの数に、瞳孔がわずかに開く。


 七桁。


「手付金だ」


 彼は私の顎を持ち上げた。


「ここに残れ」


「俺を愛している女を演じろ」


「上手く演じて、俺を満足させられたら――」


 彼は軽く笑った。


「金なら、いくらでもある」


「値段は、お前が決めればいい」


 私は、今の自分の運命を変えるには十分すぎる数字を見つめた。


 数秒、沈黙する。


 そして、顔を上げた。


「いいわ」


 8


 その日から、鷹宮怜央は定期的に私へ金を振り込むようになった。


 金額は、回を追うごとに大きくなっていく。


 私の普通口座の残高は、私を安心させる速度で増えていった。


 そして私は、「貧乏な彼氏を深く愛し、決して見捨てない女」を、誠実に演じ続けた。


 一方、相沢杏奈は、プロジェクト失敗と正社員登用の見送りで、しばらく大人しくなっていた。


 けれど、人はそう簡単には変わらない。


 少し経つと、彼女はまた新しい枝に飛び移った。


 今度は、分社の取引先社長の息子。


 神崎翔。


 実家はいくつかの工場を持っているらしい。


 本物の上流階級とは言えないが、普通の会社員の前で威張るには十分な金があった。


 この「神崎ジュニア」は、杏奈の甘えた仕草にすっかり夢中になったようだった。


 二人はすぐに一緒に出歩くようになった。


 しばらく消えていた杏奈の高飛車な態度も、少しずつ戻ってくる。


 新しいバッグ。


 新しいアクセサリー。


 新しい靴。


 声もまた、大きくなった。


 その日の夕方、外はまた雨だった。


 傘を持っていない同僚たちが、一階のロビーに集まっている。


 私もその中にいた。


 鷹宮怜央からは、三十分前に「迎えに行く」とLINEが来ていた。


 そのとき、わざとらしいエンジン音が近づいてきた。


 白いポルシェが、ロビー前に停まる。


 窓が下りた。


 助手席には、完璧に着飾った相沢杏奈が座っていた。


「翔くん、本当に優しい。わざわざ迎えに来てくれたんだ」


 甘ったるい声で、彼女は身を乗り出した。


 ロビーにいる人間へ、自分と新しい車を見せびらかしたくて仕方がないらしい。


 運転席の神崎翔も、その注目を楽しんでいるようで、得意げにクラクションを二度鳴らした。


 杏奈はそれからゆっくりと車を降り、腰を揺らしながらロビーへ入ってくる。


「あら、一ノ瀬じゃない」


 彼女は私の前で立ち止まった。


 目から溢れそうなほどの軽蔑が見えた。


「まだ帰らないの?」


「まさか、雨の日に車もない男を待っているの? 一緒に地下鉄で帰るために?」


 私は目を伏せ、スマホの画面を見たまま何も言わなかった。


 横にいた女子社員が、わざとらしく言う。


「杏奈先輩、そんな言い方しなくても。あれは真実の愛なんですよ。物質なんて関係ないっていう」


「真実の愛?」


 杏奈はこの世でいちばん馬鹿げた冗談を聞いたように笑った。


「笑わせないでよ」


「ボロアパートに住んで、正社員になれるかも分からない男と真実の愛?」


「それは愛じゃなくて、ただの頭の悪さでしょ」


 彼女は一歩近づき、さらに悪意を込めて言った。


「一ノ瀬、前から地味だとは思ってたけど、ここまで馬鹿だとは思わなかった」


「今の自分を見てみなさいよ」


「鷹宮怜央みたいなゴミと一緒にいて、何が手に入るの?」


「終わらない満員電車、住み続けるボロ部屋、安物だらけの毎日」


 彼女は自分の新しいハイヒールを見せつけるように足を上げた。


「あんたじゃ、私の靴のヒール一本も買えないでしょうね」


「それに比べて、私を見て」


 彼女は外のポルシェを指した。


「これが生活よ」


「これが男よ」


「鷹宮怜央みたいなゴミは、翔くんの靴を持つ資格すらない」


「私があいつを捨てたのは、人生でいちばん正しい選択だったわ」


「あんたは私が捨てたゴミを宝物みたいに抱えてる。哀れで、滑稽」


 彼女の言葉が終わった、その瞬間だった。


「ピッ、ピッ」


 会社前の車寄せに、いつの間にか黒いベントレー・ミュルザンヌが静かに停まっていた。


 車窓がゆっくり下がる。


 鷹宮怜央の横顔が現れた。


 今日はあの古いシャツではない。


 上質な黒いシャツを着て、袖を肘まで無造作にまくり、引き締まった腕と、高価な腕時計が見えていた。


 彼は軽く顎を上げ、私に乗れと示した。


 ロビー全体が、不気味なほど静まり返った。


 誰もが固まっている。


 さっきまで得意げだった相沢杏奈も、同じだった。


 ベントレー?


 鷹宮怜央が?


 ベントレーに乗っている?


 あり得ない。


 彼は、車一台持っていない貧乏インターンではなかったのか。


 そして次の瞬間、杏奈をさらに崩壊させる光景が起きた。


 ついさっきまで傲慢だった神崎翔が、車と中の人物を見た途端、顔色を変えたのだ。


 彼は傘も差さずに雨の中へ飛び出し、ベントレーの横へ駆け寄った。


 腰を半分折り、ほとんど媚びるような笑みを浮かべる。


「た、鷹宮様!」


「こんなところでお目にかかれるなんて、光栄です!」


 車内の鷹宮怜央は、ようやく外の人間に気づいたように、ゆっくり顔を向けた。


 神崎翔を一瞥する。


 目は冷たい。


 ほんのわずかにうなずいただけで、一言も発しなかった。


 それだけで、神崎翔は舞い上がったように頭を下げる。


「お忙しいところ失礼しました! どうぞ、お構いなく!」


 彼は一秒でも長くそこにいると機嫌を損ねるとでもいうように、慌てて自分のポルシェの方へ戻った。


 そして、ロビーの入口に立ち尽くす杏奈を振り返った。


 顔は真っ青だ。


 彼は大股で彼女へ近づき、全員が見ている前で腕を振り上げた。


「パァン!」


 鋭い音が、ロビーに響いた。


 相沢杏奈の顔が大きく横へ弾ける。


 整えられていた髪は乱れ、頬にはすぐに五本の赤い指の跡が浮かんだ。


「馬鹿女!」


 神崎翔は杏奈の鼻先を指差して怒鳴った。


「鷹宮様を罵るなんて、お前は何様のつもりだ!」


「死にたいなら一人で死ね! 俺まで巻き込むな!」


 杏奈は頬を押さえ、完全に呆然としていた。


 私は傘を開き、落ち着いた足取りで黒いベントレーへ歩いていく。


 あとに残ったのは、沈黙と、無数の複雑で驚いた視線だけだった。


 乗り込む直前、私は一度だけ杏奈を振り返った。


 彼女の顔は血の気を失い、自分がかつて蹴り捨てたものの正体に、ようやく気づいたようだった。


 私は彼女へ微笑んだ。


 大きくはない。


 ただ、彼女に見える程度に。


 9


 相沢杏奈は、完全に壊れた。


 最初は、鷹宮怜央へLINEを送り続け、何度も電話をかけた。


 ブロックされると、番号を変えてまたかけた。


 そのうち、会社の地下駐車場で待ち伏せするようになった。


 ある日、退勤時に、私は彼女が鷹宮怜央の普通のフォルクスワーゲンの前に飛び出しているところを見た。


 化粧は涙で崩れ、髪は乱れている。


 全身が、雨に打たれて街角に貼りついたポスターみたいに惨めだった。


「怜央!」


「私が悪かったの。本当に分かったの!」


「あのときは佐久間に騙されて、どうかしていたの!」


「私の心には、ずっとあなたしかいなかった!」


「お願い、もう一度だけチャンスをちょうだい!」


 鷹宮怜央は車の中に座ったまま、窓すら下げなかった。


 無表情で前だけを見ている。


 杏奈は私が近づくのを見た途端、目に憎悪を宿した。


 彼女は私を指差して叫ぶ。


「この女のせいなの!?」


「怜央、この女はお金が目当てよ!」


「最初からあなたの正体を知っていたの!」


「わざと近づいたのよ!」


「本当にあなたを愛しているのは私なの!」


 鷹宮怜央は眉をひそめた。


 ようやく窓を下げると、駆けつけた警備員に冷たく二文字だけ告げた。


「どけろ」


 警備員に引き離されながらも、杏奈は喉が裂けそうな声で叫び続けた。


「一ノ瀬凛! あんたなんか不幸になればいい!」


「私の男を奪ったくせに!」


「怜央、あなたは絶対に後悔する!」


 そんな騒ぎが何度か続き、ついに鷹宮怜央は明らかにうんざりした顔をするようになった。


 私は思った。


 そろそろ、頃合いだ。


 ある夜、彼は杏奈からの連続電話と自殺をほのめかすメッセージに苛立ち、顔を険しくしていた。


 私は彼の前へ行き、何も言わずに、折り畳んだ紙をローテーブルへそっと置いた。


 彼は一瞥しただけで、手に取らない。


 私は低い声で言った。


「妊娠したの」


 彼が、はっと顔を上げた。


 私は目を伏せ、指先で服の裾を弄ぶ。


「もし迷惑なら、あるいは……」


「まだ杏奈先輩のことを忘れられないなら」


「子どもは、私が一人で処理するから」


「あなたに迷惑はかけない」


「処理?」


 彼の声が低くなった。


 私はうなずく。


 顔を上げたとき、目はちょうどよく赤くなっていた。


 それでも、涙は落とさない。


「鷹宮怜央。私は、この子に父親がいないなんて嫌なの」


「この時間の中で、少しは私たちの間に気持ちがあったと思いたかった」


「でも、あなたを困らせたくない」


 そのとき、彼の私用スマホが鳴った。


 彼は電話を取る。


 数言聞いただけで、顔色がわずかに変わった。


「ああ、分かった」


 それだけ言って、通話を切る。


 その電話の内容が何なのか、私はだいたい見当がついていた。


 鷹宮家の当主である老人が、危篤に近い状態だ。


 家族信託とグループの議決権配分が、まもなく再編される。


 噂では、遺言には極めて重要な条件が付されているという。


 鷹宮家に正式に認められる直系の後継者を持つ者が、主要子会社の信託受益権配分において圧倒的に有利になる、と。


 一方には、価値すら測れないグループ株式と、合法的な血筋の後継者。


 もう一方には、すでにうんざりしている、問題ばかり起こし、泣き喚くことしかできない元恋人。


 この選択は、少しも難しくない。


 鷹宮怜央の目が、私の顔と検査結果の紙の間を行き来した。


 数秒後、彼は手を伸ばし、私を引き寄せて膝の上に座らせた。


 腰を抱く腕は強い。


 けれど、温度はなかった。


「子どもは残せ」


 彼は言った。


「結婚する」


 私は一瞬、驚いたふりをして彼を見上げた。


 濡れた目には、信じられないという表情と、少し怯えたような不安を浮かべる。


「でも……杏奈先輩は……」


「その名前を出すな」


 彼は遮った。


「俺が処理する」


「結婚すれば、お前は鷹宮夫人だ」


「名分も体面も、物質的なものも、必要なものはすべて与える」


 そこで彼は少しだけ間を置き、指先で私の頬を撫でた。


 その仕草は、どこか軽薄だった。


「愛以外はな」


 私はまつ毛を伏せ、従順に彼の胸へ頬を寄せた。


 小さく「うん」と答える。


 愛?


 そんなもの、誰が欲しがるの。


 私が欲しかったものは、最初からそれではない。


 10


 結婚式の準備は早かった。


 そして、想像を超えるほど豪華だった。


 鷹宮家が動けば、当然ながら何もかも一流になる。


 会場は軽井沢のプライベートヴィラ。


 招待客リストには、財界、政界、名家の人間が並び、普段なら経済ニュースや社交誌でしか見ない顔ばかりだった。


 私は値段を聞く気にもなれないオーダーメイドのウェディングドレスを身にまとい、鷹宮怜央の腕に手を添え、白薔薇で飾られた長い道を歩いた。


 その瞬間、私は自分が美しく包装された商品になったように感じた。


 陳列される。


 品定めされる。


 正式に引き渡される。


 司会者が誓いの言葉を読み上げる。


 鷹宮怜央が指輪を取り、私の薬指にはめようとした。


 そのとき――


「私は認めない!」


 甲高く凄まじい叫びが、厳かな音楽を切り裂いた。


 全員が驚いて振り返る。


 相沢杏奈が、汚れた白いドレスのような服を着て、乱れた髪と涙で崩れた化粧のまま、客席の後ろから飛び出してきた。


 彼女は一直線に壇上へ向かってくる。


「怜央! その女と結婚しちゃ駄目!」


 彼女は震える指で私を指した。


「あの女は嘘つきよ!」


「あなたのお金が目当てなの!」


「最初からあなたが誰か知っていて、わざと近づいたのよ!」


「本当にあなたを愛しているのは私なの!」


「あの女に、あなたはふさわしくない!」


 会場がざわめいた。


 フラッシュが一斉にこちらへ向けられる。


 客たちは顔を寄せ合い、隠しきれない好奇の目をこちらへ向けていた。


 鷹宮怜央の顔色は、たちまち暗く沈んだ。


 指輪を持つ手に、白く力が入る。


 杏奈は彼が黙っているのを見て、希望があると思ったのだろう。


 泣きながら彼へ手を伸ばし、今にもすがりつこうとした。


「怜央!」


「私を見て!」


「もう一度やり直そう?」


「今度は絶対、わがままを言わないから!」


 その手が彼に触れる前に、鷹宮怜央は一歩、鋭く後ろへ下がった。


 避けたのだ。


 そして、ざわめく客席と光るカメラを一瞥し、待機していた警備責任者へ、はっきりと命じた。


「外へ出せ」


 体格のいい警備員たちがすぐに前へ出て、泣き叫ぶ杏奈を容赦なく取り押さえた。


「離して!」


「鷹宮怜央、こんなことをしていいと思ってるの!?」


「私はあなたを愛しているのよ!」


「一ノ瀬凛、この最低女!」


「地獄に落ちればいい!」


 彼女のヒステリックな叫びは、だんだん遠ざかっていき、やがてヴィラの入口の向こうへ消えた。


 突然始まった茶番は、突然終わった。


 鷹宮怜央は私へ向き直る。


 彼は改めて私の手を取ると、眩しいほど輝く指輪を持ち上げた。


「すまない」


 彼は低く言った。


 私たち二人にしか聞こえない声だった。


「興を削いだ」


 私は顔を上げ、まるで何事もなかったかのように、温和で上品な笑みを浮かべた。


「大丈夫」


 彼が指輪を私の薬指へゆっくり押し込むのを見つめながら、私は囁いた。


「私は結果だけを見るから」


 11


 結婚後の生活は、ほとんど想像どおりだった。


 いや、想像以上に精彩に満ちていたと言ってもいい。


 鷹宮怜央は、結婚したからといって少しも落ち着かなかった。


 彼は相変わらず、遊び慣れた財閥の御曹司だった。


 今日はどこかの女優と銀座の寿司店で食事。


 明日はどこかの令嬢と箱根の温泉別邸で目撃される。


 ゴシップ誌は、彼の名前を嬉々として載せた。


 私は一度も問い詰めなかった。


 完璧に鷹宮夫人を演じた。


 麻布台の邸宅の細かなことを取り仕切る。


 彼の面倒な好みをすべて覚える。


 彼がたまに帰宅する夜には、醒ましのスープと着替えを用意する。


 必要な社交の場では隣に立ち、上品に笑い、優雅に振る舞い、彼の顔を立てる。


 彼がくれる宝石、ブランドバッグ、オートクチュールのドレス、そして不動産まで、私はすべて受け取った。


 そして、誰にも気づかれないよう、少しずつ、それらをより自分で扱いやすく、増やしやすい資産へ変えていく。


 金。


 海外ファンド。


 匿名信託。


 スタートアップ企業の小口株式。


 東京湾岸にある、目立たないが値上がりしそうなマンション。


 私は学ぶのが早かった。


 鷹宮夫人という肩書で触れられる人脈と情報を使い、自分だけの金庫を静かに築いていった。


 ときどき、彼は深夜に帰ってきた。


 身体には、私ではない女の香水が残っている。


 私は気づかないふりをして風呂を用意し、背を向けて眠ったふりをした。


 ある夜、彼はかなり酔っていた。


 私が醒ましのスープを持っていくと、彼は酔いで濁った目をしばらく私に向け、突然その碗を払い落とした。


 精巧な器は床に落ち、砕け散った。


 スープが高価な絨毯に染みる。


「一ノ瀬凛」


 彼はソファにもたれ、虚ろでありながら鋭い目で私を見た。


「お前、その笑い方、やめられないのか」


 私はしゃがみ込み、破片を拾った。


 顔を上げないまま答える。


「怜央、酔っているのよ」


「早く休んだ方がいい」


「偽物だ」


 彼は一言だけ吐き捨てた。


 酒の匂いに混じって、微かな苛立ちがあった。


「全部、偽物だ」


 私は何も言わなかった。


 静かに片づけ、彼を二階へ連れていく。


 彼の身体は重かった。


 首筋に吐息がかかる。


 その後、彼が同じことを口にすることはなかった。


 けれど、私たちはどちらも分かっていた。


 この華やかで冷たい邸宅には、何でもある。


 ただ、「家」と呼ぶべき温度だけがない。


 私たちはどちらも演じていた。


 どちらが先に演じることをやめるか。


 あるいは、どちらが先に欲しいものを手に入れるか。


 相沢杏奈は、私たちの生活から完全には消えなかった。


 鷹宮怜央が何を考えていたのかは分からない。


 未練なのか。


 男の性なのか。


 あるいは、単に刺激が欲しかっただけなのか。


 私の妊娠中期、腹が目立ち始めたころ、彼は再び相沢杏奈と関係を持つようになった。


 杏奈も少しは学んだらしい。


 以前のように大声で騒ぐことはなかった。


 ただ、ひそやかで挑発的な形で存在を主張してきた。


 怜央が脱いだシャツの襟元に、私のものではない甘ったるい香水の匂いが残っている。


 彼がたまたまロックし忘れたスマホに、杏奈からの馴れ馴れしいメッセージが見える。


 一度など、産婦人科から予定より早く戻ったとき、車庫に彼女の派手な色のスポーツカーが停まっていた。


 最も気分が悪かったのは、息子を産んで間もないころだ。


 高級産後ケア施設に滞在していた深夜、知らない番号から一枚の写真が届いた。


 開く。


 鷹宮怜央が、上半身裸で深く眠っている。


 相沢杏奈はその隣に寄り添い、同じように服を乱したまま、布団の端だけで胸元を隠し、勝ち誇った顔でカメラに笑っていた。


 背景は、明らかにホテルの一室だった。


 添えられていた文面はこうだ。


 【鷹宮夫人? 笑わせないで。あなたなんて、子どもを産む道具でしかないのよ。彼が私を抱くとき、呼んでいたのは私の名前だったわ】


 私はその写真を見て、何も感じなかった。


 むしろ、少し笑いそうになった。


 スマホを隣にいたケアスタッフへ差し出す。


「迷惑メッセージです」


「処理をお願いします」


 そう言ってから、私はゆったりとマッサージチェアへ戻り、栄養士に尋ねた。


「今日の燕の巣はできていますか?」


「少し温かめでお願いします」


 私は、少しずつ元に戻っていく腹を撫でながら、最高級のケアを受ける身体の心地よさを味わった。


 好きにすればいい。


 その面倒を表に持ち出さない限り。


 私の地位と、息子の相続権に影響を与えない限り。


 彼が誰と寝ようが、私には関係がない。


 相沢杏奈?


 表舞台に上がることもできない哀れな道化だ。


 鷹宮怜央の一時的な暇つぶしにすぎない。


 そんな女に腹を立てる必要はなかった。


 私の目的は、最初からこの男の心や身体を独占することではない。


 私が欲しいのは、現実に手の中に残るものだけだった。


 12


 息子、鷹宮悠真の誕生は、私の鷹宮家での地位を決定的なものにした。


 義父母は初孫に大喜びし、私という「功労者」に対しても気前がよかった。


 結婚前に約束されていたものに加え、グループ傘下の子会社の一部株式、そして軽井沢の別荘まで贈られた。


 私は慈母を演じながら、資産の整理をさらに加速させた。


 株式、不動産、宝石を現金化して得た資金は、複数の海外口座と信託基金へ巧みに分散させていく。


 鷹宮怜央は、息子にはそれなりに関心を持った。


 家に帰る回数も少し増えた。


 とはいえ、抱いてあやす程度のものだった。


 私たちの間は相変わらず、氷のように礼儀正しかった。


 悠真が三歳になった年、彼は東京で最も名高いインターナショナル幼稚園へ入った。


 賢く愛らしい子で、鷹宮家の年長者たちにもよく可愛がられた。


 私は思った。


 時機は来た。


 ある夜、鷹宮怜央は珍しく会食もなく、早く帰宅した。


 夕食後、彼は書斎で仕事をしていた。


 私は参茶を一杯運び、彼の手元へ静かに置いた。


 そして、一枚の書類を彼の前へ差し出す。


 彼は最初、気にも留めなかった。


 何気なく手に取り、数枚めくる。


 その表紙の文字を見た瞬間、動きが止まった。


 『離婚協議書』


 彼は顔を上げた。


 その目には、珍しく驚きがあった。


「何だ」


 高価な革張りの椅子にもたれ、ネクタイを緩める。


 口調は気だるく、いつものように見下ろすようだった。


「小遣いが足りなくなったのか?」


「それとも、欲しいオークション品でも見つけたか?」


「言えばいい。秘書に振り込ませる」


「お金の問題じゃないわ」


 私は書斎の机の前に立ち、静かに彼を見返した。


「鷹宮怜央。このゲーム、私はもう降りる」


 彼の笑みが薄くなった。


「名ばかりの妻を三年やった」


「後継者も産んだ」


「あなたと鷹宮家の社交上の体面も守った」


「外の女のことも、一度も問い詰めなかった」


「もう飽きたの」


 私は協議書をさらに彼の方へ押した。


 重要な条項には、すでに印をつけてある。


 十回生まれ変わっても使い切れないほどの巨額の扶養的財産分与。


 婚姻中に取得した、東京、京都、軽井沢、南仏など七か所の不動産の完全な所有権。


 そして、すでに私が保有している鷹宮家子会社株式の独立した所有権と処分権。


 鷹宮怜央は協議書を手に取り、丁寧に目を通した。


 それから机の上へ投げ戻す。


 彼は煙草に火をつけ、煙越しに私を見た。


「一ノ瀬凛」


 ゆっくりと口を開く。


「鷹宮家を出て、俺から離れて、お前に何が残ると思っている」


「この数年、世話をされる生活に慣れすぎたんじゃないか。外に出て道が分かるのか?」


「お前のいう投資など、俺から見れば子どもの遊びだ」


「鷹宮夫人という肩書を失って、それでも今までの人脈や情報が、お前に残ると思うのか」


 私は何も言わなかった。


 持ってきたファイルから、もう一つの書類を取り出し、彼へ渡す。


 第三者機関による、私個人名義の資産概要だった。


 鷹宮家から贈られたものは含まれていない。


 ここにあるのは、この数年、私が密かに運用し、積み上げてきた分だけだ。


 もちろん、鷹宮家全体から見れば九牛の一毛にも満たない。


 けれど、普通の人間なら言葉を失うだけの金額だった。


 そして何より、私がすでに経済的に独立していることを示すには十分だった。


 鷹宮怜央は資料を受け取った。


 数字と項目を追ううちに、彼の表情が少しずつ固まっていく。


 彼はきっと、私を本当の意味で一度も見ていなかったのだ。


 温順で、金に弱く、演じることしかできない金糸雀だと思っていた女が、彼の見えない場所でとっくに鋭い爪を伸ばし、自分だけの逃げ道を完成させていたとは、考えもしなかったのだろう。


 書斎には長い沈黙が落ちた。


 彼の指先で煙草が静かに燃えている。


 彼は私を長く見つめた。


 その目に浮かぶものは、読み取れなかった。


 やがて、彼は小さく嗤った。


 自嘲にも、探ることを諦めたようにも見えた。


「いいだろう」


 彼は煙草を消し、ペンを取ると、離婚協議書に大きく署名した。


 署名を終えたあと、彼はわざわざ追加条項に、さらに一筆の現金贈与を書き加えた。


 その数字は、呆れるほど大きかった。


 最後の施しのつもりなのだろう。


「これで足りるか」


 彼はペンを放り、椅子へ深くもたれた。


 またいつもの、何にも執着していない顔に戻っている。


 まるで、さっきのわずかな揺らぎなど存在しなかったかのように。


「足りるわ」


 私は協議書を受け取り、署名を確認した。


 間違いはない。


 胸の奥にずっと吊り下がっていた重石が、ようやく静かに落ちた。


 翌日、私は目立たないように荷物を整理し始めた。


 持っていくのは、身の回りのもの、重要書類、そして特別な意味や価値を持ついくつかの宝石だけだ。


 出ていく前に、私は子ども部屋へ行った。


 三歳の悠真は、保育スタッフに見守られながら積み木で遊んでいた。


 小さな背中は、とても真剣だった。


 私は部屋へ入らなかった。


 ただ、扉の前でしばらく立っていた。


 私についてくれば、彼は豊かではあっても、複雑な家庭の母を持つ子どもになる。


 鷹宮家に残れば、彼は正式な長孫であり、未来の鷹宮帝国において最も有力な後継者候補の一人になる。


 この計算は、彼を身ごもった瞬間から、はっきり分かっていた。


 母性愛?


 少しくらいは、あったのかもしれない。


 けれど理性は、何が彼にとって最善かを教えてくれる。


 私はそっと扉を閉めた。


 振り返り、小さなスーツケースを引き、三年間暮らしたこの豪奢で冷たい「家」を、二度と振り返らずに出て行った。


 13


 三年後。


 南フランス、サントロペ。


 スマホが一度、震えた。


 私は気だるく手を伸ばし、画面をちらりと見た。


 鷹宮怜央だった。


 この三年、彼からは途切れ途切れに何度も連絡が来ている。


 最新のメッセージは、十分前に届いたものだった。


 【サントロペの天気はいいだろうな】


 【前に、そこの夕日が好きだと言っていた。先月見に行ったが、確かに悪くなかった】


 下には、一枚の写真が添えられている。


 次のメッセージ。


 【悠真の親子行事が来週ある。先生は両親に来てほしいそうだ】


 さらに三つ目。


 【前に欲しいと言っていたスイスのジュエリーブランドを買収した】


 【欲しいものがあれば、直接そこのディレクターに言えばいい】


 私はそれらのメッセージと、妙に上手く撮られた夕日の写真を見て、温度のない笑みを浮かべた。


 遅すぎた深情なんて、賞味期限切れのコンビニおにぎりより安っぽい。


 そもそも、それが本当に深情かどうかさえ、どうでもよかった。


 誰が気にするの。


 私はスマホを伏せ、軽い音を立ててテーブルに置いた。


 少し離れた先には、青い地中海がどこまでも広がっている。


 私名義の白い豪華クルーザーが、プライベート桟橋に静かに停泊していた。


 ワインセラーにはコレクション級の酒が並び、厨房にはいつでも動けるミシュラン出身の料理人がいる。


 隣には、見目がよく、聞き分けがよく、扱いやすい若い恋人がいた。


 自由。


 富。


 美しい景色。


 享楽。


 これこそが、私が知恵を絞り、足元を固め、一歩ずつ手に入れてきた生活だ。


 愛?


 真心?


 それは何。


 ブラックカードで決済できるの?


 プライベートビーチで日光浴をさせてくれるの?


 もう二度と、誰かの顔色を窺わずに済むようにしてくれるの?


 できない。


 なら、価値はない。


 私はシャンパンのグラスを手に取り、海の向こうで沈んでいく夕日を眺めた。


 東京。


 鷹宮家。


 相沢杏奈。


 鷹宮怜央。


 かつて私に計算させ、演じさせ、耐えさせ、うんざりさせたものたちは、海風に吹かれてひどく遠くなっていた。


 まるで前世の出来事のように。


 私はようやく、誰かの恋人を演じなくてよくなった。


 誰かの妻でいなくてもよくなった。


 自分が愛される価値を、誰かに証明しなくてもよくなった。


 ただ、享受すればいい。


 私がこの手で勝ち取った、素晴らしい日々を。


 そして、そんな日々は、まだまだ続いていく。




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