老人と死神
そこには一軒の家があった。
人里から少し離れたその場所。
周りは木々に囲まれ、土や草花はその木漏れ日をもらって淡く光っている。動物の声も聞こえる。美しく、優しく包みこまれるような感覚に陥るが、ここは「生」の世界。
歓迎なんかされていない。
だが仕事はしなくては。
外国風の温かみのある玄関に立ち、右手を自分の肩くらいの高さに上げて木造のドアをコンコンと鳴らす。
ドアがゆっくりと開くと告げた。
おはようございます。私は―
「死神です」
どこにでもいそうな普通のおじいさんだった。
年齢は86。白い頭に、少しほっそりとした小柄な体格。連れはいたが約50年前に若くして他界し、子どももおらず独り身。20数年前からこの場所で暮らしているようだが、彼は1週間後のこの時間、死ぬことになっている。
「ほう、死神さんですか。まあ、中へ入ってください」
笑顔が似合う顔だけをひょこっと出して、どうぞどうぞと招き入れてくれた。
「お邪魔します」
壁も天井も全て木でできた室内は温もりで溢れ、ソファ、棚、椅子、テーブル、キッチンと呼ばれるものが一つの空間にきれいに収まっている。
こちらへ、と促され椅子へ腰掛けた。
「さあどうぞ、紅茶です。熱いのでお気をつけて」
おじいさんは2人分のティーカップへ琥珀色の紅茶を丁寧に淹れると、うち1つを私の方へと差し出した。
「あの…」
「いやあ、今丁度自分の分を淹れようと思ってたから、そのついでさ。紅茶はお嫌いだったかな」
「いえ、そんな。いただきます」
カップを持ち上げると、白い湯気とともにふわっと甘い香りが立ちのぼり鼻をくすぐる。ふーっと息を吹きかけ少し冷ましてから一口すすってみた。
「おいしいです」
「それはよかった」
おじいさんはにっこりすると、全く冷まさずに熱々のままおいしそうに一口飲んだ。
「熱いのがお得意なんですね」
「あぁ、そうでもないんだけどね、冷ますのが面倒でなあ」
ははっと愉快そうに笑った。
少しすると笑い声が途絶え、部屋が静まり返った。
まあ、目の前に死神がいるのだから無理もない、そろそろ話をしよう。
私が口を開きかけたとき、おじいさんに先を越された。
「死神が来ても、こんなにも冷静でいられるものなんですね。いやね、なんかこう、もっと慌てふためくものかと」
私は微笑んだ。
「ごもっともな指摘です。今あなたが驚かないのは、私がほんの少しだけ細工をしているからですよ」
「へえ、それはまたどうして」
「もちろん、死神が来たことで気が動転して私が殴られたりでもしたら困りますから」
ただ死を知らせに来たことでいちいち騒がれては仕事にならない。
「はっはっはっ!死神さんは面白い方だ。自分の死について聞く前にもうちょっと死神さんについて知りたいねえ」
「構いませんよ」
せっかくの機会だ。自分について話すのも悪くない。
かつてここまで私に積極的な態度の人がいただろうか。大概の人間が、私が目の前にいることさえも嫌がった。当然、といえば当然か。だから、この人間は面白い。
おじいさんは好奇心が有り余った子供のような眼差しで、体を前のめりにしてから最初の質問を投げかけた。
「死神さん、あなたは男?それとも女?」
あまりにも可愛い問いかけに思わず笑ってしまった。
「どちらでもありませんよ。こちらの世界に来た際は怖がらせてしまうとといけないので、このように身体をつくっています」
「ほう、そういうことですか…。じゃあこれは仮の姿というわけですな」
私は、そうですと言って頷いた。
おじいさんは興味深そうにまじまじと私を見つめる。
「なにか」
「よく見ると、とても可愛らしいお姿で」
「そ、そうですか」
少し驚いて、それを隠すように短く設定された銀髪をなでる。
「ナンパはいけませんよ」
「死神のナンパか。すると、そのまま結婚でもすれば死神さんの世界で永遠に生きられるかもしれない訳だ、それも悪くないな」
「人間は生きたままこちらの世界には来られないという決まりがあります」
「ははっ、人間の世界の冗談さ。お気になさらず」
おじいさんはいつの間にか紅茶を飲み終えており、カップにおかわりを注ぐところだった。私も二口目の紅茶を口に含ませた。
「死神さんは親しい方はいらっしゃるんですか」
「親しい方?」
「お友達とか」
「いません。死神は私一人ですから」
おじいさんは顔に驚きの表情を浮かべた。
「世界ではこのたった1秒の間にも人が亡くなっているというじゃないですか。それをお一人で、とは随分大変でしょう」
「私は疲れを感じません。それに、私がこうして人間と会っている間は時間が流れません。なので一人でも支障はありません」
「いやいや、思いがけず死神さんらしいお話が聞けましたが、わたしが言ったのはそういう類いのものではありませんよ」
ふうと一息つくと、これまでよりも少し低い声で私に聞いた。
「悲しくはありませんか」
あぁ、そういうことか、考えたこともなかった。
別に私に感情がないわけじゃない。暴言を吐かれればいい気持ちはしないし、争う人間を見て哀れだとも思う。そして移り変わる自然や景色は儚くて美しい。
だけどこれだけは―
「考えたこともなかった」
しまった。
この老人は1週間後に死んでしまうのだ。それなのに私は…
気まずさから、とっさに目を伏せた。
気分を害しただろうか。
私ははそっと目の前にいるおじいさんの反応をうかがう。
「わたしはね」
怒ってなどいなかった。
「わたしは、医者だったんです」
なるほど、
「たくさんの人に、死の宣告をされたのですね」
おじいさんは顔を下に向け、ただ、うん、うんと頷く。
私は、人間は心の弱い生き物だと心得ている。そんな人間が、私と同じ役割を担っていたのだ。
―ふと、私の目は窓側の小さなスペースに置かれている植木鉢を捉えた。柔らかそうな土の上には、生まれて間もない2つの芽がちょこんと顔を出していた。
「お花、ですか」
おじいさんは私の視線の先を見て、あれですかと言って立ち上がった。2つの芽のうち1つを優しくなでる。
「こっちは、ずっと前に亡くなった妻からのプレゼントなんです。とても綺麗で、私によく似合う花が咲くそうです。どんな花かはお楽しみだそうで」
その芽は細く枝分かれをしていて、なんだか貧相な見た目だった。本当に美しい花を咲かせるのだろうか。
「そしてこっちはね」
おじいさんはもう1つの芽に視線を移す。こちらは先ほどのものよりも色が濃く、葉は細長いが丸みを帯びてしっかりとした感じだ。
「わたしが買ったんです。妻がいなくなった後にね」
「何か理由が?」
おじいさんは話し始めた。
ある日、妻に癌が見つかったこと。そして突然この世を去ったこと。自身が医者であるにも関わらず愛する人を助けられなかったことで自分を責め、生きる希望を失い自ら命を絶とうとしたこと。思考の末、前を向いて生きようと決めたこと。退職後もボランティア活動等で大勢の人々と助け合ったこと。そして、この家で暮らし始めたこと。
「色々あって忘れていた。この種を蒔かなければと思ったんです。でも、この花一人じゃさみしいでしょう」
おじいさんは2つの芽を両手で優しく包み込んだ。
「これも、可愛らしい花が咲くんですよ。妻によく似合う、可愛らしい花がね」
私はその芽たちをじっと見つめた。
あれ…?
奥様が亡くなったのは約50年前。
そうだ、奥様から種をもらったのは少なくとも50年前なのだ。
置いているうちに種は腐ってしまって芽が出るはずがない。
「不思議なこともあるもんですね」
私は驚いた。心が読まれたようだ。
おじいさんはゆっくり目を閉じる。
私は声をかけた。
「奥様のことを、心底大切にされておられるのですね」
「ええ」
おじいさんは続ける。
「大切な人です。いつも隣で微笑んで、朗らかで、心の温かな人でした」
はっとした。
この愛情を、見たことがある。
目を開けたおじいさんは、少し照れているようだった。しわを作って笑っている。本当にこの人は笑顔が似合っている。
「この花たちが咲くのを見たい。それまでは、死ねないなあ」
1週間が経った。
私は木に囲まれたあの家の前に来ていた。
正直、自分でも驚いている。死神は死の予告をすると、それ以降はその人間に関わることはないからだ。
私は窓から家の中を覗き込んだ。
何も変わっていない。
温もりのある木の壁、ソファ、棚、椅子、テーブルにキッチン。
だがやはり物足りない。
生きた人間がいないとこんなにも寂しいものなのか。
おじいさんは、前に私と向かい合って座っていた椅子にもたれかかり、ぐったりとして死んでいた。
その腕には、あの鉢が大事そうに抱きかかえられている。
私は身を乗り出した。
鉢には鮮やかなオレンジ色の花と、淡い桃色の花が仲良く並んで咲いていた。
私は、おじいさんに似た愛情を持つ人間を一人知っている。
その人とは、53年前に会った。末期癌のため治療をせず、自宅でその時を待っていたところを、私が訪ねたのだ。
ベルを鳴らすと数秒後、小柄で色白の女性がニッコリと出迎えてくれた。
いつものように身分を名乗ると、彼女はセミロングの美しい黒髪を揺らしてペコリとお辞儀し、「死神さん、どうぞお上がりください」と優しい声で案内してくれた。
彼女は体調が良くて喜んでいたようだった。
これも死神の役目で、死の1週間前からは、残された時間を穏やかに過ごしてもらうために人間の体を少しいじっていた。
「久しぶりに気持ちのいい朝を迎えられたの。あの人もきっと喜んでくれるわ」
そう言って顔に笑みを浮かべる。
「あの人とは誰のことですか」
私は気になってしまい、とっさに口に出してしまった。案の定、すぐには答えが返ってこなかった。
私は死神だ。
死神からの質問など、答えたいわけがない。踏み込んだ問いを投げかけるべきじゃなかった。
「すみま…」
「あのね、」
彼女は口を開いた。
どうやら答えてくれるらしい。
少し間をおいて、頬を赤らめながら恥ずかしそうにこう言った。
「私の、大切な人。いつも笑っていて、明るくて、太陽のような人なの」




