第98話 感情の波紋
翌朝、異変が起きていた。
第7セクター周辺の住民たちが、次々と外に出てきている。
「風だ……」
「本物の風を感じる」
昨夜広げた窓から流れ出た空気が、周囲に広がっていた。
そして——
「聞こえる?」
誰かが言った。
「歌が聞こえる」
確かに、あちこちから鼻歌が聞こえてくる。
それぞれ違うメロディー。でも、みんな歌っている。
17年ぶりに、街に歌が戻ってきた。
管理センターからアラームが鳴る。
『感情指数、危険域突破』
でも、誰も気にしない。
みんな、空を見上げている。
小さな窓から見える、青い空を。
■ミレイの告白
「見事ね」
振り返ると、ミレイ課長が立っていた。
「課長……」
「処分命令は取り下げたわ。上層部も、この変化を無視できなくなった」
ミレイが窓に近づく。
「実は、私も感情抑制剤を飲んでいない」
「え?」
「10年前から。でも、演じていた。効率的な管理者を」
ミレイが窓から外を見る。
「私も、かつて音楽を愛していた。今も、心の中で歌っている」
そして、小さく口ずさみ始めた。
知らないメロディー。でも、美しい。
「カナミ、あなたがきっかけをくれた。ありがとう」
■プロジェクトの拡大
一ヶ月後、窓プロジェクトは正式に承認された。
第7セクターだけでなく、各地区に「窓」を作ることが決まった。
「責任者のカナミです」
会議室で、プレゼンテーションをする18歳の私。
一年前なら、考えられなかった。
「窓は、単なる開口部ではありません。人間性を取り戻す、希望の入り口です」
反対意見も多い。
「感情は非効率だ」 「管理が困難になる」 「秩序が乱れる」
でも、私は答える。
「人間は、非効率な生き物です。だから美しい」
ヒナタの言葉を借りて。
「記録と記憶は違います。私たちが本当に必要としているのは、データではなく、生きた経験です」
少しずつ、賛同者が増えていく。
特に、若い世代から。
■子供たちとの出会い
ある日、窓の前に子供たちが集まっていた。
7歳から10歳くらい。感情抑制訓練を受け始めた年齢。
「お姉さん、これ何?」
一人の少女が、窓を指差す。
「空よ」
「そら?」
「そう、本物の空」
子供たちは、不思議そうに見上げる。生まれてから一度も、本物の空を見たことがない世代。
「きれい……」
少女が呟く。
「でも、怖い」
「どうして?」
「大きすぎる」
そうか、無限の広がりを知らない子供たちには、空は恐怖でもあるのか。
「大丈夫よ」
私は少女の手を取る。
「空は、私たちを包んでくれているの。優しく、大きく」
少女は、おずおずと手を伸ばす。
窓から入る風が、小さな手を撫でた。
「あったかい」
初めて見せた、笑顔だった。




