第93話 記憶の音
夜、自室で報告書の続きを書いていた。
『1980年8月 文化記録追記』
キーボードを打ちながら、頭の中で音が響く。
ラムネのビー玉が転がる音。 川のせせらぎと水切りの音。 蝉の声と風鈴の音。 ハーモニカの震える音色。 花火が開く瞬間の音。
記録できなかった音たち。でも、私の中で永遠に響いている。
ふと、手が止まる。
画面を見ると、いつの間にか報告書とは関係ない文章を打っていた。
『青い空の下で、私たちは笑った』
慌てて削除しようとして、手を止める。
これも、私の真実だ。
新しいファイルを開く。タイトルは「記憶」。
そこに、書き始める。データじゃない、私の記憶を。
■窓への想い
深夜、再び第7セクターへ向かった。
夜間は無人。静かな制御室で、あの亀裂の前に立つ。
暗闇の向こうに、星が見える。
本物の星。
「ヒナタ君」
呟く。
「約束する。この街に、空を作る」
ポケットから、小さなノートを取り出す。新しく始めた「窓プロジェクト」の構想。
・電子ドームに開口部を設ける ・段階的に範囲を拡大 ・市民の感情指数変化を観察 ・最終的には、ドーム自体の必要性を再検討
夢物語かもしれない。でも、始めなければ何も変わらない。
「まずは、この小さな隙間から」
そして、思い出す。
記憶の会のみんな。レイ、サキ、ユウタ、ミク。
一人じゃない。仲間がいる。
■監視AIからの警告
翌日、監視AIから呼び出しがあった。
『エージェント・カナミ。行動パターンの異常を検知』
無機質な合成音声が響く。
『規定値を超える感情指数。報告書の不整合。周囲への影響』
「はい、認識しています」
『改善勧告。感情抑制剤の服用を推奨』
目の前に、小さな白い錠剤が転送される。
これを飲めば、元に戻れる。感情のない、効率的な自分に。
錠剤を手に取る。
レイの顔が浮かんだ。
「異常で、何が悪いの?」
そして——
ゴミ箱に投げ捨てた。
『エージェント・カナミ。これは重大な規約違反です』
「知っています」
『なぜ?』
監視AIに感情はない。でも、その問いかけは、まるで純粋な好奇心のようだった。
「人間だから」
それ以上の説明はしなかった。する必要もない。




