第88話 第二ボタン
「これ、持ってて」
ヒナタが学ランの第二ボタンを外した。心臓に一番近いボタン。
「でも……」
「記念に。俺の代わりに、未来まで連れてって」
ボタンを受け取る。まだヒナタの体温が残っている。小さなプラスチックのボタン。でも、これは世界中の何よりも大切な宝物。
「ありがとう」
ボタンを胸に抱きしめる。
その時、初めてキスをした。
夕陽の中で、時間が止まったみたいだった。唇の柔らかさ、温度、震え。すべてが初めてで、すべてが特別で、すべてが——
■青い世界
目を開けると、世界が変わっていた。
すべてが青く見える。
夕陽も、ヒナタも、廃校も、遠くの山も。まるで世界全体が青いフィルターをかけられたみたいに。
「カナミ?」
「見える……全部青い」
感情汚染第4段階。もう戻れない。でも、怖くなかった。
この青い世界が、私の真実。ヒナタと過ごした夏の色。
「きれいだよ、カナミ」
ヒナタが言った。
「君の瞳、すごく青い。空みたいだ」
■共鳴現象
その瞬間、何かが起きた。
遠く、東京の方角の空に、一瞬だけ亀裂が走った。電子ドームの向こうに、本物の空が見えた。
ほんの一瞬。でも確かに、2130年の灰色の壁に、1980年の青が映った。
「今の……」
「見えた?」
ヒナタも見ていた。未来と過去が、一瞬だけ繋がった。
私の感情が、時空を超えて共鳴した。
「カナミちゃんの力だ」
「違う。二人の力」
手を繋ぐ。震えはもう止まっていた。
■最後のフレーム
太陽が山の端に触れる。あと数分で日没。
私は、もう一度だけ指でフレームを作った。今度は記録のためじゃない。この瞬間を、心に焼き付けるために。
フレームの中で、ヒナタが微笑んでいる。
オレンジ色の光が、彼の輪郭を縁取っている。まるで光でできた絵みたいに美しい。
「ずっと覚えてる」
「うん」
「何度でも思い出す」
「俺も」
「会いたくなったら、空を見る」
「同じ空の下にいるから」
太陽が、ゆっくりと山の向こうに沈んでいく。
残照が、世界を紫色に染める。
やがて、一番星が瞬き始めた。
「帰ろうか」
ヒナタが言った。でも、まだ手は離さない。
「もう少しだけ」
「うん、もう少しだけ」
二人で星を見上げる。
時間は止まらない。でも、この瞬間は永遠だ。
私の中で、ずっと夕陽のまま輝き続ける。
記録はできなかったけど、記憶は消えない。
データより、ずっと美しい記憶。
それが、私たちの夏の証。




