第87話 廃校への道
「みんな、優しいね」
神社から廃校への道を歩きながら、ヒナタが呟いた。
「カナミちゃんのこと、みんな好きだったんだよ」
「そんな……私は、ただの通りすがりで」
「違うよ」
ヒナタが立ち止まった。
「カナミちゃんは特別だ。この町に新しい風を運んできた」
蝉の声が響いている。アブラゼミとミンミンゼミの大合唱。その向こうに、風鈴の音が聞こえる。さっき貰った風鈴じゃない。どこか遠くの家から聞こえる、夏の音。
廃校の錆びた門が見えてきた。
「屋上、行こう」
ヒナタが言った。あの夕陽の特等席へ。
■感情制御の崩壊
屋上に出ると、風が吹き抜けた。遮るものが何もない、広い空。西に傾き始めた太陽が、世界を金色に染め始めている。
胸の奥で、何かが暴れている。
叫びたい。泣きたい。抱きしめたい。このまま時間を止めたい。
「落ち着け」
自分に言い聞かせる。感情抑制訓練を思い出す。深呼吸。数を数える。
1、2、3——
「カナミちゃん」
ヒナタが優しく微笑んだ。夕陽を背にしたその姿が、あまりにも美しくて——
ガラガラと音を立てて、17年間かけて作り上げた防壁が崩れていく。
「カナミ?」
「大丈夫……」
嘘だ。全然大丈夫じゃない。手が震えている。心臓が痛いくらい鼓動している。視界が滲んでいく。
「ううん、大丈夫じゃない」
初めて、本当のことを言った。
「私、もう帰りたくない。ここにいたい。ヒナタ君と一緒にいたい」
涙が溢れて止まらない。みっともない。エージェント失格だ。でも、もうどうでもいい。
ヒナタが、そっと抱きしめてくれた。
「俺も同じだよ」
■記録できない君
震えが少し収まってから、私は両手を持ち上げた。親指と人差し指で、いつもの四角いフレームを作る。
その中に、ヒナタを収める。夕陽に照らされた横顔。風に揺れる髪。優しい瞳。
光のスキャンを起動しようとして——
『エラー。対象を記録できません』
「やっぱり……」
手を下ろす。最初からわかっていた。ヒナタは記録できない。この気持ちも、この時間も、何一つデータにはできない。
「君を記録できない」
「いいよ」
ヒナタが微笑む。
「記録と記憶は違うでしょ?」
その言葉に、はっとする。
「俺のこと、君が覚えててくれたら、それで充分だよ」
覚えてる。忘れるはずがない。この手の温もりも、この声も、この優しさも、全部、全部——
「ヒナタ君……好き」
「俺も好きだよ、カナミ」
夕陽が、二人の影を一つに重ねていた。
■未来への約束
「カナミ、約束して」
ヒナタが真剣な顔で言った。
「君の世界にも、空を作って。本物の青を」
「え?」
「君は未来から来たんでしょ」
驚いて顔を上げると、ヒナタは優しく笑っていた。
「なんとなく、分かってた。君の見てる世界は、ここじゃない」
「いつから……」
「最初から、かな。でも、それでよかった。君は君だから」
ヒナタが空を指差す。
「この空を、未来に連れて行って」
オレンジとピンクのグラデーション。刻一刻と色を変える空。2130年には存在しない、生きている空。
「約束する」
涙を拭いながら頷いた。
「必ず、空を取り戻す」




