第85話 最後の朝
■2130年の独白:
「あの夕陽を、私は記録できなかった。でもそれでよかった。記憶は記録より、ずっと美しいから」
■最後の朝
目が覚めた瞬間、今日が最後の日だと分かっていた。
宿の窓から差し込む朝陽が、畳の目を金色に染めている。蝉はまだ鳴いていない。朝の静けさの中で、遠くから聞こえるのは新聞配達のバイクの音だけ。
起き上がると、枕元に置いた腕時計が6時17分を指していた。転送まで、あと11時間43分。
でも、時間なんて関係ない。ヒナタと過ごせる時間は、もう永遠に「最後」なのだから。
顔を洗いながら、鏡を見た。私の瞳が、いつもと違って見える。淡い青灰色のはずなのに、今朝はもっと深い青に見えた。まるで、1980年の空の色を映しているみたいに。
「おはよう、今日も暑くなりそうね」
宿の女将さんが、いつもと同じように声をかけてくれた。でも、その優しい笑顔が、今日は特別な意味を持っているように感じる。
「おはようございます」
声が震えないように、精一杯の笑顔を返した。
朝食の味噌汁を飲みながら、ふと思った。2130年に帰ったら、もう二度と、この味を感じることはないんだ。大豆の香り、出汁の深み、ネギの辛み。全部、全部、今日で終わり。
■商店街の朝
「カナミちゃん、おはよう!」
商店街に出ると、ヒナタが待っていた。いつもの笑顔。でも、目の奥に寂しさが滲んでいる。
「今日で、帰っちゃうんだってね」
駄菓子屋の婆ちゃんが、私たちに声をかけた。
「東京も暑いでしょう。これ、持ってきな」
小さな風鈴を手渡された。ガラスの風鈴。光を受けてキラキラと輝いている。
「ありがとうございます」
風鈴を受け取ると、チリンと小さな音がした。この音を、ずっと覚えていよう。
商店街を歩くたび、顔見知りになった人たちが声をかけてくれる。
「お嬢ちゃん、気をつけて帰るんだよ」 「また遊びに来なさいね」 「陽太、ちゃんと駅まで送ってやれよ」
みんな、私が普通の旅行者だと思っている。また会えると信じている。でも、私は——
「カナミちゃん?」
ヒナタの声で我に返った。いつの間にか立ち止まっていた。
「ごめん、ちょっと……」
「大丈夫。ゆっくり行こう」
■時計店の老人
田中時計店の前を通りかかった時、店主の老人が手招きした。
「お嬢さん、ちょっと」
薄暗い店内に入ると、カチカチと無数の時計の音が響いている。それぞれ微妙にずれたリズムで時を刻む音が、まるで時間の合唱のようだった。
「これを」
老人が差し出したのは、小さな懐中時計だった。蓋を開けると、針は止まっている。
「壊れてるんですか?」
「いや、これでいいんだ。時計は時間を刻むものだが、時に、時間を止めておくことも必要だ」
意味深な言葉を残して、老人は奥へ引っ込んでしまった。
懐中時計を見つめる。止まった針が指しているのは、5時15分。夕暮れ時。
「不思議な人だよね、あのおじいさん」
ヒナタが苦笑する。
「でも、なんか分かる気がする。止めておきたい時間って、あるよね」




