第83話 稲光の予兆
音楽室を出た時、空はまだ青かった。でも西の山際に、墨を流したような雲が湧き上がっていた。
「急ごう」
ヒナタが空を見上げて言った。湿った風が頬を撫でる。土と草の匂いが急に濃くなった。
廃校の錆びた門を出て、坂道を下り始めた時、最初の稲光が走った。一瞬、世界が白く染まる。
「一、二、三……」
私が数え始めると、ヒナタが不思議そうに振り返った。
「光と音の時間差を測ってるの。物理の授業で——」
ゴロゴロと低い音が腹の底まで響いた。
「七秒。まだ遠い」
「カナミちゃんって、本当に変わってる」
ヒナタが笑った。でも、次の瞬間、大粒の雨が一粒、私の額に落ちた。冷たい。そして——
天が裂けたように、雨が降り始めた。
■軒下への疾走
「こっち!」
ヒナタが私の手を掴んで走り出した。アスファルトに雨粒が弾ける音が、あっという間に轟音に変わる。パチパチ、ザーザー、そして滝のような音。
古い八百屋の軒下に滑り込んだ時、二人ともびしょ濡れだった。
「間に合わなかったね」
ヒナタが髪から滴る水を手で払いながら言った。学ランが肌に張り付いている。私の白いブラウスも、きっと透けているだろう。慌てて腕で胸を隠した。
「大丈夫?」
「うん……」
狭い軒下。肩が触れそうな距離。ヒナタの体温が、濡れた服越しに伝わってくる。37.2度なんて数値じゃない。もっと複雑で、もっと優しい温度。
雨が、トタン屋根を激しく叩いている。まるで千本の指が、不規則なリズムを刻むみたいに。
■雨の匂いと記憶
「夕立って、急に来るんだね」
私の言葉に、ヒナタが頷いた。
「夏の風物詩だよ。一時間もすれば止む」
雨の匂いが立ち上る。アスファルトの熱と水が混ざった、独特の匂い。土が水を吸い込む匂い。そして、どこか懐かしい、生命の匂い。
2130年には、雨は降らない。水は地下のシステムで循環するだけ。この匂いも、この音も、この湿度も——全部、失われたもの。
「寒い?」
ヒナタが心配そうに覗き込む。私は首を振った。寒くない。むしろ、この瞬間を全身で感じていたい。
トタンを叩く雨音。 不規則で、激しくて、でも心地いい。 ザアザア、ピチャピチャ、ポタポタ。 音楽みたいに、リズムが変化していく。
私は目を閉じた。この音を、匂いを、湿度を、記憶に刻むために。




