第58話 深夜の通信
1980年8月13日、午前2時。
眠れない。
川での出来事が、頭から離れない。ヒナタの告白が、心臓を揺らし続けている。
『カナミちゃんが、好きだ』
その言葉が、何度も耳に響く。
布団の中で、身をよじる。暑い。いや、体が熱い。感情が、体温を上げている。
すると——
左腕の量子ビーコンが、かすかに振動した。
本部からの通信。でも、定期連絡の時間じゃない。
起き上がって、ビーコンを確認する。
『自動メッセージ:緊急度3』
嫌な予感がする。
メッセージを開く。
『エージェント・カナミ 感情指数:6.2(危険域) 診断:感情汚染第2段階
自動プロトコル7-3に基づき、予防措置を推奨します。 感情抑制剤を投与します。 受信確認後、30秒で転送開始』
感情抑制剤。
あの、小さな白い錠剤。
施設で、何度も飲まされた薬。
感情を平坦にする薬。
人間を、機械に近づける薬。
拒否したい。
でも、メッセージは自動送信。拒否権はない。
カウントダウンが始まる。
30、29、28……
小さな光が、空中に現れる。
量子転送。
光が形を成していく。
そして——
手のひらに、落ちてきた。
小さな白い錠剤。5粒。
見慣れた形。見慣れた色。
でも、今は違って見える。
これは、毒だ。
私を殺す毒。
いや、違う。
私を「生かさない」薬。
触ると、ひんやりと冷たい。
2130年の温度。22度。
この冷たさが、私の心も冷やしていく。
『服用方法:1日1粒。水で服用。 効果:30分で発現。持続時間:24時間。 副作用:なし』
副作用なし。
嘘だ。
最大の副作用は、人間性の喪失。
楽になる誘惑
でも——
飲めば、楽になる。
それは、知っている。
心臓の不規則な鼓動が、規則正しくなる。
震える手が、止まる。
混乱した思考が、整理される。
そして——
ヒナタへの想いも、消える。
単なるデータになる。
現地の少年。17歳。身長172cm。
それだけの存在になる。
楽だ。
とても、楽。
任務も遂行できる。
正確に、効率的に。
本部も満足する。
私も、優秀なエージェントとして評価される。
全てが、上手くいく。
錠剤を、口元に近づける。
小さい。簡単に飲める。
水もある。
あと少し。
あと少しで——
でも、その時。
ラムネの味が、舌に蘇った。
炭酸の刺激。
プシュッという音。
ビー玉のカランカラン。
ヒナタと飲んだ、あの味。
そして、川の冷たさ。
15.3度の衝撃。
足がしびれて、でも気持ちよくて。
ヒナタの手の温かさ。
水切りを教えてくれた時の、優しさ。
商店街の人々の笑顔。
フクばあちゃんの皺。
タケシの冗談。
夕陽の色。
神社の木の感触。
全部、全部。
この薬を飲んだら、色褪せる。
データになる。
数値になる。
それでいいの?
本当に、それでいいの?
立ち上がる。
窓を開ける。
夜の空気が、入ってくる。
涼しい。虫の声がする。
そして——
川の音が、かすかに聞こえる。
ザーザー。
あの川だ。
今日、ヒナタと行った川。
月明かりで、川面が少し光っているのが見える。
美しい。
この美しさを、失いたくない。
感じる心を、失いたくない。
錠剤を、強く握る。
5粒。
5日分。
これを飲み続ければ、任務終了まで「正常」でいられる。
でも——
それは、本当に正常?
感情を殺すことが、正常?
決めた。
窓から、外に出る。
裸足のまま。
パジャマのまま。
誰かに見られたら、おかしいと思われる。
でも、構わない。
川に向かって、走る。
石が、足の裏に刺さる。
痛い。
でも、この痛みも大切。
生きている証拠。
川に着く。
月光が、水面を銀色に染めている。
昼間とは、違う顔。
でも、同じ川。
ヒナタと来た川。
川岸に立つ。
手を開く。
5粒の白い錠剤。
月光で、真珠のように光る。
「さようなら」
呟いて、川に投げる。
ポチャン、ポチャン、ポチャン。
小さな水音。
錠剤は、すぐに流れていく。
溶けて、消えて、なくなる。
これで、もう戻れない。
感情を制御する術を、自ら捨てた。
「もう、戻れない」
声に出して言う。
「戻りたくない」
本心だ。
2130年の私には、戻りたくない。
感情のない、データだけの私。
効率的で、正確で、でも死んでいる私。
そんな私は、もういらない。
ここにいる私が、本当の私。
ヒナタを好きだと思う私。
ラムネの味に驚く私。
川の冷たさに震える私。
それが、本当の私。
「私は、壊れてもいい」
川に向かって、宣言する。
「人間として、壊れるなら」
風が吹く。
川面が、さざ波立つ。
まるで、川が答えてくれたみたい。
『それでいい』と。
部屋に戻る。
足が、泥だらけ。
でも、心は軽い。
決断したから。
選んだから。
感情を、選んだ。
布団に入る。
まだ、心臓はドキドキしている。
でも、それでいい。
これが、生きているということ。
明日、ヒナタに会える。
どんな顔をすればいいか、分からない。
告白の返事も、できない。
でも、会いたい。
ただ、会いたい。
その気持ちだけで、十分。
目を閉じる。
川の音が、まだ聞こえる。
ザーザー。
子守唄のように、優しい音。
この音に包まれて、眠る。
薬のない、自然な眠り。
感情ある、人間の眠り。
そして、夢を見る。
ヒナタと、川で遊ぶ夢を。




