第5話 最後の朝の前夜(5歳)
【2130年の独白】
記憶の最初の色は青だった。母が指差した空の、最後の青。
それから12年。私は青を探し続けている。割れたビーズの中に、古い切手の中に、褪せた布の中に。でも、どれも母が見せてくれた青とは違う。
あの青は、生きていた。呼吸していた。無限に広がっていた。
今、私の瞳には光スキャナーが埋め込まれ、世界をデータに変換する。でも、本当に見たいものは、データにならない。
母が最後に言った言葉を、今でも覚えている。
「カナミ、忘れないで。感じることを」
シーン1:最後の朝の前夜(5歳)
2118年4月26日、午後11時。
ベッドで寝たふりをしている。でも、リビングから聞こえる両親の声で目が覚めた。
「もう限界よ」
母の声。いつもより低い。
「分かってる。でも、あと少しで——」
父の声が途切れる。紙の音。何かを広げている。
「この設計図通りに作れば、ドームに本物の窓が」
「見つかったら、私たちは——」
「カナミに、本物の空を見せたいんだ」
足音を殺して、ドアの隙間から覗く。
テーブルの上に、青い紙が広がっている。設計図。複雑な数式と図形。そして、たくさんの本。表紙には読めない文字。禁書だ。
母が、小さな音楽プレーヤーを手にしている。イヤホンを片方ずつ、父と分けて聴いている。音楽。この時代には存在しないはずの。
「この曲、覚えてる?」
「初めてのデートの時の」
二人は、音のない踊りを踊る。ゆっくりと、抱き合うように。
「明日の朝、カナミに全部話そう」
「まだ5歳よ」
「でも、もう時間がない。システムが、俺たちの動きを察知してる」
母が泣いている。声を殺して。
「せめて、青い布だけでも渡して」
「母さんの形見か」
「三代に渡る、私たち家族の証」
私は、そっとベッドに戻る。
【最後の朝(5歳)】
2118年4月27日、午前6時42分。
母が私を起こす。まだ、電子ドームには隙間がある。完成まであと3ヶ月。
「カナミ、起きて。見せたいものがあるの」
母の手は温かい。震えている。昨夜、泣いていたから?
父も起きていた。リビングの窓際に立っている。設計図はもうない。きれいに片付けられている。
「お母さん、なあに?」
「しっ」
母が人差し指を唇に当てる。そして、窓を指差す。
東の空が、色を変え始めている。
紺から藍へ。藍から群青へ。そして——
「見て、カナミ。あれが青よ」
太陽が顔を出す。空全体が、青く染まっていく。
雲がある。ゆっくりと流れている。鳥が飛んでいる。V字編隊を組んで、どこか遠くへ。
風が吹いて、カーテンが揺れる。
「きれい?」母が聞く。
「うん、きれい」
「この青を、覚えておいて」
母が、私の手に何かを握らせる。
小さな布切れ。深い青。絹のような手触り。
「これは、私の母から、私へ。そして私から、あなたへ」
「おばあちゃんの?」
「そう。おばあちゃんも、その前のおばあちゃんも、みんな青を愛していた」
父が近づいてくる。私の頭を撫でる。大きな手。いつもより、力強い。
「カナミ、パパとママは、君に自由な世界を残したかった」
ポケットから、小さな本を取り出す。
「これを、隠しておきなさい」
詩集だった。青い表紙。中には、空の詩がたくさん。
「でも、本は——」
「いつか、読める日が来る」
ピンポーン。
チャイムが鳴る。午前6時58分。
父と母が、顔を見合わせる。予想より早い。
「もう来たのか」
母が私を抱きしめる。強く、強く。肋骨が軋むくらいに。
「カナミ、何があっても、感じることを忘れないで。それが、生きるということだから」
ドアが、外から強制的に開かれる。
黒い制服の人たちが入ってくる。10人。いや、もっと。
「反管理社会運動への関与、及び違法物所持の疑いで、お二人を連行します」
父が前に出る。
「待て、娘には——」
「抵抗は無意味です」
父が掴みかかろうとする。でも、電気ショックで倒れる。
「お父さん!」
母が私を押し入れに隠す。
「声を出さないで」
扉の隙間から見える。
母も抵抗する。でも、すぐに取り押さえられる。
「子供も連れて行け」
「5歳です。まだ——」
「規則だ」
私は見つかった。
引きずり出される。
母が、最後にもう一度私を見る。
唇が動く。声は出ない。でも、読める。
『青を、忘れないで』
それが、母を見た最後だった。
3日後、両親は「交通事故」で死んだ。
現場の写真を、後に見た。車は炎上していた。でも、道路に ブレーキ痕はなかった。
【施設での最初の夜(5歳)】
国営養護施設「調和の家」。
白い建物。白い廊下。白い部屋。
ベッドに座る。硬いマットレス。シーツも白い。
父の詩集は没収された。でも、青い布は、下着の中に隠していたから見つからなかった。
「新入りか」
隣のベッドの女の子が聞く。7歳くらい。目が死んでいる。
「……うん」
「親は?」
「死んだ」
「みんなそう」
女の子は天井を見つめたまま言う。
「すぐに慣れるよ。感情なんて、邪魔なだけだから」
「感情が、邪魔?」
「そう教えられる。毎日」
消灯時間。午後8時。
真っ暗な部屋で、布を握りしめる。
母の匂いがする。いや、もう匂いなんてない。でも、する気がする。
隣のベッドから、小さな声。
「……でも、私は覚えてる」
「何を?」
「お母さんの子守歌」
そして、小さく歌い始める。
音程は外れている。声も震えている。でも——
「やめなさい」
監視員の声。部屋に入ってくる。
「歌は禁止です」
女の子は黙る。
でも、その夜、私は夢で聞いた。
母の子守歌を。