第4話 青い物たちの記憶
【青い物たちの記憶】
「30秒」
ベッドマットレスの裏を思い出す。
小さな切れ目。私が12歳の時、爪で少しずつ広げた隠し場所。そこに隠した、私の宝物。
夜中の儀式を思い出す。
消灯時間の2時間後。監視カメラが省エネモードに入る、わずか3分間の隙。布団の中で、息を殺して取り出す。
最初は、割れたガラスビーズ。
指先で転がす。つるつるとした表面。でも、割れた部分は鋭い。一度、指を切った。血が滲んだ。痛みという感覚が、こんなにも鮮明だったことに驚いた。血は赤かった。でも、ビーズに付いた血は、青と混ざって紫に見えた。
舌先で血を舐めた。鉄の味。錠剤では決して感じられない、生きている味。
次に、古い万年筆のインク瓶の破片。
かけらを目に近づける。電子スクリーンのわずかな光を透かすと、深い青が見える。海の底のような、宇宙のような青。縁を指でなぞる。ガラスの冷たさが、指先から腕へ、そして心臓へと伝わっていく。
時々、破片を頬に当てる。ひんやりとした感触。体温で少しずつ温まっていく過程を感じる。これが「温度」というものだと、初めて理解した。
褪せた青い布。
母の服の切れ端だと、私は信じている。鼻を近づけると、かすかに何かの匂いが——いや、きっと想像だ。この世界に匂いは存在しない。でも、布を顔に押し当てると、なぜか涙が出そうになる。
布の繊維を、一本一本指で辿る。ところどころほつれている。糸が飛び出している部分を、舌先で確かめる。ざらざらとした感触。無味無臭のはずなのに、なぜか懐かしい味がする。
古い切手。
空の写真。積乱雲が写っている。指で雲の輪郭をなぞる。平面なのに、立体的に見える。目を細めて、顔を近づけて、遠ざけて。角度を変えると、光の反射で雲が動いているように見える。
切手の縁のギザギザを、一つずつ数える。38個。素数じゃない。でも、美しい数字。人間が作った、不完全な美しさ。
プラスチック片。
元は玩具だったらしい。表面に小さな傷がたくさんある。誰かが遊んだ跡。誰かの子供が、きっと大切にしていた。
片手で握りしめる。手の中で温まっていく。時々、強く握りすぎて、手のひらに跡が残る。その跡を見ながら、これが「圧力」なのだと実感する。
そして——
一番大切な瞬間。全ての青い物を、胸の上に並べる。
仰向けに寝て、お腹の上下で、青い物たちが微かに動く。呼吸と共に、上がって、下がって。まるで生きているみたい。
布団の中は暗い。でも、青は見える。心の目で見える。
この青たちと一緒にいる時だけ、私は「私」になれる。感情指数なんて関係ない。効率なんて関係ない。
ただ、青を感じている。
「20秒」
「20秒」
急に、恐怖が襲ってきた。
もし、帰ってこれなかったら?
もし、前任者のように、青に魅入られてしまったら?
もし、感情を制御できなくなったら?
「10秒」
でも——
もし、本物の空が見れるなら。
もし、風を感じられるなら。
もし、生きているという実感を得られるなら。
それは、リスクを冒す価値があるのではないか?
「5、4、3...」
深呼吸。
最後に、リョウ先輩の言葉を思い出す。
『名前を、覚えるな』
なぜだろう。名前を覚えたら、何が起きるのだろう。
「2、1...」
光に包まれる。
身体が分解される感覚。私という境界が溶けていく。痛みはない。でも、存在が希薄になっていく恐怖。
これが、死ぬということなのかもしれない。
そして、再び生まれるということなのかもしれない。
「転送開始」
眩しい光の中で、私は思った。
——初めて、生きる理由を見つけたのかもしれない、と。
全てが白い光に飲み込まれる。音も、感覚も、意識さえも。
最初に消えたのは、皮膚の感覚。
まるで、体の輪郭が溶けていくような。服と肌の境界が曖昧になり、やがて空気と私の境界も消えていく。
次に、内臓の感覚が消えた。
呼吸をしているのかさえ分からない。心臓が動いているのかも。ただ、意識だけが、白い光の中に浮かんでいる。
そして——奇妙な感覚。
私という存在が、無数の粒子に分解されていく。一つ一つの原子が、バラバラになって、でも、なぜか「私」という意識は保たれている。
量子の海に溶けていく。
時間の概念が歪む。一瞬が永遠に感じられ、同時に永遠が一瞬に圧縮される。
過去と未来が、混ざり合う。
母の声が聞こえる。「見て、カナミ。あれが青よ」
誰かの笑い声が聞こえる。知らない声。でも、懐かしい。
風鈴の音。川のせせらぎ。花火の音。
まだ知らないはずの音たち。
これは、時間の流れを遡っているから? それとも——
突然、引っ張られる感覚。
強烈な重力。いや、違う。これは——
再構築が始まった。
最初に形成されたのは、骨。
カルシウムの結晶が、設計図通りに配列されていく。背骨から肋骨、頭蓋骨、指の小さな骨まで。
次に、内臓。
心臓が形を成し、最初の鼓動を打つ。ドクン。生まれたての命の音。肺が膨らみ、血管が枝分かれしていく。
筋肉が、骨を包んでいく。
神経が、全身に網を張る。電気信号が走る。痛みにも似た、鋭い感覚。
皮膚が、最後に形成される。
一番外側から、私という境界が定義されていく。
そして——
熱い。
最初に感じたのは、圧倒的な熱さ。
全身の毛穴が開く。汗が、一気に噴き出す。肌がべたつく。不快で、でも、生きている証拠。
風が、頬を撫でた。
本物の風。不規則で、予測不能で、時に強く、時に優しい。髪が乱れる。前髪が目に入る。
匂いが、鼻腔を襲った。
土の匂い。湿った、重い匂い。草いきれ。青臭くて、むせ返るような。遠くから、何かが焦げる匂い。そして、自分の汗の匂い。
音が、鼓膜を震わせた。
蝉の声。ミンミンゼミ、アブラゼミ、ツクツクボウシ。それぞれ違う周波数で鳴いている。風で葉が擦れる音。遠くで犬が吠える声。子供の笑い声。
私は、膝をついた。
情報が多すぎる。処理しきれない。
地面の感触。小石が膝に食い込む。痛い。土が手のひらにつく。ざらざらとして、少し湿っている。
顔を上げた。
そこには——
青があった。
どこまでも続く、本物の青が。
深く、広く、高い。
雲が浮かんでいる。真っ白な積雲。ゆっくりと形を変えながら、風に流されていく。
太陽が眩しい。直視できない。目を細めても、光が瞼を突き抜けてくる。
影ができている。私の影。くっきりとした、黒い影。
これが、1980年の夏。
生きている世界。
「あ……」
声が漏れた。
自分の声に驚く。2130年では、こんなふうに感情が漏れることはない。
これが、空。
データでは表現できない、生きている青。
記録しなければ。私は震える手を持ち上げ、親指と人差し指で四角いフレームを作ろうとした。
でも、指が震えて、フレームが作れない。
なぜ? 訓練では完璧にできたのに。
雲が流れている。風に乗って、ゆっくりと形を変えながら。見ているうちに、馬の形になり、船になり、やがて散っていく。
私は立ち上がろうとした。足が震えている。
木造の建物が見える。古い校舎のようだ。ペンキが剥がれ、窓ガラスにひびが入っている。完全ではない。不完全。でも、なぜか美しい。
朝顔が、フェンスに絡まっている。青紫の花。風で揺れている。一つとして同じ形の花はない。
アスファルトから、陽炎が立ち上っている。ゆらゆらと、空気が歪んでいる。熱の視覚化。こんなの、見たことがない。
セミの抜け殻が、木の幹にしがみついている。透明で、壊れそうで、でも形を保っている。
私は、その全てを記録しようとした。でも、スキャナーが追いつかない。いや、違う。
記録したくない、と心のどこかで思っている。
これは、データにしたくない。このまま、感じていたい。
「何してるの?」
振り向くと、少年が立っていた。
学ラン姿。第二ボタンが少し緩んでいる。汗で前髪が額に張り付いている。日焼けした肌。首筋を、汗が一筋流れていく。
そして、まっすぐにこちらを見つめる瞳。
茶色い瞳。でも、ただの茶色じゃない。光の加減で、金色にも見える。優しくて、好奇心に満ちていて、生きている瞳。
私は、その瞬間に分かってしまった。
リョウ先輩の警告の意味を。
名前を知ったら、きっと——
忘れられなくなる。
「大丈夫? 具合悪い?」
少年が一歩近づく。土を踏む音。影が重なる。
彼から、太陽と汗と、少し甘い匂いがした。
「あの……私……」
言葉が出ない。訓練では、どんな状況でも対応できるはずだった。でも、彼の瞳を見ていると、用意していた嘘が全て消えてしまう。
「転校生? でも夏休みだよね」
少年が首を傾げる。その仕草が、なぜか愛おしい。
これが、始まり。
私の、本当の人生の始まり。
17歳の夏の、始まり。