第2話 リョウ先輩の懸念
【リョウ先輩の懸念】
「カナミ」
食堂を出ると、リョウ先輩が待っていた。19歳。最年少の正式エージェント。軽薄そうな笑みを浮かべているが、目は笑っていない。
彼も、養護施設の出身だ。でも、私より適応が良かった。感情指数は常に0.5以下。優等生。
「今日だね、初任務」
「はい」
「17歳には重すぎる任務だと、俺は思うけど」
リョウ先輩の声に、わずかな感情の揺れ。規定値を超えない程度の、心配。
「大丈夫です。訓練は全て優秀な成績で——」
「訓練と実地は違う」
先輩は廊下の先を見つめる。その横顔に、一瞬、苦痛の影が走る。
「過去は蜜の味がする。でも、食べ過ぎると帰ってこれなくなる」
「先輩も、経験が?」
リョウ先輩は答えない。代わりに、小さく呟く。
「あいつも、17歳だった」
あいつ。誰のことだろう。聞く前に、先輩は歩き始めた。私は後を追う。
廊下の途中で、先輩が立ち止まる。
「カナミ、感情抑制剤は持ってる?」
「規定通り、5錠」
「使うなよ」
意外な言葉に、私は先輩を見上げる。
「でも、規則では——」
「感情を完全に消したら、何も記録できない。風景も、ただのデータになる」
先輩の瞳に、複雑な色が宿る。
「適度な感情は、記録を豊かにする。でも、深入りしすぎると——」
言葉が途切れる。先輩は首を振って、また歩き始めた。
【青い絵との遭遇】
第3課への通路。普段は通らない区画を抜ける。ここは、古い管理棟。まだ改装が終わっていない。
壁に、わずかな汚れがある。天井の照明も、一つだけ明滅している。この不完全さが、なぜか心地良い。
「あれは......」
リョウ先輩が立ち止まる。前方の部屋のドアが、わずかに開いている。規定違反だ。
扉の表示プレート。『Y-3314 ユキ』
「ユキ先輩の部屋......」
前任者。22歳で任務失敗。1960年代に派遣され、帰還後に感情崩壊。現在は隔離病棟。
「見ちゃダメだ」
でも、遅かった。
ドアの隙間から、青が漏れていた。
それは、ただの青じゃなかった。生きている青。呼吸する青。
壁一面に描かれた空。何層にも塗り重ねられた青。群青、藍、空色、水色、紺碧——データでは表現できない、無限のグラデーション。絵の具が盛り上がり、まるで雲が浮き出ているよう。
筆の跡が、風の動きを表している。かすれた部分が、雲の切れ間。濃淡が、空の深さ。
そして、小さく描かれた人影。手をつないでいる、二つのシルエット。片方は女性。もう一人は——
「ユキ先輩が、恋をしたんだ」
リョウ先輩の声が、震えている。
「1963年の夏。彼女は高校生の少年と出会った。名前は——記録にはない。彼女が、データから消したから」
私は青に見入っている。この青は、ただの色じゃない。感情が、記憶が、想いが、全て込められている。
「彼女は帰還後、この絵を描き続けた。食事も取らず、睡眠も取らず。ただ、青を塗り重ねた」
「今は?」
「隔離病棟で、まだ描いてる。窓のない部屋で、記憶の中の空を」
リョウ先輩が、私の肩を掴む。
「カナミ、行くよ」
でも、私の目は青から離れない。
これが、空。
前任者が、命を賭けて持ち帰ったもの。
ふと、絵の隅に文字を見つけた。震える字で書かれた一文。
『あなたに会いたい』
胸が、締め付けられる。感情指数が上昇する。1.2、1.5、1.8——
「カナミ!」
リョウ先輩が、強引に私を引っ張る。ドアから離れる。青が、視界から消える。
でも、網膜に焼き付いた青は、消えない。