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夏を記す瞳に君のかけら  作者: 大西さん
序章:灰色の空の下で
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第1話 無音の目覚め

【2130年の独白】


私たちは空を知らない。データとしては知っている。大気と宇宙の境界。でも『青』という感覚は、知らない。


母が死ぬ前、5歳の私に指差して見せた最後の色。それが青だった。今はもう、電子ドームの向こうに何があるのか、誰も気にしない。


でも私は覚えている。あの日の母の指先と、その向こうにあった何か。それを、青と呼ぶのだと。


【無音の目覚め】


振動。


枕の下で、無音のアラームが震えている。6時00分00秒。誤差は許されない。


私は目を開ける。天井は白。壁も白。床も白。影ができないよう計算された照明が、部屋を均一に照らしている。室温22度。湿度40%。昨日と同じ。明日も同じ。


ベッドから立ち上がる。足音は吸音材に吸収される。自分が歩いているのか、浮いているのか、区別がつかない。この感覚に慣れるまで、施設では3年かかった。今では、音のない世界が当たり前。


でも時々、夢を見る。風の音。雨の音。誰かの笑い声。目覚めると、それらは全て幻だったと気づく。この世界に、そんな音は存在しない。


洗面台の前に立つ。鏡に映る17歳の顔。黒髪。規定通りのセミロング。でも、よく見ると毛先にわずかな癖がある。これが私の、唯一の個性。瞳は淡い青灰色。3年前、光スキャナーを埋め込んでから、この色になった。


手術の日を覚えている。


「まだ若すぎる」医師が言った。「脳が成長期です。リスクが——」


でも、上層部の判断は絶対だった。私の特殊な才能。完全記憶能力。それを活かすには、早期の手術が必要だと。


歯を磨く。無味無臭の練り歯磨き。うがいの水も、適温に調整されている。熱くも冷たくもない。ただ、液体。


窓の外を見る。いや、窓だと思い込んでいる電子スクリーンを見る。今日の映像は、穏やかな森林。でも風は吹かない。葉は揺れない。完璧に静止した、偽物の景色。


【施設の記憶】


着替えながら、昔を思い出す。


5歳から15歳まで過ごした、国営養護施設「調和の家」。感情を持つことは非効率だと教えられた。笑うな。泣くな。怒るな。喜ぶな。


7歳の時の訓練を覚えている。


「これから、悲しい映像を見せます」


教官が言った。スクリーンに、昔の戦争の映像が流れる。破壊される街。泣き叫ぶ人々。


「感情指数を0に保ちなさい」


でも、私の指数は2.3まで上昇した。隣の子は0.5。私は劣等生だった。


罰として、感情抑制剤を投与された。小さな白い錠剤。飲むと、心が凪いだ水面のように静かになる。悲しくも、嬉しくもない。ただ、存在している。


でも、薬が切れると、また感情が戻ってきた。


10歳のある日、清掃作業中に見つけた。割れたガラスビーズ。青く光る、小さな欠片。


それを見た瞬間、母の記憶が蘇った。


「見て、カナミ。あれが青よ」


私は震える手で、ビーズを拾った。ポケットに忍ばせた。規則違反。でも、捨てられなかった。


それから、青い物を集め始めた。


【味のない朝食】


食堂へ向かう廊下は、完全な直線。継ぎ目のない白い壁が、どこまでも続く。天井の照明は等間隔。3.2メートルごと。誤差は1センチもない。


歩く人々は右側通行。歩行速度、毎分96歩。誰も立ち止まらない。誰も振り返らない。


朝の通勤時間。第7居住区画から、約800人の職員が同時に移動する。足音は全て吸収される。呼吸音さえ聞こえない。まるで、幽霊の行進。


「おはようございます」


すれ違う職員が言う。感情のない声。私も同じトーンで返す。


「おはようございます」


挨拶は義務。でも、相手の顔を見る必要はない。名前を覚える必要もない。効率的な社会維持のための、音の交換。


エレベーターに乗る。定員24名。現在23名。あと1名で最適化。扉が閉まる寸前、若い男性職員が駆け込む。


走ること。それは非効率の象徴。周囲の視線が、一瞬だけ彼に向けられる。感情はない。ただ、異常を認識しただけ。


食堂のテーブルに、白い錠剤が3粒。完全栄養食。朝食用の配合。たんぱく質12グラム、脂質8グラム、炭水化物25グラム。ビタミン、ミネラル、完璧なバランス。


味はない。正確には、味がないという味がする。舌の上で溶ける感覚。喉を通る感覚。それだけが、食事の証明。


水で流し込む。これも無味無臭。適温。体温と同じ36.5度。


隣の席の女性職員が、同じ動作で錠剤を飲む。咀嚼音もない。誰も話さない。ただ、栄養を摂取する時間。


でも、私は覚えている。5歳までの記憶。母が作ってくれた卵焼きの、ほんのりとした甘さ。父が買ってきたパンの、小麦の香り。


その記憶も、やがて薄れていくのだろうか。

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