6. 仙台、そして少し南へ
座ってみると、思いのほか体が沈み込んだ。いかにも高級ホテルのラウンジって感じがする椅子。落ち着くような、落ち着かないような。
正面にはヌイが腰掛けている。彼の視線はすでに窓の外に注がれていた。どうやら彼の求める見晴らしの良さは足りているようだ。わたしは安堵してメニューを手に取った。
なぜわたしたちがここにいるのかというと、仙台の駅に降り立ってヌイが再び「見晴らしのいいところに行きたい」と言い出したからだ。
わたしはクレイドの仙台支社に行くことをまず思いついたが(ビルの十八階のフロアに入居しているので見晴らしには問題がないはず)、さすがに休日の事情のよくわからない支社に潜り込むのは気が引けた。その一方で、以前その仙台支社に出張に来たときに宿泊したホテルが高層のかなり見晴らしのいい建物にあったことを思い出していた。
それでこの場所にやってきたってわけ。ちょうどホテルのフロントのあるフロアにラウンジがあったので、そこでお茶でも飲みながらヌイに下界を見て貰えばよかろうと。
ちなみに自腹では決して泊まろうはずのない高級なホテルである。ラウンジの飲み物メニューの値段を見てちょっと気が遠くなった。
ウェイターが注文を聞きにきたので、わたしはダージリンを頼んだ。ヌイはメニューを見ていなかったけど、ホットコーヒーをオーダーした。
気が抜けたのか、わたしは眠気を覚えた。昨晩はあんまりちゃんと寝れてない気がしてたし、新幹線でも妙に揺れが気になってしまって寝れなかった。このラウンジの椅子はホールド感が絶妙なので安心感があったし、さっき車内で食べた弁当のおかげで腹も満ちている。
ヌイの表情をうかがった。本社ではわたしは彼の背中側にいたので、どんな顔で彼が下界を見ていたのかわからなかったが、今度は正面だ。はたしてなにを観察しているのだろう――。
その口元にかすかに笑みが浮かんでいるようにも見えた。アルカイックスマイルってやつか。目が離せなくなる。幻惑されるというか。
眠気にわたしは目を開けていられなくなる。
ヌイって……、何歳なんだろ。パッと見、二十歳そこそこくらいな感じだけど、そのわりにスゴい落ち着きがあるから、わからないな……。
テーブルに食器の置かれた気配でわたしは目を開けた。一瞬、眠りに落ちていたようだ。なにか夢を見ていた気もするが、目を開けたと同時に内容を忘れてしまった。
テーブルに置かれたポットに手を伸ばし、カップに紅茶を注いだ。
みるとヌイはすでにコーヒーカップを口元に傾けている。もう窓の向こうを見ていなかった。
「悠香はこのホテルに泊まったことがあるんだね」
唐突にヌイが言った。わたしは彼の口から自分の名が呼ばれた(初めてだと思う)ことに少しドギマギしたが、それを隠して応えた。
「うん、仕事で仙台に来たときにね、何度か。近くに支社があるの。……でも、なんでわかったの?」
彼はもう一度カップを傾け、それからそれをテーブルに置いた。
「さっき君が少しウトウトとしたときに、この場所と君の間に馴染みのようなものがあるのを感じた」
「へえ……」
正直に言うとわたし自身はこのホテルが高級すぎてあんまり落ち着くことができないのだけれど。会社の指定なのでここに宿泊せざるを得ないというだけで。
「それは霊感のようなものなの?」
その問いにヌイは口の端だけで笑った。
「そうだな、君のボキャブラリーで言えばそれに近いだろう」
「ふーん」
「別に特別なものじゃない。君らだって感じているはずのものだ。ただ君らは感覚に余計なフィルターがたくさん掛かっているから受けとめられてないだけで」
「余計なフィルター、か……。なんなの、それは」
「いろいろあるだろ。社会性のフィルターとか、未来に対する期待とか恐怖だとか、それこそ人間の本能にまつわるものとか。でも一番大きなものは、主客に関するものだろう、〈個別人〉の場合は」
「シュキャク?」
「主体と客体と君らが呼んでいるヤツ。わかりにくければ主観と客観と考えてもいい。そうだな……、わかりやすく言おう。いま、悠香とオレがこうして話をしている。君はオレの話していることをオレという客体から発信された情報として受け止め、それを君という主体が解釈し、そこに生じた疑問を自分という主体から出てきたものと考えて、オレに投げ返す。ここまでわかるな?」
「うん……。あなたがごく当たり前のことを難しく言ってるだけってことはわかる」
「今の話を当たり前と考えるのは〈個別人〉だけだ。今の話では『場』というものがまったく無視されている。それに主体と客体というものをあまりに短絡的に区別している。ここでオレが話している内容は常にこの場からの影響を受けているし、それと同時に、場に影響を与えてもいる。『場』には二重性があって、ひとつにはこの会話に参加している悠香とオレ――そこにはオレたちふたりが出会ってから今に至るまでのすべての経緯が織り込まれている。で、もうひとつはこの場そのものが持つもの――この場所で過去に起きたあらゆる出来事の残り香とでもいうかな、そういうものの影響を受けている」
「んー、だとしても主体と客体の区別そのものは間違いようがないんじゃない?」
「そもそも主体と客体を明確に分離すること自体が間違っている。オレが君に向かって話をするとき、言葉を発するオレと、話しかけられる悠香、それからそれが起きる場というものは渾然一体となっている。話す側が主体で、話しかけられる側が客体、という区別では世界を正しく認識できない」
んー、とわたしは唸るしかなかった。ヌイの言ってることは正直わけがわからなかった。
彼は続けた。
「逆に聞きたいのだが、言葉を発する相手を客体として認識するのであれば、もしSFドラマに出てくるようなテレパシーを使って誰かが君の脳に直接語りかけてきたら、それが誰からの情報だということを君はどうやって判別するのか」
「は? そんな経験したことないからわからないに決まってるでしょ」
ヌイはクッと笑った。
「つまりそういうことだよ。誰かが君にテレパシーを送ってきても、君はそれに気づかない。それは突然勝手に自分の頭に浮かんだ情報であると受け止める。つまりその情報の主体は自分自身であると判断してしまう。それが誤った主客にまつわるフィルター」
「ちょっと待って。じゃあ、ヌイはどうなのよ。誰かが送ってきたテレパシーが誰からのものだってわかるわけ?」
「だから、オレはそれを判断しないんだ、って。主体と客体の区別なんか意味はないんだ。まぁ、とはいえ、わかるときはあるよ。そもそも自分の中に突如として考えが浮かんできたらそれは誰かから送られてきたものだとわかるし、その思考のクセみたいなものからその送り主に見当がつくことはある」
「ふーん……」
わたしは自分のカップに手を伸ばした。ヌイの話はわたしには理解不能なものということにしようと考えた。紅茶はいい具合にぬるくなっていた。ヌイも再びカップを取り上げた。その表情はリラックスしたものに見えた。わたしは口を開く。さっき抱えていた疑問を思い出していた。
「ヌイ」
彼はわたしの目を見返した。
「訊いてもいい?」
「年齢は忘れた。もう数えていない」
んっ、とわたしは言葉に詰まった。わたしの質問の気配を感じた、ってヤツか。
「質問する前に答えを言うの、やめてくれる?」わたしは口をとがらした。「調子が狂うじゃない」
ヌイはハハッと笑った。そしてカップを傾けた。
年齢については答える気がないということだろう。わたしはそう解釈した。
話が途切れた。わたしは窓の外を見る。なんてことはないありふれた地方都市の風景。
少ししてヌイが口を開いた。
「オレたちは少し行き過ぎたようだ。駅に戻って電車に乗ろう」
わたしたちは仙台駅に戻ってきた。券売機の前で料金図を眺めながらわたしは尋ねる。
「どこまで戻るの?」
それにはすぐ答えず、ヌイは切符を買った。二枚。それをわたしに差し出しながらこう答える。
「降りるときになればわかる」
わたしは切符を見た。初乗り運賃の金額だった。降りるときに精算するつもりなのだろう。
「少し急ごう」
ヌイはなぜだか上のほうを見上げながらそう言った。わたしは彼の視線の先を追ったが、駅舎の天井が見えただけだった。
やや早歩きのヌイのあとについて歩いた。ホームの階段を降りている途中で発車のベルが鳴った。そのままわたしたちがそこに停まっていた電車に飛び乗ると、ドアが閉まった。乗り込みながらわたしは、この電車で合ってるのかな、と疑問に思っていた。ヌイには電車の行き先を確認している様子がなかった。もしかしたらヌイはこの駅の電車事情に詳しいのだろうか、どのホームからどこ行きの電車が発車するとかの……。
まぁ、わたしとしてはヌイについていく以外にないのだが。
電車は動き出した。
車内はさほど混んではおらず、座ることもできそうだったが、ヌイはドアの窓の前に立ち、外の風景を眺めた。わたしもその隣に立って、ドアに寄りかかった。
彼の横顔を眺める形となった。
さっきまでと違って、そこには真剣な感じが見られた。東京駅で「少し集中させてくれ」と言ったときと似た表情。話しかけないでおこう――わたしはそう思った。
しかたがないのでわたしも窓の外に目を向けた。
南のほうへと電車は市街地を進んだ。ごく普通の街並み。それがすぐに田園風景に変わる。しばらく行って次の駅に到着。乗客が降りていく。乗ってくる客は少ない。
三駅ほどそれを繰り返したとき、乗客の半分以上はすでに降り、車内には空席が目立つようになった。
「座ろう」
ヌイが言って、近くの空いていた座席のひとつに腰掛けた。わたしはその隣に座った。
彼はどことなく落ち着かない様子だった。
電車は再び加速。窓の外には田んぼが広がった。
どこまで乗るのかな……、わたしはそんなことを思っていた。
だが、しばらく快調に走っていた電車が、突然、減速した。
〈急ブレーキにご注意ください〉と自動音声のアナウンスが告げたが、ぼうっとしていたわたしは急ブレーキのGによって完全に体を持っていかれた。電車全体が軋むような不快なブレーキ音が車内に響きわたる。
ヌイは何事もないかのようにわたしの体を支えた。隣の彼にすっかり寄りかかってしまう体勢になってしまったことを認識しつつも、Gの強さにわたしはなすすべもなかった。
ようやく電車が完全に停止し、今度は反動でわたしの体はヌイから飛び退くように離れた。
「ごめん」
そう口にしつつ、わたしは赤面していることを自覚した。
シューッという音のあと、車内は不気味なほど静まり返った。それから車掌のアナウンス。
〈危険を知らせる信号を受信したため電車は緊急停止しました。繰り返します――〉
ヌイは体をひねり、窓を開けた。そこから少し顔を出すようにして前のほうを見た。
わたしもなんとなくつられて、首をそらして窓の外を見る。特に変わったものは認められない。ありふれた市街地の光景。
ヌイは体を戻した。わたしは訊いてみる。
「なんか見えた?」
「いいや」
車内は完全に沈黙が支配している。まばらにいる乗客もなにも喋らない。
一分ほどもその静寂が続いたあと、再びアナウンス。
〈職員が現地を確認しております。お急ぎのところ申し訳ございませんが、少々お待ちください〉
そのアナウンスが終わりきらないうちに突然ヌイは立ち上がった。
「行こう」
へ? 脳内には疑問符が浮上するが、とりあえずわたしも立ち上がった。でもこの停止した電車のなかでどこへ行くと?
ヌイはゆっくりと車内を前方へと移動し始めた。きょろきょろと左右を見ながら。なにを探しているのだろうか。わたしも彼と同じように窓の外に目を向けてみるが、それがなんなのかまったく見当もつかない。
車両をいくつか移動。
ひとつのドアの前に来て、ようやくヌイは立ち止まった。その視線は窓の外に注がれている。わたしはヌイの隣に立って、彼の見ている光景に目を向けた。
それは、ごくありふれた線路沿いの風景だ。周囲は住宅街で、車がすれ違うのはちょっときびしい程度の幅の道路を挟んで向こう側にはありふれた感じの住宅が並んでいる。道路と線路との間は1.5メートルくらいの高さの金網のフェンスで区切られていた。
わたしはヌイの横顔を見た。彼の視線は、ちょうどそのフェンスのあたりに注がれていた。
視線を窓の外に戻すと、目の前のそのフェンスには途中で扉状に開閉できる部分があるのがわかった。おそらく線路脇にある装置のメンテナンスか何かのためにそこから職員が出入りするようになっているのだろう。そして、通常はきっちりと閉じてあるはずのその扉が、なぜか、少しだけ開いていた。
「降りよう」
ヌイが言った。わたしは再度、へ? となる。
彼はぐるりとドアの周囲を見、それからドア脇にある小さなフタのようなものを開いた。
「え、どうするの?」
思わずそう口にしたわたしだが、彼がなにをしようとしているのかはもうわかっていた――手動で電車のドアを開けるつもりなのだ。
ヌイはフタのなかにあった非常用のドアコックを操作すると、目の前のドアの左右の合わさっているゴム部分に両手の指先を少し突っ込むようにし、体重をかけるようにしてドアを横にスライドして開けた。
そして彼は地面に飛び降りた。わたしは困惑の表情でそれを眺めていた。ヌイはその場で振り返り、わたしに向け手を差し出した。
他にどうしようもない。わたしは少ししゃがむようにして彼の手を取った。そして、小さくジャンプ。線路横の砂利の地面に下り立つ。他の乗客らがどんな目でわたしたちを見ているかが気になったが、怖くて振り返ることができなかった。
「行こう」
ヌイはそう言い、わたしの手を引いてすぐ目の前にある少し開いていたフェンスの扉から道路に出た。わたしは少しよろよろとなってそれについて行く。
線路に並行している道路へ出たヌイはわたしの手を離し、左右を確かめると、電車が走ってきたほう、つまり北へと道を戻り始めた。いつもより少し早足である。わたしはまだドキドキしていた。勝手に電車のドアを開けて降りるなどということは当然、禁止されているはず。息を整えつつ彼を追う。線路上に停まっている電車の車両内を車掌らしき姿の人が走っているのが横目に見えた。
スタスタと歩くヌイを見ながら、わたしは疑問に思う。彼はなんでフェンスが扉になっているところを探したのだろうか。たいした高さでもないこんな金網のフェンスなど小学生でも乗り越えられるだろう。わざわざ通れるところを探す必要などあったのか。
「ねえ、ヌイ」
彼は顔だけをわたしに向けた。少しその足が緩まる。
「なんでわざわざフェンスが通れるようになってるところを探したの? 別にこんなフェンス、簡単に乗り越えられるじゃない」
彼は口の端だけで笑った。
「君は面白い考え方をするね」
どこが? とわたしは思う。ごく普通の疑問でしょ、と言いたかったが無駄な問答になりそうなので黙って彼の言葉の続きを待った。
「オレたちは今どこに向かっているんだ?」
ヌイはそう訊いてきた。
「どこって……、わたしが訊きたいわ。〈道行〉さんに会いに行くんでしょ」
「そうだ。普段ならオレたちは必要なときに自然に会うことができる。それはなぜかというとお互いが会おうとしていれば世界が行き先を示してくれるからだ。そのサインに従って移動するだけでいい。今は通常とは異なる局面にいるからそれだけで確実に会えるとは言えないが、それでも世界はサポートしてくれる。なぜならオレたちは世界の一部だから」
またわけのわからないことを言い出した……とわたしは思うけど、できるだけ彼の言葉を理解すべく努力しようと考えて黙っていた。
「オレたちはサインに従って電車に乗った。だがその時点では、どこで降りればいいかは明示されていなかった。当然、しかるべきところで次のサインが出るものと考え、オレはそれを待っていた。そんなときに電車が緊急停止した。これは当然、なにかしらのサインであると受け止めるべきだ。そこでオレはそれを探した。そして見つけた、開いている扉があるのを。間違いない。ここで降りろというサインだ」
「ふーん、そんなことを考えてるんだ」
「考えてるわけじゃない。今の説明は、オレたちが無意識のうちに行動している原理を君にわかるように言語化したものだ。別にこういうことを意識しているわけじゃない」
「なるほど……。でもさ、電車の緊急停止は自分とはまったく関係のない偶然に起きただけのものだった、ってこともあるんじゃないの」
「偶然などというものはない。世界は精密機械よりも緻密だ。もしそれがデタラメのように見えるのだったら、それは見る側のほうに問題がある」
「んー」
わたしは唸ったが、なにも言い返せなかった。
そう話しているうちにわたしたちは線路を跨ぐ形にそびえている陸橋に突き当たっていた。その脇に歩行者のための階段があった。ヌイはそこに向かった。
わたしたちは階段を登って陸橋に上がった。上は自動車道になっていて、そこから線路を見下ろすことができた。少し先のほうでわたしたちの乗っていた電車が未だ停止しているのが見えた。
一帯には高い建物がほとんど存在しないので、陸橋からは周囲を一望することができた。どこまでもローカルな市街地が続いている。山の姿も見える。さほど遠くはない。頑張れば歩いてでもいけそうな距離だ。
橋の真ん中あたりまで歩いてきたところでヌイは立ち止まった。
「ここで待つ」
空を見ながら彼は言った。わたしも見上げてみたけども、青い空に雲が浮かんでいるだけだった。
次のサインってヤツを待つのか――そう思いながら、わたしは景色を眺めた。いったいここはどこなんだよ。仙台からそう離れてない場所としかわからない。
のどかな風景。
離れたところからガタガタと音がして、わたしたちの乗ってきた電車がゆっくりと動き出した。わたしはそれを目で追った。なにごともなかったかのように遠ざかっていく。
ほわわ、とわたしはあくびをした。
日光を遮るものがないので暑い。日焼け止めを持ってこなかったのは失敗だった。どこか近くにコンビニないかな――などと考えてしまう。生死がかかっている課題に取り組んでいるというテンションをずっとキープしてはいられない。
ドン、という音が遠くから聴こえた。今日はこの近隣で花火大会でもあるのかな、と思った。わたしの地元では花火大会の日には朝とか昼に空砲?を鳴らしてそれを知らす慣習である。それを連想させる音だった。
ヌイが手をひさしのようにかざして遠くを見ていた。
黙って彼は指さした。わたしはその方角を見やる。
そこからゆっくりと黒煙が立ち上った。そう、それはまるでキノコ雲のような形となって、それから次第に風に流されていった。