5. クレイド本社ビルから東京駅へ
「まずは見晴らしのいい場所に行く必要がある」
そうヌイは言った。
道行さんからの合図ってやつを確認するためかな――そうわたしは思った。
「見晴らしって、どのくらいのところがいいの? 高いところなら高いほどいい?」
「いちがいには言えないな」
見晴らしのいい場所には心当たりがあったけども、そこはもしかしたら見晴らしが良すぎるかもしれないと思ったのでわたしは訊いてみたのだった。
「すごく見晴らしのいい場所を知ってるんだけど……」
「ならばそこに行ってみよう」
ヌイは即答した。
わたしたちは駅まで行って電車に乗った。
向かう先はなんてことない、クレイドの本社ビルである。わたしの勤務先。今日は土曜だから、ほとんど誰も出社はしていないだろう。
スマホを取り出し、会社の社内ネットワークに接続した――わたしは自分の社員証でビルに入れるけど、外部の人間は社員からの招待がなければ入ることができないことになっている。事前に登録しておけば現地での手間が省けるわけ――来客システムの登録画面を開いた。そこで手が止まる。
「ヌイって……、苗字はなんていうの? ビルに入るのに必要なんだけど」
「苗字はない」
へ? んー、本当の名前は言いたくないということかな……。
「んなわけないでしょ。まぁ、別に本名じゃなくてもいいよ、この際。入館するのに必要なだけだから。なんかないの? 入るときに自分で入館症にサインしないとならないから」
「ある。クスノキヨウジ」
「本名?」
「いや、便宜的に使っている名前だ。こういうときのために」
「ふうん」
わたしはどんな漢字なのかを聞いてその名をシステムに入力した。
スマホをしまい、ひとつ息をつく。大丈夫だとは思うけど知り合いにあったら嫌だなぁと、そればかりを考えていた。
ヌイと同じようにわたしもバックパックを背負っている。下着と着替えを数着――夏でよかった、と思った――それから身の回り用品を詰め込んだ。必然的に下はジーンズとなる。普段はあまり履かない。なのでハタ目にはハイキングに向かうカップルのように見えるかもしれない。
そのような気楽なものであったらどんなによかったか。
ヌイがそばについているとは言え、わたしの身は危険にさらされているのだ。たとえばこの電車が脱線したら? あるいは車内で刃物を持った暴漢が突然襲ってきたら? そんな場合でもヌイはわたしを守り切れるのだろうか?
いや、そんなことをわたしが心配したところでどうしようもないのだ。わたしにできることはヌイのそばを離れないことだけ。あとはせいぜいヌイにできるだけ手間をかけさせないことくらいか。
電車を降り、ホームの階段を上り、改札を出る。地下の通路から直通の建物へ。普段の通勤と同じ行程なのに、いつもとはまったく異なる心持ちであることが不思議な感じ。
本社ビルに到着。土曜日なので通用門から入らないとならない。警備員のいる受付でヌイのためのゲスト入館手続きをしたが問題なく通過――スーツじゃなく普段着だからと怪しまれるようなことがないことはわかっている。マーケの外部イベントのための機材の搬出があるときなんかは普段からこんなラフな格好で出入りしているから。
エレベータで最上階に向かった。
そのフロアにあるのはさまざまなタイプの会議室だけだ。上級顧客とかエクゼクティブ向けのものなので内装も高級感漂うものになっている。ここでは通路から周囲の風景を見ることができる。都心だが外苑のすぐ近くでもあるし、周囲のビルよりも頭ひとつかふたつくらい高い位置になるので、見晴らしの良さという意味では申し分ないだろう。建物の構造上、東側を正面に見ることはできないが、顔を窓に近づければほぼ360度の視界は確保できる。
足を踏み入れたフロアはひっそりとしていた。予想のとおり、誰もいないようである。
わたしがなにも説明しないうちからヌイはどんどんと通路を歩いていった。壁一面となっている窓から外を確かめていく。そのうしろをついて歩きながらわたしは、合図ってどんなものなんだろう、と考えていた。もちろんまったくわからない。この場から確認したいということなら、狼煙とか花火くらいしか思いつかない。
花火といえば、このフロアは近隣の花火大会が開催されるときに社員らが大量に集まってくるのが社内的な風物詩になっている。わたしも一度だけその場に参加したことがあるのだが、結構大胆にイチャイチャしているカップルが多く、ちょっと辟易とした。
今もし、誰か社員がここに入ってきたら、なんと言い訳しようか。弟が上京してきたのでちょっとオフィスの見学をさせてました、ってところかな。まあ、なんとでもなるだろ。変には思われるだろうが、この際、知ったことか。こっちは命が掛かってるんだ、そんな些細なことを気にしてはいられない。ま、それにどうせ社員など来るはずもない、土曜日なんだから――。
わたしはそんなことばかり考えている。
外苑に新宿御苑、迎賓館、青山霊園、少し離れて代々木公園・明治神宮。周囲にはかなり緑がある――ま、それをはるかにうわまわるビルの連なりがあるけども。結局、ヌイはひととおり全ての景色を確認したうえで、外苑から迎賓館の緑を視界に入れる形に窓のすぐそばに立ち止まった。わたしは手持ち無沙汰に腕を組んでその後ろに立って、ただ待つ。
ヌイが窓の外になにを探しているのか、まったくわからなかった。彼がどんな表情をしているのかもわたしからは確認できない。ただ彼はじっと景色を眺めていた。わたしもなんとなく窓の外に目を向けた。変哲のないいつもの風景が広がるばかりだった。
どれくらい時間が経ったかわからない。いや、たぶん、五分か十分くらいなものだろう。それまで動かずにいたヌイが振り向いた。
「行こう」
彼はそう言って歩き始めた。
「ん? 合図は見つかったの?」
わたしは尋ねる。
「合図? ああ――、いやまだ合図のあるタイミングじゃない」
ヌイはそう答えた。わたしは彼の横を歩きながらさらに訊く。
「え、じゃあ、なにを見ていたの」
「オレたちの進むべき方角の当たりをつけてたんだ」
「あ、そうなの……」意味がわからないままにそう返す。
わたしたちはエレベータの前まで来て立ち止まった。
「で、どこに行くの?」
「まずは東京駅に出よう」
ヌイは表情を変えることなくそう答えた。彼の見ていた風景と東京駅にどんな関係があるのかまったく想像がつかなかった。だって全然違う方角じゃん……。
地下鉄を乗り継いで東京駅に出た。改札を出てヌイは辺りを見回し、ちょっと迷ったふうではあったけども、わたしが口を開く前にJRの改札方面にゆっくりと歩き始めた。
「どこに向かってるの?」
そう尋ねると、ちょっとだけ彼は迷惑そうな顔つきになった。
「少し集中させてくれ」
それだけを彼は口にした。しかたないのでわたしは黙ることにした。
JRの窓口に来て彼は券売機に向かったが、それは在来線ではなく新幹線の窓口だった。疑問が口をつく寸前だったがわたしはこらえた。ただ彼がポケットから数枚の札を取り出し――これまでの観察では彼は財布を持っていないようだ――片道切符を二枚購入するのを眺めた。
仙台までの自由席切符。
彼はそのうちの一枚をわたしに差し出した。受け取って、あらためてそれを眺める。
「仙台に行くの?」
そうわたしが尋ねると、彼も切符を眺めた。
「そのようだ」
ヌイのその態度にわたしの頭には疑問符が湧く。さっきの本社ビルで見ていた景色からどうやって仙台行きという答えが導かれたのだろうか。しかも彼の態度を見てると、なんだか何もかも行き当たりばったりなようにも感じられる。こんなことで果たしてその道行さんと会うことなどできるのだろうか――。
しかしわたしは黙ってヌイについていくしかない。わたしたちは新幹線の改札を通った。何番線から乗ればいいのか彼が判断に苦しんでいるようだった(珍しく)ので、わたしは電光掲示板を見てあげた。仕事で新幹線を使うことも多いので、わたしは慣れている。
ホームに上った。
結構な混雑ぶりだ。そうか、世間はもう夏休みに入っているんだ、ということに思い当たった。しかも今日は土曜。これは仕方ない。
自由席の列に並んだ。この位置なら座席は確保できるだろうと踏んだ。あらためてわたしはスマホで時間を確認する。
「ねえ、ヌイ。仙台に着くのはお昼過ぎになっちゃうから、車内でお弁当にしない? 向こうに着いてから食べるよりそのほうがいいでしょ。わたし買ってくるから、ここに並んでいて」
彼は頷いた。
わたしは雑踏のなかを小走りに売店に向かった――発車まで十分な時間はあるとわかっていたものの。
売店に並べられたいくつもの弁当のパッケージを見て、あ、しまった、なにを食べたいかヌイに訊いておけばよかったと思った。ま、仕方ない、わたしと同じのにしよう……。そのとき、ふと、今朝ヌイがわたしの食事をしている姿を思い浮かべて買うものを選んだ、と言っていたのを思い出した。
ためしにわたしはヌイが食事する姿を思い浮かべてみようとした。
思い浮かばなかった。そのかわり、最初に彼がわたしの腕をつかんだときの、あの瞳が脳裏によみがえった。
ちょっと足のすくむ感覚があった。あの事故のときのことを思い出しかけたから、か。
わたしは首を振って、それを追い払った。
ヌイは不思議な能力を持っていて、奇妙なことを話すひと。けどもそれ以外は普通の人間としか思えないし、実際のところわたしはどこまで彼の言うことを真に受けているのかもわからないけど、あらためて考えてみれば信じられないようなことばかり。とはいえ自分の命が危険にさらされていることだけは事実のようだし、だからわたしは便宜的に彼の言うことを受け入れざるを得ないだけ――。
自分に言い聞かすようにそんなことを考える。けど、わたしは思い出している――あの瞳を最初に見たとき、心の奥底のどこかでわたしは、彼が人間であるということ自体に疑いを感じていたことを。
――いや、そんなわけないじゃないか。彼はどう見ても人間だし、不思議な能力って言ったって、手から衝撃波を出すとか空を飛ぶとかするわけじゃない。気がどうこうとか言ってる程度のことだし、本人だって「誰にだってできる」って言ってた。
再び自分にそう言い聞かす。わたしは考えるのをやめ、弁当を選ぶ。幕の内みたいなやつをふたつ、それとお茶もふたつ、買った。
そして再び小走りになり、ヌイの待つ列へと戻る。