4. ソラヨミのこと
目が覚めたら、わたしは布団で寝ていた。
朝のようだ。カーテンの閉ざされた部屋のなかは薄暗い。
ガバと身を起こし、見回す。男の姿はなかった。わたしは不安を覚えるが、きっと彼はわたしのことは大丈夫と判断したうえで、ちょっとどこかに出かけているだけだろう、と自分に言い聞かせた。
スマホは畳に転がっていた。時刻は六時を過ぎている。画面が汚れているのを見て、どうやら自分が文字通りの泣き寝入りをしてしまったということに思い当たった。彼がわたしを布団に寝かせてくれたのだろう。それ以外には考えられない。優しいところがあるようだ、と思った。体調も戻ったのだろうか。
立ち上がり、窓のところに行った。カーテンの隙間から外をのぞいてみる。道を挟んで向かいの建物が見えるだけの景色。どうやら自動車販売店とかの裏っ側のようだ。そういえばひとつ向こうの通りが幹線道路だった、とわたしはタクシーでここまで来たときのことを思い出した。天気はいい。わたしはカーテンを開けようとしたが、思いとどまった。窓から離れた。
布団を畳んで、元のように押し入れにしまった。それから壁によりかかって座る。スマホの画面を拭いた。それからポータルサイトのニュースを見てみた。昨日の事故が記事になっていたが、あまり詳細は書かれていなかった。運転手の発作による運転ミスが疑われているという内容だった。今度は死者などはいなかったようだ。
落ち着かない気分。スマホで音楽でも聴こうかと思ったけど、次にいつ充電できるかわからないということに思い当たって、諦めた。
彼はいつ帰ってくるのだろう――そういや、まだ名前も聞いてない。この先もわたしのことを守ってくれるのだろうか。そもそもなんで二度もわたしのことを助けてくれたのだろう……。
とりとめもない思考ばかりが頭のなかをよぎる。
そんな状態で五分ばかりが経過したころ、ドアがガチャと開いた。一瞬、わたしは身構えたが、部屋に入ってきたのはもちろん彼だった。わたしは立ち上がった。
「あ、あの……」
おはよう、と声をかけるのもなにか状況にそぐわない気がして言葉に詰まった。
「朝飯を買ってきた」
男は言った。みれば手にコンビニのレジ袋を下げている。彼はそれをいったん畳のうえに置き、部屋のカーテンを開けた。部屋のなかが一気に明るくなり、わたしは少し目を細める。それから彼は台所に行って、引き出しからタオルを取り出してきた。
男の体調は戻っているようだ。ペナルティが消えたのならいいのだけど――とわたしは思うが、それは考えが甘すぎるだろう。慣れるのに時間がかかるだけと昨日の彼が口にしていたことを思い出した。
彼は床に座り、立っているわたしの少し前にタオルを二つ折りにして置いた。それから袋に手を入れ、買ってきたものを並べはじめた。わたしはその場に腰を下ろした。
ミニサラダ、たまごサンド、くるみパン、りんごジュース――。
わたしは軽い驚きをもってそれらを見つめた。なぜならその組み合わせは、食堂に行く時間がないときなんかにわたしがコンビニで昼食を済ます際の定番の組み合わせだったからだ。
「え、これって……。なんでわたしの好きなものがわかったんです?」
そう訊かずにいられなかった。男はなんでもないかの表情で答えた。
「君が食事している姿を思い浮かべたら、これらの商品が浮かんで見えた」
サラダ用の別売りのドレッシングもわたしのベストチョイスである青じそだった。今更ながらこの男には不思議な能力があることを認めざるを得ないと思った、
男は手のひらで「どうぞ」というジェスチャーをした。わたしは「いただきます」と頭を下げた。
彼は自分にはロールパンと缶コーヒーを買ってきていた。それらがコンビニ袋のうえに置かれていた。
わたしはサラダに手をつけた。少し食べてから尋ねる。
「いつもこんな朝食なんですか?」
彼はロールパンを齧りながら答える。
「いや、いつもは朝食は摂らない。オレが食べないと君が食べづらいだろうから、今日は食べることにした」
「はあ。それはどうも……、すいません。ありがとうございます」
彼はわたしの反応には興味を示さず、窓のそとに目を向けながら缶コーヒーに口をつけている。
「あの……、わたし、まだ名前を言ってませんでしたよね。あの、千島悠香と申します」
彼はわたしをまっすぐに見た。それから口を開く。
「オレはヌイ」
「ヌイ?」
男は頷いた。変わった名だな、とわたしは思う。苗字なのか、下の名なのかもわからない。
「あの……、ヌイ、さん」
「ヌイでいい。それから丁寧語もいらない」
「じゃあ、ヌイ」
「相談は食事のあとで聞こう」
その返しにわたしは驚かざるを得ない。相談があるのだけど――まさにわたしはそう言おうとしていたのだ。
「わたしの心が読めるの⁉︎」
ヌイは首を振った。
「自分に向けられた『気』が読めるだけだ。君がしようとした問いかけの気配を感じたんだ。心が読めるわけじゃない」
「そんなことができるの?」
「誰にだってできる。しようとしないからできないだけだ」
そう言ってヌイは再び窓の外に目を向けた。この男はいったい何者なのかという疑問が頭をもたげる――何度目だろうか――けども、もはやわたしの思考はそこから先へは進まない。淡々と食事を続けることとなった。
食べながら男の顔を盗み見る。彼はずっと窓の外を見てるけど、いったいなにを見ているのだろう。時折、その視線がなにかを追うように動く。わたしも窓に目を向ける。二羽の鳥が飛んでいくのが見えただけだった。
「ごちそうさま」
すべてを食べ終えて、わたしは手を置いた。ヌイはとうに自分の分を食べ終えていた。
「あの……、ヌイ」
彼はわたしに目を向けた。
「あのね、いろいろ考えたんだけど、どうにも世界がわたしを排除しようとしている理由なんて思い当たらなかったの。でも、すべてを捨てて旅に出るとか、仕事を辞めて実家に戻るとかなんていうのも考えたんだけど、それで世界がわたしを見逃してくれるかもわからないし、それにほら、バタフライエフェクトじゃないけど、世界規模の影響を与えるにしてもその原因はほんのささいなことだったりすることもあるわけじゃない? だから世界がわたしを排除しようとしているのもほんのささいな理由かもしれないじゃない」
ヌイは頷いた。わたしの言っていることに同意してくれているようだ。わたしは続ける。
「わたしとしては、いきなりすべてを捨てるみたいな極端なことに走らないで、なんとかもう少し絞り込めないかなって思うわけ、その理由ってヤツを。でもほら、いくら考えても思い当たるものはないし、ちょっとお手上げではあるんだけど、もう少し時間がほしいかな、って思ってる。けど、そうするとそのあいだわたしはあなたのそばから離れるわけにはいかないし、でもあなたはあなたで都合があるだろうから無理は言えないなってところなんだけど……」
そこで言葉を切ってわたしはヌイの表情をうかがった。そこからは特に感情のようなものは読み取れなかった。けれども、彼は少し間を置いてから淡々と話し始めた。
「オレは世界の思惑に背き、二度、君を助けた。だが、それは局所的なモノの見方だ。考えてみてほしい。巨視的な観点から言えば、オレたちは決して世界の采配から逃れるなんてことはできないんだよ。なぜならオレたちは世界の一部だからだ。世界とはオレたちそのものだからだ。どういうことかというと、オレが世界の思惑に背いて君を救ってペナルティを科されたのも、より大きな視点からみたら世界の意思そのものだった、ってことだ。世界がオレに君を助けるかどうかを選ぶ機会を与えたんだ。そしてオレは君を救い、代償としてペナルティを科された。つまりこれはオレに課されたミッションなんだ。だからオレはこれからも君を守る。君が君自身に課されたミッションを果たすまで」
「わたしに課されたミッション?」
ヌイは頷いた。わたしは思いつくことを口にする。
「世界に排除されることを回避するということ?」
「そうかもしれないし、あるいはそこには別の結末が待っているのかもしれない。いずれにせよ、君は自分が抱えた問題に立ち向かうしかない」
わたしは黙った。ヌイがわたしを守ってくれると言ってくれたことに安堵を感じていたが、世界が自分を排除しようとしていることに対してどう立ち向かうかなど、なにも考えられなかった。
「……でも、さっきも言ったように、今のところまったくお手上げというか、どうにも思いつくことがないのよね……」
「オレにひとつ考えがある」
ヌイが言った。わたしは自分が顔を輝かしたのがわかった。
「えっ、どんな?」
「ソラヨミに会いにいく」
「ソラヨミ?」
彼は頷く。
「さっきオレは自分に向けられた気を読めるって話をしたろ? それは、まぁ、誰にだってできることなんだが、ソラヨミの能力はそれとはレベルが違う。ヤツは世に存在するあらゆる気を読むことができる。しかも過去から未来にわたってだ。そいつに君を見てもらえば、世界がなぜ君を排除しようとしているのか、間違いなくわかるだろう」
いったいなんなの、そのソラヨミって――と疑問が一瞬、頭をよぎるけど、今のわたしはそれどころではない。とにかく自分自身の問題を解決することが先決だ。
「ほんと? じゃあ、そうしたい。どこに行けば会えるの?」
その問いにヌイは、んー、と言葉を濁した。
「そのひとは知り合いなの?」
「ああ、何度か会ったことはある。俺たちの同胞のひとりだ。だけど、そいつの居場所については誰も知らないんだ」
「ええーっ、じゃあ、どうすればいいの」
「いや心配ない。ソラヨミに謁見するにはちゃんと決まった手続きがあるんだ。それに従いさえすればいい」
「そうなんだ」
彼の言葉に安堵を覚えつつも、謁見だなんていうからにはそのひとはよほど偉いひとなんだろうかと思えて少しビビる。
「ただしこの手続きにはしかるべき三つの能力の組み合わせが必要になる。オレは〈魂引〉なので、この場合は〈道行〉と〈夢廻〉の能力を持つ同胞の協力が必要だ」
なんか大変そうな話になってきたな――。
「だからまずは協力してくれるふたりの同胞に会う必要がある」
「ん、わかった。じゃ、今からすぐに行く?」
わたしがそう訊くと、またもやヌイは微妙な態度を示す。
「ただ、そいつらの居場所もわかっているわけじゃないんだ。これは君には説明が難しいんだが、オレたちは普段、互いに会う必要がある場合には自然にそれとわかるんだ。そして自然と落ち合うことができる」
なんだよ、それ。わけのわからない話だな――と思いつつわたしは聞いている。
「だが今回の場合、オレが世界の思惑から外れていることをしているので、うまく落ち合えるかどうかがわからない。世界が邪魔をすればオレたちは落ち合えずに終わることになるだろう。〈道行〉にはどんな状況でも正しい道を指し示す能力があるので、そいつと落ち合ってしまえばそれから先は楽なのだが、そこまでが問題だ。こういう場合、向こうのほうから合図を送ってくれる。確実にオレたちが落ち合えるように」
「合図? どんな?」
「それはさまざまだ。どんなものであれ、受け取ればそれとわかる」
「ちょっと待って。合図を送ってくるってことはそのひとはこっちが会おうとしているってことがわかってるのよね?」
「そうだ。さっきも言ったように、会う必要があるときには互いにすぐわかる。そういう気を感じるから」
「で、〈道行〉さんは常に正しい道がわかるって言ったよね。てことは、わたしたちはへたに動かないでそのひとが来るのを待ったほうが確実なんじゃ?」
「待つという選択肢があるのは確かなんだが、ひとつ問題がある。オレたちは自分の能力を自分自身のために使うことはできないんだ。つまり〈道行〉であっても自分の行き先を決めるために〈道行〉としての能力を使うことはできない。よって、やはり行き違ってしまう可能性がある」
「へえ……」
「それに合図があったときにできるだけ近くにいないと、何度も合図が必要になってしまう。じっと待つよりは互いに動いたほうが早い」
「へたにお互いに動いたら余計に会えなくなる可能性のほうが高くなる気がするけど」
「それは君たちのような〈個別人〉の話だろ。大丈夫だ、オレたちにそこまでの心配はない」
コベツビトってなんのことよ――。気にはなったが、今のわたしにそれを考える余裕はない。
「わかった。じゃあ、とにかく〈道行〉さんに会いにいくわけね。すぐに行く?」
ヌイは頷く。
「ああ。さっきから出発のサインが出ているからな」
「サイン?」
それに答えることなくヌイは立ち上がり、押し入れを開けた。疑問を無視されたことにちょっと不満を感じつつもそれはスルーすることにし、わたしは彼の分も含めて食事のゴミの片付けをした。それから押し入れでの彼の作業をうしろからのぞいてみた。
彼はバックパックに何日分かの着替えを詰めていた。なんだか押し入れにある布団以外のすべての荷物をそこに詰め込もうとしているようにも見えた――もともとそんなに多くのものがそこにあったわけではないのだけど。
「えっと……、キャンプにでも行く感じなのかな……」
わたしがそう言うと、振り向くことなくヌイは答えた。
「もうここには帰って来れるかわからない」