3. ペナルティ
カフェは騒然となっていた。まだ多くの客は戸惑うばかりで動くこともできずにいる。
そんななかを、男のあとについてわたしは店から外に出た。けれど、そこまでは普通に歩いていた彼が、エントランスを出てすぐのあたりで何故だか急にヨロっとして店の外壁に手をついた。そして、そのまま壁に背をつけて寄りかかる形になってしまう。後ろを歩いていたわたしはその場に立ち止まった。
見ると男性の表情は一変していた。どうしたんだろ、と思うまもなく、彼はそのまま壁に沿ってズルズルと座り込んでしまった。
困惑しつつ、わたしはその隣にしゃがみ込んだ。彼の様子を見ようと。
男は喘いでいた。その額には脂汗が浮いていた。
「大丈夫ですか、さっきので怪我でも――?」
焦りながらわたしがそう尋ねても、男は答えることもできないようだ。
「どうしよう――。救急車を呼びましょうか」
男の返事を待たずにわたしはカバンからスマホを取り出した。それを操作しようとする指先を男の手が押しとどめた。
「ダメだ」
かすれた声。わたしは彼に目を向けた。その息は荒いが、わずかに落ち着いてきているようにも思えた。
「怪我はしていない。ペナルティをくらったんだ」
ペナルティ――さっきもそう言ってたな、わたしを助けたことで世界からペナルティを科された、みたいなことを。
「大丈夫だ、慣れるのに少し時間がかかるだけ」
男は続けた。
「ただ、二重になったからな。少しキツイ」
そうつぶやく口が苦笑めいた形を示した。
「またわたしを守ってくれたから、ってことなんですか?」
その問いに彼はただ微かに頷いた。依然として苦しそうな様子だ。わたしはバッグからハンカチを取り出して、男の額の脂汗を拭いた。
こんなことになってしまうのにこの男はわたしを助けてくれた、というのか。いったいどういうことなのだろう。頭のなかは疑問符で埋め尽くされる。
顔をあげると、店に突っ込んだライトバンの後ろ半分が目に入った。そのまわりを取り巻くように野次馬が集まりつつある。少し離れたところにいるわたしたちのことは誰も気にも留めていない。
警官がやってくるのが見えた。駅前の交番に詰めていた当番だろう。
「行こう」
依然としてかすれた声で男が言った。
「行く? どこへ?」
「どこでもいい。あまり警察とは関わりたくない」
そう言って男は体を起こそうとする。しかしその動きは鈍い。
「肩を貸してくれ」
男は手をあげた。わたしはその腕のしたに肩を入れるようにその隣に身を寄せた。そして彼の背に手を回す。
「いいですか?」
そう声をかけ、わたしは腰を入れて立ち上がる。男もなんとかそれに合わせて自分の体を起き上がらせた。しかし、どこでもいいからどこかへ行くといっても、どうすれば? 別な店に入るくらいしかないのでは――そう考えつつわたしが顔をあげた先に駅前のロータリーで客待ちをしているタクシーの列が目に入った。そこまでなら数十メートルほどの距離しかない。
「あなたの家は近いんですか?」
その問いに男はこう答える。
「ああ……、そうだな、歩けば十分くらいだが」
「じゃあ、そこまでタクシーで送ります。それでいいですよね?」
タクシーのなかで男はヘッドレストに頭をもたれて目をつむっていた。すでに脂汗は引いていたし、荒かった息も次第におさまったようだ。ただ顔色は明らかに悪い。
大通りをしばらく行って、そこからひとつ裏の道に入ってからタクシーは停まった。千円でお釣りのくる距離だった。財布を出して料金を支払った。
わたしはいったん先に降りてから、男の腕を引っ張るようにして車から降ろさせた。乗せたときよりかは幾分その動きが軽くなっているようにも感じられた。
タクシーはすぐに走り去った。わたしは再び彼に肩を貸す形になっている。
「ここで合ってるんですよね?」
目の前にある建物を見て、つい、そう尋ねてしまった。この界隈にまだこんなオンボロのアパートが建っているのか、という以外の感想がなかった。その隣は広い空き地になっていて雑草が茂っていた。目の前のアパートが取り壊されるのを待って、併せてそこにマンションでも建てる計画にでもなっていそうに思えた。
「ああ」
「部屋は?」
「203」
二階か――。
わたしたちはそろそろと歩き、アパートの側面の鉄製の階段をゆっくりとのぼった。一段登るたびにそれはグラグラと揺れ、うっすらとした恐怖を覚えさせた。
203とドアに表記された扉の前までたどり着いた。男はノブに手をのばし、無造作にひねって開けた。
――カギかかってないんだ、部屋に誰かいるってこと? そうわたしは頭のなかで呟く。
なかに入った。そこは真っ暗だったが、肩を貸している都合上、一緒に部屋に入ることになる。ここでサヨナラすることも考えたが、わたしとしては彼に訊きたいことがある。
男の手が壁を探るように動き、パチンと音がした。部屋の蛍光灯が点いた。
一瞬、空き部屋かと思えたくらい、物がない部屋だった。カーテンがかかっていなかったら、人が住んでいるようには見えないだろう。誰の姿もない。六畳一間というヤツだろうか。家具もないので、その分、広くは見える。
男は足だけで靴を脱ぐと、その場に倒れ込んだ。
「布団とかあります?」
「押し入れだ」
わたしは部屋に入り、押し入れを開けた。そこにもたいして物はなかったが、確かに布団は一式入っていた。合宿所にあるような薄っぺらいヤツ。
それを出して畳のうえに敷いた。
「すまん」
男は小さく言って、這うようにしてそこに寝転んだ。
「質問には答える。オレに答えられることなら――聞きたいことがあるんだろ?」
そう言った声はさっきほどかすれていなかった。
「まあ、座りなよ。そのへんに適当に。座布団もなくて申し訳ないが」
わたしは素直にそれに従った。座ってみると意外に畳自体は古くもなく、綺麗に掃除もされている様子だった。
質問に答えてくれるという言葉はありがたかったが、なにをどう訊けばいいのか、まったくわからなかった。ストレートにそれを口にする。
「でも、なにをどう質問すればいいのかもわかりません。いったいなにが起きているんでしょう」
仰向けになっていた男は天井に目を向けている。ひとつ息をつくのが見てとれた。
「そうだな……。オレもそんなに事情がわかっているわけではない。オレは自分の仕事をするだけの存在だからな……」
「あなたの仕事って」
「……同胞たちの間では〈魂引〉と呼ばれている。つまり……魂を召還すること。もっと平たく言えば、対象となる人物に命を終わらせる選択をさせることだ」
「な……」
わたしは二の句が告げられなかった。いったいこの男はなにを言っているのか――。だが気を取り直して質問する。
「それって具体的にはなにをするんですか?」
「具体的? んー、そうだな……。君が考えるような意味ではオレはなにもしない。ただその場に居合わせるだけだ。それだけで物事が進む」
なんだよ、それ……。なんの意味があるの。
「いわば、その場に欠けている必然性を補うのがオレの役目、といったところかな。君にもわかるような例をあげれば、たとえば昨日の事故。あれを起こした運転手は道路脇を歩いていたオレの姿に気を取られて運転を誤った。ま、実際にはそれだけでは事は転がらないのだがな。その場の意識を支配するというかな、出来事に関わる人間の無意識をうまく流れに乗せるというか。世界の思惑に沿った形に――。君だって、あのとき、走り出そうとしていた。まんまと車が突っ込んでくる場所をめがけて」
「でも、あれは――」自分の意思でそうしただけ――。
「それが場の意識。各自は自身の判断で動いているだけのように感じていても、実際には無意識のうちに全体の出来事の流れに沿うようなかたちに行動してしまう。場に働きかけて、その雰囲気を高めるという感じかな、オレのやっていることは」
「んー」わたしは唸った。男の話している内容はほとんどわからなかったが、とりあえず思いついた疑問を投げる。「じゃあ、さっきのカフェもそうだったというわけですか」
「そうだ」
「あなたがそこにいなければ、あの車は暴走しなかったのですか」
「むう……。その仮定は意味がない。なぜならオレがそこにいないということは起こり得ないからだ。まあ、それでもあえて言えば、答えはイエスだ。オレだけでない。ひとつでも必要な要素が欠けていれば、出来事は起きない。世界は次のチャンスをうかがうことになる、出来事に関与するあらゆる要素に対して」
「わたしもその要素のひとつだったんでしょうか」
「もちろん。君は偶然にオレの姿をカフェに見つけて、自分の意志で隣に腰掛けたのだと考えているだろうが、実際には無意識にそう誘導されていたんだ」
「あなたがそうなるように仕向けたということですよね」
「……いや、オレ自身にはそこまで成り行きがわかっているわけじゃない。君が隣に座るまでは君のことは忘れていたさ。いや、ま、ペナルティを食らっていたから、遠からず君に関わる出来事が再び起こるだろうとは思っていたが」
わたしの困惑は深まる一方だ。次に思いついたことを尋ねるのには一瞬とまどいを感じたが、それを口にしてしまうこともまた止めることはできなかった。
「ペナルティ――つまり世界はわたしに死んでほしいということなんですか? なのにあなたはわたしを助けてくれたと? 二度も? どういうことなんですか。なぜわたしは世界の目の敵にされているんでしょう」
世界はわたしに死んでほしい――そんな事実を認められるわけがなかった。それを口にしてしまって、あらためてわたしは自分自身の言葉にショックを受けていた。即座にそれを彼に否定してほしかった。
だが男はその問いに口をつぐんだ。わたしもまた次の言葉を見つけられない。やがて彼は呟く。
「オレがなぜ君を助けたのか……。それはオレにもわからない。オレのなかのなにかがそうさせたとしか――。そしてもちろん、世界が君を狙う理由もわからない。ただ、当然そこには理由があるのだろう、なにか君の消え去るべき必要性が。そうだな……、オレに科されているペナルティの重さからして、かなり強い必要性があるんだろうな、そこには。正直、これまでこんなに強力なペナルティを感じたことはなかった」
ショックで回らない頭でわたしは少し考え、そして口を開いた。
「たとえばですよ、もしその理由を明らかにできたとしたら、そしてわたしがその理由となるものを取り除いたら、世界はわたしを狙うのをやめてくれたりしますかね?」
男も考える表情となった。
「ん……、思惑に沿うように物事が進みさえするのなら、世界は君を排除したりはしないだろう。今はなにか理由があるからそうしようとしているだけで、その理由が消失すれば当然、世界が君を狙うこともなくなる。オレに科されたペナルティも消える」
その返答にわたしはようやく希望を感じた。
「たとえば君が、今すぐ仕事を辞めて二度と元の生活に戻らないと決心したとする。それでオレのペナルティが消えたとしたら、もう君は安心だ」
「え……」
そんな決心なんて、できるはずもない。
「今の暮らしをすべて捨てろと――?」
「たとえばの話だよ。それで世界が君を狙わなくなるとは限らないし」
「でもあなたにはわかるんですよね」
「そう。理由が消失すればオレのペナルティも消えるから、すぐにわかる」
ようやくわたしは少し落ち着いてものを考えることができるようになった。
「なんでしょうね、その理由って。かなり強い必要性があるって言いましたよね。それってたとえばどんなものなんですか」
男は少しツラそうに目を閉じた。体調が悪いのに喋らせすぎたろうか――。
「んん……。経験のない大きさだからなんとも……。だが、そうだな……。ふむ。かつてオレが今の日本の有り様に影響を及ぼした出来事でペナルティを食らったときも、これほどの重さはなかった。今回は二度君を助けたことでペナルティがダブルになっているので単純比較はできないが、それでも、少なくとも世界規模の出来事のような気はするな」
「へ?」
わたしは呆気に取られた。
「な、そんなわけない。わたしのどこをどうひっくり返しても、世界規模のなにかに影響を及ぼすような要素なんてないでしょ。あり得ない――」
男は目を閉じたままだ。
「ん……。よく考えてみるんだな。時間はたっぷりある。オレの目の届く範囲内にいるかぎり、君の安全は保証する」
その言葉でわたしは気づいた。自分がこの男を放置して家に帰ってしまうなんてことができないということに。「世界」はわたしの命を狙っている。彼のいないところでなにかが起きれば、わたしを助けてくれるひとはいない――。
わたしがさんざん思考を巡らせているうちに、男は眠ってしまったかのようだった。わたしはその体に掛け布団をかけた。
喉の渇きを覚え、部屋の隅の小さな台所に行ってみた。そこにも物があまりなかったが、カゴに伏せたコップがあった。傍にある小型の冷蔵庫を開けてみると、食材は一切入ってなかったものの、ミネラルウォーターのペットボトルがあったので、わたしはそれを取り出し、蓋を開け、コップに注いだ、
水を一気に飲み干したあと、ボトルは冷蔵庫に戻し、コップはゆすいで元の場所に置いた。
畳に戻り、男の布団を敷いた側とは反対側の壁に寄りかかるように座った。下品だが足は投げ出す。わたしも疲れを感じている。
男の横顔を眺める。あらためてみれば、わたしより年下のようにも思えた。話しっぷりが年配の男性のもののようでもあったので、見た目とのギャップを感じた。
もはや考え続けることに疲れていたわたしは、意味もなくため息をついた。
これまでの男の話を妄言とみなし、さっさとここを出てウチに帰る――それがわたしのなかでは最有力の候補だった。しかしそれに踏み切ることができなかった。実際にふた晩連続で事故に巻き込まれる寸前のところをこの男性に助けられたという事実がある。一回ならばそれを偶然と片付けることもできたろうが、続けて二回となるとさすがにそこにはなにかしらの意図的なものを考えるしかない。
たとえば、昨日の事故は本当に偶然でしかなかったのだが、それに乗じてこの男が意図的に今日の事故を起こしたのだと考えることはできるのでは? ライトバンを運転していたのが男とグルだったとすれば実現は可能だろう。その目的はわたしを騙すため――でもそこまでしてわたしを嵌める事に、はたして意味があるだろうか? しかもちょっとタイミングを誤れば男もわたしも死んでたかもしれないのに。それに男がペナルティで苦しむ様子はとても芝居とは思えなかった。
世界がわたしを排除しようとしている――など、とても信じることの出来ない話でしかないのだが、どうにも否定し去ることができない、というのがわたしの置かれた状況だった。
今、何時だろ、と思ってわたしはカバンからスマホを取り出した。
もうすぐ真夜中だ。
ふと、だれかに電話で相談してみようか、と思いついた。
でも、誰に――?
そもそもこんなことを相談したら、わたしの気が狂ったのだと思われる。間違いなく。
そう思いつつもわたしは体育座りになってスマホの通話履歴を表示させている。目についたのは希美の名だ。
彼女の声が聞きたい、と思った。相談は無理でも、単にいつものようにたわいない会話をするだけなら――そう考えたりもするが、今の状態のわたしに普通に会話ができるとも思えなかった。おそらく希美はわたしの様子がおかしいことを察知し、なにごとかと心配してくる事になるだろう。そうなったらわたしはありのままに話をするしかない。けど、そうしたらその先はどうなってしまうだろう……。
あるいは田舎の両親に電話してみるか。そうしたら親は――わたしの話をどこまで信じるかは別として――すぐに仕事を辞めて実家に戻ってこいと言うかもしれない。そして、わたしがそれに従うことを選択すれば、世界がわたしを狙うこともなくなるかもしれない。だがそれでいいのか。就職して三年がすぎ、ようやくそこそこ仕事が身について、面白みも感じられるようになってきた。職場は素晴らしい環境だし、一度あそこを離れてしまったら二度とあんな場所で働くことはできないかもしれない。
イヤだ。
もしそれしか選択肢がないのであればそうせざるを得ないかもしれないけども、無駄にそんな選択はしたくない。
だが、いくら考えても、世界がわたしを狙う理由など思いつかない。
ぐるぐると考え続けている。
苦しいものを感じたわたしは、無意識にスマホのSNSのアイコンをタップしている。
見慣れた画面が表示された。
タイムラインのトップに表示されたのは、ディナーテーブルの上に並べられた高級そうな料理とワインの写真――学生時代の友人のひとりが今日は誰かのバースデイパーティーだったらしい。指は画面をスクロールしていく。今日のテレビドラマの感想を書き込んでいる友人、なんでだかわからないけど大学のサークルで一緒だった友人は毎日のように政権批判の文言を書き連ねているし、バンドが趣味の友人は週末のライブの告知。
いつも通りの日常。
それを眺めているわたしの目に、いつのまにか涙が滲んでいた。その事実に気づいた瞬間、涙は溢れ、次から次へとわたしの頬を伝い、スマホの画面を濡らした。
わたしは膝に顔を埋めた。
――なんでこんなことになってしまったのだろう。
手からスマホが滑り落ちたが、わたしはそれに構うことなく、ただ泣き続けた。