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2. 挽回のチャンスに彼は

 スマホのアラームの音で目が覚めた。

 目が覚めた、ということは、わたしは寝ていた、ということだろう。

 昨晩はなかなか寝付くことができなかった。

 あの事故のあと、どうやって帰ってきたのかを覚えていなかった。気づいたらわたしは自宅の賃貸マンションの玄関前にいた。

 体はすっかり濡れていた。傘はさしていたようなのだが。

 無意識のうちにいつもどおりに歩いて帰ってきたのだろう、そう考えた。

 バスルームに直行する。

 熱いシャワーを浴び、なんとか少し落ち着きを取り戻した。そして、体を洗っていて左手が自分の右の腕に触れたとき、まさにその場所をあの男性につかまれたことを思い出したのだった。

 もし、あのとき腕をつかまれてなかったら、タイミング的にわたしは間違いなくあのセダンが弾き飛ばされてきた正面にいた、はず――。

 そう思い至ったわたしの足は再び震え始めた。あれがなければわたしは死んでいたかもしれなかったのだ。

 わたしが我に返ったときにはすでにいなくなっていた彼。

 あのひとはなぜ、わたしの腕をつかんだのか。今となってみればあれはわたしを引き止めるためだったとしか思えない。でもおかしくないか? 車のブレーキ音はわたしが腕をつかまれたあとに聞こえてきたのだ。まさかあの男は予知能力者だとでも? そんなの現実に存在するはずない。いや、世の中には科学で解明できないこともあるのは確かだし、広い世界のどこかには本物の予知能力者がいるという可能性がゼロだと言い切るつもりはないが、そんな存在がいざわたしの命が危機に瀕したときに都合良く目の前に出現するはずがないじゃないか。でもそうでなければあれをどう説明する――?

 そんなことを考えて思考は堂々巡りをするばかりだった。

 ふと、あの男性と目の合ったときの印象が脳裏によみがえった。

 あの不思議なまなざし。

 あれを見たとき、わたしは奇妙な感覚に襲われていた。それをなんとか言語化しようとすれば、まるで自分の全てを見透かされて冷徹にジャッジされているかのような恐ろしさと、どこまでもありのままに自己を受け止めてもらえる寛容さ、その双方が同時に存在するアンビバレントな感覚とでもいうか。

 ただ、思い出すと怖さのほうが強く感じられた。その怖さの理由はよくわからなかったけども――。

 そんなことをぐるぐると考え続けてなかなか寝れなかったのだった。

 体が重い。

 なんとか起き上がる。これしきのことで仕事を休むわけにはいかない。有給休暇は夏休みの旅行のためにとっておかねば。


 勤務時間が過ぎた。なんか、一日をぼおっとしたまま過ごしてしまった感じがする。いや、仕事はちゃんとできていたと思うけど。会議のときに居眠りしかけてしまったが、まあ、あれはどうでもいい会議だったし。

 あの事故についてわたしは誰にも話す気になれなかったが、夜にカフェテリアで希美と一緒になったとき、ようやくそれを口にすることができた。

「昨日は酷い目にあった。マジで死ぬかと思った」

 わたしが開口一番にそう口にすると、彼女は驚いた様子もなくこう返してきた。

「え、なになに? 『魔の木曜日』の話?」

「や、それじゃなくて。家に帰る途中に」

「え〜、なにがあったの?」

 彼女は誰かの噂話をするときと同じような感じに訊いてきた。その軽さに救われる。

「駅からウチに帰る途中で交通事故があってさ、衝突した車がわたしの目の前に突っ込んできたんだわ、ホントに目の前、ほんの1メートルくらいのとこに。二、三秒タイミングが違ってたらモロに轢かれてた。冗談ぬきで」

 わたしは一気にそう喋った。でも男性に腕をつかまれた話はしなかった。なんとなく。

「わっ、ヤバ。でも良かったね、轢かれなくて」

 そう反応して、なぜか彼女はスマホをいじり出した。しばらくして再び口を開く。

「あっ、ホントだ、ニュースになってる。悠香の家(んち)の近く。んー、青信号に従って交差点に進入した車に信号無視の車が衝突、はずみで弾かれた車が歩行者をハネる。一人死亡、一人重体」

「え、死んだ人、いたの」

「んー、そうみたい。歩道を歩いてた人らしいよ。信号無視した車の運転手は怪我もないみたいね、ぶつけられた車に乗ってた人が重体だって」

「あっ、そうなんだ……。歩道の人が巻き込まれてたなんて気が付かなかった。わたしのホントすぐ目の前だったのに」

「下敷きになっちゃったとかなのかもね。んー、現行犯逮捕された運転手によると、道端を歩いていた人を友人と見間違えて気を取られたせいで信号が変わったのに気がつくのが遅れたんだと」

「へえ」

 事故の原因などには、正直、興味はなかった。それよりもあの場で亡くなった人がいたというのがショック。それがわたしであった可能性もあったのだ、間違いなく。

「だいじょうぶ? 悠香。顔色悪いよ」

「えっ、そう? いや、ちょっと事故現場のこと思い出しちゃって」

 わたしがそう返すと希美は少し考えるような顔つきになった。

「そういうのってさ、トラウマになったりすることもあるから、もし本当にヤバそうなら一度心療内科とかで診てもらったほうがいいかもよ」

 彼女のその言葉にわたしは思い切り首を振った。

「ううん、そんな大層な話じゃないの。平気、平気」

 わたしは作り笑いをしてみせたが、彼女はちょっと疑わしそうな顔つきをしていた。

「ならいいけど」

 えへへ、と笑いながらわたしは続ける。

「いや、ホント、大丈夫だから。心配してくれてありがと」

 そんなにわたしの顔色は悪かったのだろうか……。彼女の表情をうかがいながら、わたしはそんなことを思っていた。


 駅の改札を抜けたとき、とたんに自分の足取りが重くなるのが感じられた。

 なんだか家に帰りたくないように思えた。あるいはあの事故現場を通るのが嫌なのかもしれない――今朝そこを通りがかったときには、もちろん現場は綺麗に片付けられていたのだけれど、路面にはチョークの跡とどす黒いシミが残されていた。それと電柱には大きな傷も。あのシミは亡くなったという歩行者の血痕なのだろう……。

 遠回りだが別の道から帰るか――そう考えてもわたしの足は重いままだった。

 どうしよう、と考えつつ、にぎやかな商店街のほうに自然と足が向いた。普段も買い物があるときなどはそちらに寄り道することが多い。

 駅前のロータリーの向かいにカフェがある。駅近によくあるチェーン店。ガラス張りの壁の向こうにたくさんの客がスツールに腰掛けているのが見える。ほとんどの人がスマホとかノートパソコンとかの画面に目を落としているいつもの光景。

 その端っこにいるひとりの青年の姿が目についた。白いシャツ。スマホもタブレットも手にしておらず、ただ街の風景を眺めている人物。

 え、とわたしは思った。

 そのまなざしに見覚えがあった――昨日の男性かも。あのときは一瞬しか見なかったので、正直、顔はよく覚えていなかった。ただ背格好は似ていたし、なによりあの強烈な印象の目。いま窓越しに見えるその人物にはそれほどの強いインパクトは感じないけども、それでもなにかあのときの印象に通じるものがあった。

 自分でもどういうつもりなのかわからなかったが、気づくとわたしはカフェに足を踏み入れていた。

 カウンターでカフェラテを注文した。

 受け取り口でカップが出てくるのを待ちつつ、男性の姿を眺めた。その隣の席は空いている。どうしよう、そこに座ってみるか。いや、でも、なにをしようとしてるのか、自分――。

 店員がカフェラテのカップをカウンターに出した。わたしは軽く頭をさげてそれを受け取った。そして男性のいる客席の端に向かった。

「ここ、いいですか?」

 その背中に声をかけた。普段のわたしなら空いている席に座るのに隣の人に尋ねたりはしないけど、なにか声を交わすきっかけが欲しくて。

 男性は少しだけ首をわたしのほうに向けるようにして、「どうぞ」と言った。低くてハスキーな声だった。ちょっと気圧される。

 わたしはそこに腰掛けた。とりあえずラテに口をつけた。熱っつぅ。

 隣の人物は再びガラスの向こうに目を向ける。沈黙。窓の外はいつもの駅前のロータリーの光景だ。停車しているバスにタクシー、行き交う人々。

 わたしはちびちびとラテのカップを傾ける。どうしよう、と思いながら。

 ――えーい、ここまで来たんだ、ためしに声をかけてみよう。別にわたしに失うものはない。でもなんて言えばいいかな……。ま、ストレートに「間違ってたらゴメンナサイ。もしかして昨日わたしを引き止めてくれた方じゃないですか?」で行ってみるか。んー、ちょっと変かな。もっとさりげなく切り出す方法ないかな。いや、迷ってると時間が過ぎて、ますます声をかけるのが不自然になってしまう。いいや、行っちまえー。

 わたしは少し男性のほうに体を向けるようにして、「あ、あのう……」と声をかけた。

 彼はわたしに目を向けた。その瞳。再びわたしは気圧される。それを振り払うようにわたしが口を開きかけたとき、男は言った。

「昨日は大変だったね」

 予想外の展開にわたしは頭が真っ白になる。

「はっ、はい」

 そう応えるのがやっと。

「でもまだ終わりじゃないみたいだ」

 そう男は続けた。わたしの困惑に拍車がかかる。まだ終わりじゃないって、どういうこと――?

「あっ、あの、わたしはただ、ひとことお礼が言いたくて。あのときあなたがわたしを止めてくれなかったら、きっとわたしは事故に巻き込まれていたんだって、あの、あとから気づいたんです。ありがとうございました。あのときはもう、気が動転してて。なにが起きてるのかもわからなかったし。でも、あとから考えたら、あれはあなたのおかげだったと――。でっ、でも、まだ終わりじゃないって、どういうことでしょう」

 わたしはそう一気に話しながら、なにか意味不明なことを喋っている妙な人って思われるかもって気になってしまったのだけど、男性は変な顔ひとつすることなくわたしの話に耳を傾けていた。そしてわたしの問いにひとつ頷くと、こう返した。

「うん、だから礼を言うのはまだ早いかも、ってとこかな」

 緊張しているせいか、どうも思考がまわらない感じがした。男の返事の意味が飲み込めない。

「すいません、話がよく見えないのですが……」

 わたしがそう返すと、男性は体をこちらに向けてきた。片肘をテーブルにつく姿勢でわたしをまっすぐに見る。わたしは目を合わせていられなくて、彼の手に視線を落とした。意外に繊細そうな指先だ。

「たしかにオレは昨日、君を助けた。でも世界はそれが気に入らなかったらしいんだな。それでオレはペナルティを科せられてしまった」

 ん? この男はなにを言っているのか――。わたしはどう反応したらいいのかわからなかった。

「だから世界はオレに挽回のチャンスを与えてくる、やりそこねた仕事を完遂させるために」

 やりそこねた仕事――?

 男は手元にあったコーヒーカップを手に取り、それを口元に運んだ。

「世界、って――。なんのことですか?」

 わたしがなんとか口にできた質問を耳にして、彼は体をわたしに向けたまま今度は顔だけを窓の外に向けた。

「世界は世界さ。この時空に存在するすべてのものの総称だよ」

「でも、あなたの言い方だと、まるで世界に意思があるかのような感じでしたけど」

「世界に意思はあるさ。そうでなければすべては混沌のままだ」

 このひとはいったいなんなんだろう――疑問がわたしの頭に浮上する。

「あなたには世界の意思がわかるってことなんですか?」

 わたしの言い方が徐々にトゲトゲしいものになっているのが自覚されたが、自分でもそれを止められない。

「誰にだってわかるさ、心を澄ませば。誰もが世界の一部なんだから」

 男は口調を変えることなくそう答えた。わたしにはこの問答が無意味なものに思えてきた。口を閉じて、とりあえず自分を落ち着かそうとカフェラテをひとくち飲む。

「ほら来た。挽回のチャンスが――」

 呟くように男が口にした。わたしは彼の横顔を見、それからその視線の先を追った。彼は窓の向こうになにかを見ていた。

「見ろよ。ロータリーに入ってきたあのシルバーのライトバン」

 男が顎で指した先には、確かに灰色の車がゆっくりと走っている。

「ハンドル握っている爺さんには持病があるみたいだな――」

 わたしはその車の運転席あたりに目を向けたが、遠いし暗いしでなにもわからなかった。男はクッと小さく笑う。

「ほら、今、まさにそいつが発作を起こしたよ」

 男は目を細めて外を見ている。その瞳に奇妙な光が宿ったような気がした。

「フ……、アクセルベタ踏みでここに突っ込んでくるぞ」

 そう男は呟いた。そして、まさにそう話すとおりに、その車はロータリーから急加速して、まっすぐにこちらに向かってきた。そのライトがまぶしくわたしを照らした。

 わたしは動けなかった。蛇に睨まれたカエルのように。

 窓の外で通行人の悲鳴が飛び交っているのをまるで非現実な夢のなかの出来事のように感じていた。

 わたしに向け、その車はまっすぐに歩道を乗り越え、今やカフェのガラスの壁に向かって突進してくる。

 ああ、もう終わりだ――。

 わたしはそう感じていた。スツールに腰掛けたまま呆然と目を見開いている自身を奇妙に客観的に観察している自分がいた。

 次の瞬間、わたしは大音響を耳にしていた。世界がくるりと一回転するのを目撃した。

 わたしは床に倒れていた。なにが起きたのかがわからなかった。わたしは背中から男に抱きかかえられるような状態になっていた。体に痛みはない。

 どうやら車が店に突っ込んでくる寸前に男がわたしの体を抱えて横っ飛びに身を投げたのだ、と認識した。

 わたしの腹のあたりをしっかりとホールドしていた男の両手がゆっくりとほどかれた。彼が立ち上がった気配がした。わたしは荒い息を繰り返しながら、首だけを動かして、わたしがさっきまで座っていたあたりに目をやった。

 跡形もなかった。舞い上がるホコリの向こうに、突っ込んできた灰色の車の前半分が唐突に店内に存在するのが見えるばかりだった。

 ようやく店内は騒然としだした。悲鳴が飛び交い、がたがたと椅子から立ち上がる客らの気配が感じられた。

 男がわたしに手を差し伸べていた。わたしは力なくそれをつかんだ。彼がその手をひっぱるにまかせ、なんとかわたしは立ち上がった。めまいがする。もはやなにも考えられなかった。

「教えてください!」

 わたしはそう口にしていた。そして男の腕をつかんだ。

「いったい、なにがどうなっているんですか!!」

 思わず叫ぶような形になってしまった。

 だが男性は表情をひとつも変えることはなかった。

「場所を変えよう」

 それだけを言って彼は踵を返した。

 わたしのカバンが床にころがっていた。それを拾い上げ、わたしは男のあとを追った。

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