エピローグ
「おっはよ〜、悠香。どうしたの、ぼうっとして。それになぁに、その格好。旅行にでも行ってたの?」
希美の声でわたしは我に返った。
「えっ」
わたしはきょろきょろと周囲を見回す。見慣れた眺め――会社のエントランス前にわたしはいた。出社してくる社員が次々にゲートを通過していく、いつもの朝の光景。
「なんでわたし、ここにいるの?」
思わずそう口にしてしまった。それが正直なわたしの今の感想だ。
「どうしたの、悠香。大丈夫ぅ?」
「それになんでバックパックなんか――。ちょっと待って、希美。今日って土曜日じゃないの?」
「ええーっ、なに言ってんの。今日は火曜だよ」
えっ、でも昨日は金曜日だったはず――わたしはジーンズのポケットからスマホを取り出したが、たしかに希美の言うことが正しいということが確認できただけだった。だとしたら土・日・月の三日間はどこに行った?
わたしは気を取り直す。とりあえず誤魔化すことを選択。
「ああ、ごめん。ちょっと昨日飲みすぎたみたい。もう平気だから」
そう言ってわたしはエントランスに向かった。希美は怪訝そうな顔でついてくる。
「ならイイけど……」
希美とわたしはゲートを通過して、ちょうど来たエレベータに乗り込んだ。箱のなかはすぐに出社してきた社員でいっぱいになった。
「ね、今日、一緒にランチしない? たまにはソトのお店でどう」希美がわたしに囁いた。
「うん、いいよ」
「じゃ、十二時半にエントランスで」
「オーケー」
営業部のある十二階にエレベータが到着し、「じゃね〜」と希美は降りていった。わたしはため息をひとつ吐く。ランチに誘ったのは希美流の心配の仕方だろう。それにしてもいったい自分に何が起きているのか、まったく見当がつかない。わたしは昨日は出社していたのだろうか?
十三階でエレベータを降り、そそくさと自分の席に着いた。隠すようにバックパックを机のしたに置く。隣の席の石塚くんが「おはようございます」と言ったので、わたしは控えめに「おはよう」と返した。彼は私の服装を見て言う。
「先輩、今日はカジュアルですね。まだ体調が本調子じゃないからですか?」
――わたしの体調が悪いと認識されているようだ。
「ん? まあね、そんなところ」
「千島先輩が風邪で休暇なんていったい何事かとみんなで噂してたんですよ。いつも言ってたじゃないですか、『わたしは有休は海外旅行のために使うから、風邪ひいても這ってでも出社する』って」
む。わたしは昨日、有給休暇を取ったのか。
「そんなの冗談に決まってるじゃない。わたしだって病欠することはあるの、か弱き乙女なんだから」
「それ、自分で言いますか」
その話し声が届いたらしき上司の宮沢さんが自席から声をかけてくる。
「おお、千島さん。風邪はもういいのか?」
わたしは声のほうを振り向いた。
「ええ――すいません、お休みを頂戴しちゃいまして」
「鬼の霍乱というやつか」
「ひどぉい。宮沢さんまで」
そういういつもの軽口の応酬。
そのときわたしは仕事の話で宮沢さんに確認しておかねばならないことがあったことを思い出していた。
「宮沢さん、そういえばジーバの新機能早期――」
そう口にしかけた瞬間、なんとも言えない、頭を締め付けられるような奇妙な感覚に襲われた。わたしは思わず目をつむる。心臓がハイテンポで鼓動を刻んでいた。
「ん、なに?」
宮沢さんが首を傾げていた。とりあえず、その件は後にしよう、と考えた。
「あ、いえ、なんでもないです。すいません」
わたしは前に向き直った。石塚くんが(やや)心配そうに声をかけてくる。
「先輩、まだツラそうですね、大丈夫ですか?」
「大丈夫、大丈夫。ちょっとめまいがしただけ」
実際、奇妙な感覚はもうウソのように過ぎ去っていた。なんだったんだろう――。
「ええーっ、この三日間の記憶がない⁉︎ ヤバいっしょ、それ。病院に行ったほうがいいって」
隠れ家的イタリアン・レストランでのランチのあとのアイスティーを飲みながら、わたしはついに希美に事実を話してしまった。その反応がコレである。ま、そうくるだろうとは思ってた。
「でも、それ以外はなんともないんだけど。あ、いや、たまに頭が痛くなるかな、締め付けられたみたいに――でも、それもホントに一瞬だけだし」
わたしは今朝、宮沢さんに話しかけようとしたときのことを思い出しながら言う。
「ダメ。それはマジやばいって。今すぐ病院に行って」
キッパリと言われてしまった。
希美に押し切られる形で、わたしは宮沢さんに断りを入れて午後に仕事を抜け、会社のそばにあるクリニックに行った。
そこでは症状とかを訊かれたが、結論は出ず、大学病院への紹介状を持たされた。緊急に明日診てくれるという。
はああ……。
翌日、休暇を取ってわたしは指定された大学病院を訪れた。
ここでわたしは生まれて初めてMRI検査というものを受けた。それと血液検査とかももちろん。結果、わたしは健康そのもの、という診断が下された。予想どおりではある。
記憶が失われた件については、ストレスによる解離性健忘か一過性健忘だろうとのことだった。日常生活に支障が出るようだったらそっち方面の専門家に診てもらう必要があると言われた。まあ、そんなに深刻にならずに気を楽に持て、とアドバイスされた。いや、わたし自身は別に深刻じゃないんだけど。希美に心配かけたくないから検査を受ける気になっただけだし。
というわけで、これにて無事解放となるかと思いきや、そこで別な事件が起きた。
それはわたしが看護師さんのあとについて検査室から移動していたときのことだ。部屋の離れたスミのところでなにかの順番を待っている青年の姿が目に入って思わずわたしは呟いた。
「ヌイ……」
なんで自分の口からその名が出たのかわからなかった。条件反射のようなものだったとしか。で、前を歩いていた看護師さんはそのわたしの呟きを聞き逃さなかった。
「あなた、彼のことを知ってるの?」
「え? あ、いや、そんな気がした……だけです」
「でも名前を知ってたよね⁉︎」
「え、あ、わかりません。ただ口をついただけで――」
「ちょ、ちょっと、ここで待っててね」
看護師さんはわたしを待合室においてどこかに消えてしまった。
そのあとが大変だった。
その青年はすべての記憶を失った状態でこの病院に担ぎ込まれたのだという。身元に繋がるものはなにひとつ所持していなかったそうだ。ただひとつ、自分の名が「ヌイ」であるということだけを覚えていたらしい(それはニックネーム的なものかもしれないと考えられている)。
わたしは青年の身元判明に結びつくための唯一の手がかりとされてしまった。とはいえわたしだって青年の名を知っていた(らしい)ということ以外はなにも知らない。ただこちらも三日分の記憶を失っている。わたしが青年の記憶喪失ともなんらかの関係があることも十分にありうると医師らからは推測された。
結局、医師の立ち会いのうえ、わたしと青年は面談をしてみることになった。それに際しては、嫌なら断って構わないとしつこいくらいに念を押されたのだが、わたしとしては別に構わないと思った。青年のことはチラと見ただけだが、好感のようなものを抱いていた。
面談は病院内の応接室のような場所で行われた。その場には青年と担当の医師以外に、民生委員だという中年女性が一緒にいた。どういう位置付けのひとなのかはわからないし、あまり興味もなかった。
青年と正面と向き合うことになった。わたしより少し若いだろうか。クール系のハンサムだと思った。
とりわけ目が印象的だ。
わたしはなにか心の奥底にあるものを揺さぶられるような感触をその目に覚えた。
彼とわたしは挨拶を交わした。
「オレの名をご存知だったと聞きました」
「ええ……。でも、わたしもそれ以上のことは覚えていないのです。ごめんなさい」
「謝ることはないです。オレもなにひとつ覚えていないので」
「でも……、ちょっと不思議です。ヌイ……さんとこうして一緒にいると、なぜだかとても安心した気持ちになるんです。すいません、会ったばかりなのに変なことを言って」
「いえ、構いません。それに……、オレもなぜか悠香さんのことをよく知っているような気がします。そう、ずっとずっと昔から」
そんな感じの会話でスタートしたものの、ヌイという青年とわたしの関連はわからないままだったし、青年の身元につながる情報も得られなかった。時間をおいて後日、再度の面談を設けようという話になった。
面談のあとでわたしはその民生委員だというひとから個別に話をされた――押し付けるつもりはまったくないのだが、青年は住むところがないので知り合いであるらしきあなたのほうでなにか配慮をしていただけるとこちらとしては非常に助かる、みたいな。本来ならばそういうひとを保護するための施設に受け入れてもらうのだが今はちょっと事情があって云々――。
なんだよ、わけわからんこと言ってんな、と思ったけど、もっとわけがわからないのは自分のほうだった。気づけばわたしは、
「わかりました。わたしがヌイさんを引き取ります」
と言っていたのだ。
それで民生委員さんとヌイとわたしは今後の話をすべくその病院の休憩室みたいなところに移動して、そこからさらにあーだこーだがあって、最終的に三人で一緒にいったんわたしのウチに車で向かうことになった。民生委員さんとしてはヌイが引き取られる環境を自分の目で確認しておきたいということらしい。
少し書類を書かないとならないから部屋の外で待っていてくれと言われてヌイとわたしは休憩室から出て、病院の待合室に移動した。もう診療時間が終わっているらしく、そこに人影はほとんどなかった。
ヌイとわたしはブラブラと歩いた。もう話すネタは尽きていた。この見知らぬ青年を引き取るということに不安はなくもなかったが、わたしはもう開き直りともいうべき心境に達していた。彼のほうはどうだろう? わたしを単なる親切なお姉さんかなにかのように受け止めているだけだろうか。
ふと眺めると、閑散とした待合室のベンチに寄り添うように座っているふたりがいて、なんとなくわたしたちのほうを見ているかの様子だった――青年と女の子。兄妹だろうか。髪がボサボサの女の子は小学生高学年くらいで、さっぱりとした好青年という風情の若者はヌイと同じくらいの歳に見えた。
わたしたちが近くに歩いていくと、その女の子がなぜか声をかけてきた。
「お兄さんとお姉さんはカップルなの?」
ませた子なんだろうな、と思いつつ、わたしは返す。少し調子を合わす感じに。
「いいえ。でも、そうなれたら素敵かもね」
はじけるように女の子は笑った。その隣の青年もニコニコしている。
「きっとふたりは素敵なカップルになれるわ。だってすごいお似合いだもん」
女の子のセリフにわたしも笑顔になった。ヌイも口の端をゆるめている。
そのとき民生委員のひとがやってきて「お待たせしました。行きましょう」とわたしたちに告げた。わたしは女の子に小さく手を振って「さようなら」と言った。
ベンチのふたりも手を振った。
「バイバイ。いつまでもお幸せに」
女の子の声をあとに、ヌイとわたしは一緒に歩き始めた。
なぜだか、その子の言うとおり、わたしは幸せになれそうな予感がしていた。
<了>