12. ユメマワシの夜 [Part 2]
わたしはスーツ姿だった。カバンを膝に乗せ、タクシーの後部座席に座っている。隣にはネクタイをしめた宮沢さん――わたしの上司――の姿があった。
車は湾岸エリアの広い道を走っていた。向かうのはジーバという顧客企業の本社ビル。クレイドの提供するクラウドサービスの新機能早期適用プログラムの説明をするためだ。通常、このようなケースでは営業担当者が同行するが、先方の担当者と宮沢さんが顔馴染みだということで、異例だけど今回はマーケティング部のふたりだけでの訪問となった。
真新しい高層ビルの前にタクシーは停車。日本の製造業を代表する企業のひとつが構えた新しい顔として注目を浴びたジーバの本社ビルである。
宮沢さんが料金を支払っている間にわたしは先に車から降りた。
そのとき、わたしのカバンから一匹のモモンガがするするっと出てきて、わたしの肩まで登ってきた。なぜだかわたしはそのモモンガのことを知っている。
「ダメじゃない、ついてきちゃ。わたしは仕事なのに」
そう肩のうえの生き物に囁きかけた。
「大丈夫。あたしはあなた以外のひとには視えないから。あたしのことは存在しないように振る舞って」
そんなものか、とわたしは思う。しかたがない。
宮沢さんがタクシーから出てきた。わたしたちはビルのエントランスに向かう。
広いロビーの奥に受付がある。わたしはそこまで歩いていき、受付嬢のひとりに用向きを伝えた。その間もモモンガはわたしの肩のうえを動き回っていたけど、たしかに受付嬢にはそれが見えていないようだった。
「それではこちらのカードで左手のゲートを通過いただき、高層階用エレベータで二十二階までお上がりください。降りて右手が待合室になっておりますので、そちらにてお待ちいただけますでしょうか。担当のものが迎えに参ります」
そう言って受付嬢は二枚のビジターカードを差し出した。わたしはそれを受け取る。少し後ろで待っていた宮沢さんにそのうちの一枚を渡した。
そのカードをリーダー部分にかざしてゲートを通り抜けた。エレベータは低層、中層、高層のホールに分かれていた。高層のほうに向かう。
ボタンを押すとエレベータのひとつの扉がスッと開いた。わたしたちはそれに乗り込む。オフィス用のビルにしては珍しく、壁がガラス張りで外の景色を眺めることができるタイプのものだった。わたしは22と書かれたボタンを押した。それから背後の景色に目を向ける。エレベータは上昇を始めた。
ごうという音とともに意外なほど近くを旅客機が飛行しているのが見えた。羽田からの離陸便だろうか。わたしはそれを見ながら奇妙なことを考えている。
――あれ、わたし、昨日飛行機に乗ったばかりだよな。そもそも今は北海道にいるんじゃなかったっけ?
ポンと電子音がしてエレベータが停止する。わたしの奇妙な記憶は消え去る。
宮沢さんとわたしはエレベータを降りた。ホールを出た先がちょっとしたスペースになっていて、そこにはソファがあり、インターホンも設置されていた。他に人の姿はなかった。受付で言われたとおりにわたしたちはそこで待った。宮沢さんはソファに腰掛けたが、わたしはその場に立ってあたりを見回した。そのフロアには会議室ばかりが並んでいるようだった。来客向けなのか、やけに全体が高級感に満ちたデザインだ。
と、廊下の向こうのほうから、ひとりの男性が歩いてきた。そのひとが担当のひとかなと思いつつ、なんとなしにわたしはその様子をうかがう。だんだんと距離が近くなる。
やけにさえない風貌の男性だった。ノーネクタイはともかく、そのヨレた白いワイシャツはところどころに汚れが目立ったし、きちんとスラックスに収まっていなかった。腹は出ていて背中は丸まっているし、髪の毛も乱れている。悪いけど、高級感漂うこのフロアにまったく似合っていない。
「クレイド様、お待たせいたしました。ご案内いたします」
わたしたちに頭を下げ、男性はそう言った。宮沢さんは立ち上がった。
男についていく形でわたしたちは廊下を進んだ。並ぶ会議室の番号をひとつひとつ確認しながら男は歩いていった。
「ん〜、臭い。臭いわね」
肩のモモンガが囁いた。臭いだなんて失礼だなあ、とわたしは思う。たしかに臭そうなひとだけど……。
やがてひとつの部屋にたどり着くと、男は頷いてそこのドアを開け、わたしたちに入るよう促す。わたしは頭を下げてその部屋に足を踏み入れた。会議テーブルがひとつと椅子が六つ。内装も家具も高級感のあるデザインだ。促されるままにわたしたちは奥の席に行き、荷物を置いた。わたしはカバンから名刺入れを取り出し、それを手にしたまま、まだ入り口の付近に立っていた男のほうに歩み寄った。
男はわざとらしく「あっ、そうだった」とでも言いそうな態度で、スラックスの後ろポケットから名刺入れを取り出した。わたしたちは順に男と名刺を交換した。いったん下がってから、わたしは男の名刺を眺める。そこには、「株式会社ジーバ 情報システム部 開発標準推進室 針木祥一郎」と書かれていた。
「そうよ、ハリキよ、ハリキ!」
耳元でモモンガが嬉しそうに言った。なにを興奮しているんだろう、とわたしは思うけども、皆がいる前でモモンガに訊いてみるわけにはいかない。
「すぐに篠崎と加藤も参りますので」
そう針木氏は言った。
その言葉のとおり、少しあとに二人の人物が部屋にやってきた。どちらも針木氏より若そうで、もちろんきちんとした格好をしていた。わたしは二人と名刺交換をした。「開発標準推進室 室長 篠崎良吾」と「開発標準推進室 主任 加藤かおり」とあった。宮沢さんは二人とは面識があるらしく名刺を交換しなかった。
宮沢さんが簡単に挨拶をしたあとで、わたしに進行を振った。慣れた調子でわたしは説明を始めた。
「データの活用は企業にとってますます重要になっています。企業の利用するシステムは多岐に渡り、データも増大する一方です。従来、企業様におかれましてはそれぞれ独自にデータウェアハウスやデータレイクを構築し、維持してきました。しかしながらオンプレミスの環境においてはデータの増大にシステムの拡張が追いつかない、というのが企業様における悩みのひとつでした。これがクラウドの時代になり、システムのリソースは必要なときにクリックひとつで追加できるようになったわけです。ところが……」
わたしの口からは淀みなくセリングトークが出てくる。新機能早期適用プログラムの紹介である。これはクレイドの提供するクラウドサービスに追加される新機能を一般の顧客に先駆けて特定のユーザーのみに利用してもらうプログラムだ。今回の新機能は『データレイクオプション』というものである。
三人とも関心を持って聞いてくれ、わたしは最後までスムーズに話すことができた。
「いいですね、ぜひウチでも使ってみたいなあ」と篠崎氏は言った。加藤氏も頷く。
「針木さん、あれ、どこだっけ。あったじゃない、データの量が膨大になりすぎて対応に追われてるって言ってたトコ……」
針木氏は頭をひねった。
「ああ……、あれは……、発電プラント事業部ですね」
「ああ、そうだった。これ、いいんじゃないかなあ、そこに」
わたしは内心、ちょっと待って、これはまだなんの実績もない正式公開前の新機能なんだぞ、そんな公共セクターの高度な信頼性が求められているような環境に適用するのはいくらなんでも時期尚早なんじゃないか――などと考えているが、せっかく乗り気になっている顧客に水を差すようなことは立場上、口にできない。
その後いくつか質疑応答があったのち、打ち合わせはなごやかに終了した。
けど、わたしにはもやもやとした気分が残った。
「なぜ浮かない顔をしているの」
肩のモモンガが囁いた。
――だってウチの製品、不具合の多さでは定評があるのに、新機能をいきなり公共の案件で利用するなんて言われてもなぁ。でもウチ側からは言えないじゃん、信頼性に欠けるだなんて。ま、彼ら自身は公共セクターの担当じゃないからあんなことを言ってるだけで、現場のほうでストップをかけてくれるとは思うけど――。
「なるほどね」
モモンガは笑った。
ジーバの三人はエレベータホールまでわたしたちを見送った。一台が到着し、宮沢さんとわたしはお礼の言葉を繰り返してから中に乗り込んだ。扉が閉まってからわたしはお辞儀していた頭をあげ、くだりはじめたエレベータのガラスの壁から、少し放心したように外の景色を眺めた。またも旅客機が近くを通過していくのが見えた。
その様子に目を奪われた。心には唐突に疑問が湧く――わたしは、今、どこにいるの? ヌイがそばにいてくれないと危険じゃないの……。
次の瞬間、わたしは旅客機の座席に座っていた。
隣にはヌイがいる。
「ヌイ――」
ヌイはあの目でわたしを見た――限りなく冷酷、かつ無限なる慈しみに満ちた瞳。
「わたし、寝てたのかな」
彼の口が囁く。わたしの耳元で。
「わたくしのそばを離れぬよう、申したはずですぞ、姫」
「え?」
気づけばわたしたちはしんとした森のなかにいた。わたしは壺装束の旅姿で、彼は直垂姿だ。そのことを不思議に思う気持ちはなかった。
いきなり彼はわたしを抱きしめた。わたしはなにも考えられなくなる。この瞬間が永遠に続けばいいのにとだけ願っている。
そのわたしの肩でモモンガが飛び跳ねている――なんで? 邪魔しないで。今、いいとこなのに――。
肩を揺すられていた。
わたしは目を覚ました。開けた目にのぞき込むリセの姿が映った。彼女がわたしの肩を揺すっていたのだった。
「ごめんね、起こしちゃって」
部屋はまだ薄暗い。何時だろうか。
「んーん。もう起きる時間?」
「そうじゃないの。今、悠香さんが見てた夢のことなんだけどね、一旦、忘れてほしいの。覚えてるとソラヨミに会うのに妨げになるかもしれないから」
「へ?」
何を言っているの? と思うまもなく、リセはわたしの目のすぐ前で両手を、パン、と打ち合わせた。
次の瞬間にはわたしは眠りに戻っていた。