10. おじいさんとリセ
目が覚めると部屋全体が夕日に染まっていた。
わたしは体にかけられていたタオルケットをどけて、安楽椅子から立ち上がった。部屋には誰もいない。けど、奥の台所から料理の支度をしているらしき音が聞こえた。窓の外を眺めると、西日が遠い森の向こうに沈みかけていた。逆光なので森は真っ黒にしか見えない。目の前が牧草地なのだけども、ここに来たときにそこにいた羊の姿は、今は見えなかった。
リセに招かれてわたしたち三人が家に入ったあと、皆はこの部屋で談笑していた。でも、ずっと運転していた疲れからか、わたしはすぐにその場で居眠りをしてしまったようだ。座った安楽椅子の快適さもわたしの睡眠を促した。
おじいさんとふたりでこの家で暮らしている、とリセは言ったのだった。その老人はわたしたちに挨拶だけをして奥に消えた。
台所からの音以外はなにも聞こえてこない。ヌイたちは外に出かけたのだろうか。
部屋の奥側がダイニングになっていたが、そこは小さな喫茶店のような作りをしていて、壁を向いてカウンターがあり、その向こう側がシンクである。そこからつながる形に左手が台所のようだ。わたしはカウンターのところに行って、台所のほうを覗いてみた。そこでは老人がひとり、料理の手を動かしていた。
「あのぅ、なにかお手伝いしましょうか」
わたしはそう声をかけた。
「ああ、目が覚めたのかね。お茶でも飲むかい?」
老人は顔をあげてそう言った。
「あ、いえ、わたしは」
「ワシも一服しようとしていたところだよ。紅茶とコーヒー、どっちがいい」
「あ……、なら、紅茶を。すいません、ありがとうございます」
老人はヤカンに水を入れてコンロに乗せた。わたしはカウンターに並んでいるスツールのひとつに腰掛けた。
「リセさんたちは出かけたのですか」
わたしは尋ねる。とりあえず黙っているのもどうかと思ったので。
「ああ。散歩に出かけると言ってな。夕飯までには帰ると」
老人は棚からカップをふたつ、取り出した。
「この家は以前、ペンションのようなことをやっていてね。今は畳んでしまったんだが」
老人は言った。
「そうだったんですか。いいところですよね、このあたりは。涼しくて」
「お嬢さんは内地の人?」
内地という言葉はわからなかったが、おそらく本州のことを指すのかなと思った。
「東京からです。北海道には初めて来ました」
老人は頷いた。
「今はいい季節だが、このあたりは年の半分以上は厚い雪に覆われていてね。暮らすには大変なとこだよ」
「そうなんですか……」
老人は紅茶のカップをわたしの前にコトリと置いた。
「ありがとうございます。いただきます」
わたしはそれを手に取り、少し啜る。
老人は自分にはコーヒーを淹れたようだ。カウンターの内側で背後に寄りかかってそのカップを口元に運んだ。
「お嬢さんは――、その、こんなことを聞くのもどうかとは思うんだが――、普通の人間なのかね」
へ? なんなの、その質問……。
「ええ、まあ、普通の人間だと思いますけど」
「そうか、そうだと思ったよ。いや、そこでみんなで話している様子を見てな」
「はあ。それは……、どういう意味でしょう。リセさんとか、ヌイやモルトと比べて、ってことですか?」
老人は曖昧に頷いた。わたしは続ける。
「たしかにヌイやモルトにはちょっと不思議なところがありますけど……。リセさんもそうだということでしょうか。彼らは自分たちのことを同胞だとか言ってましたが……」
それには答えず老人はカップを傾けた。そしてカップを流しに置き、少し迷ったような表情をしたあと、口を開いた。
「リセがここに来て、かれこれ七年になるだろうか、その年の最初の大雪が降った日、リセはこの家にやってきた」
七年。今のリセはおそらく十一か二くらいだから、あの子が五歳くらいのころの話ということだろうな、とわたしは考える。
「その少し前にワシは連れ合いを亡くしていてね、このペンションも続けられなくなって畳んでしまった。ワシは生きる意味を見失っていた。なにも手がつかず、自暴自棄になっていた。メシもろくに食わず、当然、冬を越す準備もしておらんかった。リセが来なければ、そのままここに閉じ込められたまま野垂れ死んでおったろう。リセの世話をすることでワシは生きる意味を再び取り戻したのだ。ワシにとって彼女は天使のようなものだ」
「そうだったんですか。リセさんはご親戚かなにか、ということだったんですか?」
「いや、そういうのではなく、リセはなんの前触れもなく、この家に来たんだ」
んー、よくわからない話だな……。
「どなたかが連れてきた、ということですよね」
「いや、リセはひとりで来たんだ、ここまで。そう本人が言うとった」
「え、でも、七年前の話ですよね。そのころのリセさんはいくつだったんでしょう。四歳とか五歳くらいだったんじゃないですか? そんな小さな子供が大雪のなかをここまでひとりで来た、ってことですか?」
わたしの問いに老人はどう答えようか迷っている表情だった。そして、意を決したように口を開く。
「リセは初めてここに来たときから今のままの姿だった。歳については訊いたことがない。訊こうと思ったことがなかったわけじゃない。だが訊けなかった。訊けば彼女はここからいなくなってしまうかもしれん、それが怖かった。その他のことについてもそうだ。ワシはすべてに目をつぶることにした、どうせここにはワシとリセしかおらん。ワシさえ目をつむれば誰もそれを問題視することはない――ああ、それからもちろん、ワシの頭がボケてしまったという話でもない。幸い、頭はまだしっかりしておる」
七年前から今のままの姿? つまり歳を取らないってこと?
ボケたわけじゃない――などと言われても、おいそれと信じられるような話ではなかった。なんかの病気で歳を取らないように見えるっていう人の話をテレビで観たことがあるけども、リセは見たかぎり健康なごく普通の子供であり、そんな特殊な例には当てはまりそうもない。わたしは困惑する――老人にどう反応したものか迷った。
ふとわたしは、ヌイが自分らの仲間には必要があれば自然と会えるという話をしていたことを思い出した。
「リセさんのところには、今まで、今回のヌイやモルトのように知り合いが訪ねてくるということはあったんでしょうか」
老人は頷いた。
「ああ。ひとりだけだが。彼女の伯母にあたるという女性が何度か来た。若くて、ものすごい美人だ。トートとか言ったかな。用事があると言って何日かリセを連れて行ってしまうこともあったが、リセは必ずここに帰ってきてくれた。彼女がいない間はもう気が気ではないのだが」
「なるほど……」
ヌイの口からトートという名を聞いたような覚えがあったが、どういう流れでだったかは思い出せなかった。
「そのひとからはなにか訊かなかったんですか、リセさんのことを」
「うむ……。なんというか、リセに対してもそうなのだが、彼らにうかつなことを訊いてはいけないように感じるんだ。すべてを台無しにしてしまう恐怖と言えばいいか――。あんたのお連れさんに対しても感じるのだが、怖いんだ、問い詰めて、ものごとを明らかにしてしまうことがな。あんたは違う。あんたは普通のひとだと感じた。だからこうしてなにもかも喋ってみる気になった。全てに目をつむることにしたとは言え、それをひとりで抱えているのは正直、苦しくもある。あんたには申し訳なかったかもしれんが、喋らせてもらったというわけさ」
「いえ、申し訳ないなんてことはないです。わたしも聞けてよかったです。それに、ええ、わかるような気もします。彼らに質問をして真実を知ってしまうことが怖いというのは――」
たしかに思い当たるところはあった。ヌイが何者なのか知ってしまうのが怖いという感覚は、言われてみれば確かに自分のなかにもあったように思えた。わたし自身、ヌイが普通の人間とは異なる存在であることは心のどこかでわかっていたのだろうか……。そしてこの老人と同じようにそのことには目をつむり、自分の命を助けてくれるヌイの存在にすがるしかなかったのかも――。
「あんたと話できてよかった。聞いてくれてありがとう」
「いえ、そんな……、こちらこそありがとうございます」
そのとき、玄関のほうでドアが開いた音がした。それから「ただいまぁ」という少女の声。
「おかえり。ごはんの準備が出来とるよ」
老人はそう声を張り上げた。それから台所のほうに引っ込んでいった。
わたしにはもやもやとした気分が残った。リセが七年前から今のままの姿だったという話。ヌイやモルトもそうなのだろうか。だとしたら彼らは本当は何歳なのだろう。そして一体、何者なのか――。
三人がどやどやと部屋に入ってきた。見ればダイニングのテーブルにはすでに五人分の食器が並べられている。
「じゃあ、みんな座ってくれる?」とリセ。
想いに沈み込んでいたわたしは、リセの言葉で急に我に返ったかにスツールから立ち上がった。とりあえず何も知らない・気にしてないという態度をつらぬくしかないと思っていた。ヌイたちが何者であろうが、今のわたしにとって唯一頼ることのできる味方であることは間違いないのだ。その関係を崩すようなマネだけは避けねば。
リセはわたしを見ながら言う。
「はい、悠香さんはここ」
そうして高級なレストランのウェイターがするようにテーブルの椅子を引いた。わたしは「ありがとう」と言いながらそこに腰掛けた。リセはわたしが座るのに合わせて椅子を押しながら、わたしの耳元に囁いた。
「おじいさんとお話しできた?」
わたしは少し驚きながら返す。
「え、ええ」
「よかった」
リセはそう言ってにっこりと笑った。