1. 白いシャツの青年
「はあぁ」
料理の載ったトレーをテーブルに置いて、椅子に座ったとたん、わたしは特大のため息をついてしまった。慌てて周囲を見回して知った顔がないことを確認する――別に誰に聞かれてしまったところで困るわけではないのだけれど。
夜のカフェテリアは若手の社員ばかりで賑やかだ。家族持ちの先輩社員たちには当然自宅で夕食が待っているのだろうけど、そうではない皆にとって格安でそこそこまっとうな食事にありつくことのできるこの社内カフェテリアはありがたい存在だ。おまけに金曜の夜にはタダでビールが飲めたりもする(残念ながら今日は木曜日)。そんな話を学生時代の友人たちにすれば当然のごとく誰もが羨ましがるのだけど、自分でもホント恵まれてるな、と思う。会社に感謝。バブリーな外資系ITグローバル企業に乾杯。
なんだけど、今はいつものいきおいでトレーに載せた料理を前に、ちょっと食欲の減退を感じてる。ま、取ってしまったものはしょうがない――と思いつつ、とりあえずスープに口をつけていると、希美もトレーを手にやってきた。別に待ち合わせているわけじゃないんだけど、入社以来の同期の友人である彼女とはほぼ毎晩のように一緒にここで食事をしている。
「お疲れ〜、悠香。今日も『魔の木曜日』だったみたいね。大変だった?」
そんなことを言いながら彼女はわたしの向かいに腰掛ける。営業担当の彼女にとっては『魔の木曜日』はヒトゴトだ。普通の日本企業だったらそうはいかないだろうけど、外資系らしくウチでは契約前と後で担当がきっちり分かれているから、サービスの一時的障害など直接に彼女の仕事には影響しない。それでも今日のトラブルは彼女の耳にまで届いたようだ。
「ほんっとにシャレにならないわ。もう今日はスラックとジラに打ち込みまくりよ、マジ疲れたわ」
彼女を前にわたしも少し元気を取り戻したのか、ため息まじりにそう返した。さっきまではそれを口にするだけの気力も失せていた。
魔の木曜というのはこういうことだ――ウチの会社がクラウドで提供しているサービスは週に一度、不具合修正のためのマイナーリリースが行われる。それはアメリカ本社の現地時間で毎週水曜の深夜に実施される慣わしだ。深夜に実施されるのは、当然、利用客に影響が少ない時間帯を狙ってのことなのだろうが、まったくもって迷惑なことに日本時間ではそれが木曜の真っ昼間になってしまうのだ。リリース作業はクラスタ化された無数のサーバ群に対し順次適用されていく形なので、サービス自体は停止しない。たまに運の悪い利用者側のブラウザにエラーが表示されることがあるけども、再読み込みすればいいだけ。ただ問題は、リリースで適用されるパッチによって別の不具合が引き起こされることが少なくないことなんだな。テクセンの佐藤さんなんかは口癖のように「ウチの自動テストはいったいなんのためにあんだよ」と文句を垂れてる。本来ならば事前に実施される自動テストによって不具合はあぶり出されるはずなのだと。わたしはエンジニアではないので詳細はわからないけども、本社側の行っている自動テストでは日本語環境で画面を操作したときの想定が甘いようだ。そのため木曜の昼過ぎとかに各所から悲鳴が聞こえてくることになる。それが『魔の木曜日』。
わたしの担当するプロダクトでそれが起きると(今日がそうだったわけだが。ちなみに弊社の提供するクラウドサービスは多岐に渡り、誰も全体像を把握していないとさえ言われるほど。クレイドは企業が必要とするあらゆるサービスを包括的に提供する)、それをUS本社側に報告して修正させるのはわたしの仕事となる。いったいどんな不具合が発生しているのかをテクセンとかカスタマーサクセス部隊のエンジニアに確認してもらってできるだけ詳細化し、それが日本国内のビジネスにどれだけインパクトを与えるのかを金額レベルに落とし込み(当然かなり大袈裟に見積もるわけだが)、プログラムのコードを修正するよう要請するわけ。そこまでやらないと向こうは動いてくれない。こちらの期待するほどUS側が優先度を上げてくれない場合には部長経由で執行役員からエスカレーションしてもらうこともある。日本企業が求めるサービスレベルをUS側はどうしても理解できないようなので、往々にしてそういうことが起こってしまう。即座に修正が必要なレベルの不具合である場合は(くどいけど今日がそうだった)もっと力技が要求される。あっちが反応してくれるまでひたすらスラックで関係者にメンションを投げ続けるとか。なにせ向こうは深夜なわけだし。
「お勤め、ごくろうであった」
フザけた口調で希美が言う。わたしたちは笑った。食欲が戻ってきたのを感じ、わたしは料理にパクついた。うん、んまい。
いつもよりも遅い時間の電車に揺られる。
午後がまるで仕事にならなかったので残業が長引いた。といっても世間のIT企業の人たちからすれば鼻で笑われるレベルだろう。わたしの残業時間は月にすればせいぜい二十とかだ。裁量労働制だから残業代がつかないんで、やればただ働きになるだけだし。
思えば、毎月百時間を超える残業を強いられ薄給に喘ぐエンジニアらがこの国のIT産業を支えている一方で、そういった人たちの参画しているプロジェクト予算からべらぼうな金額のサービス利用料を巻き上げているのがウチの会社なわけで、わたしたちがのんびりと社内カフェテリアで食事していられるのもそういった、いわゆる〝底辺エンジニア〟諸君の犠牲に成り立っている――なぁんてことがたまに頭の片隅をよぎったりもするけれど、しょうがないじゃないの、としか言いようがない。わたしが高給をもらって、いい部屋に住んだり、いい服を着たり、夏にはまるまる十日も休暇をもらって海外旅行に行ったりするのも、過労死寸前まで働かされている底辺エンジニアの労働のうえに成立しているというのは事実かもしれないケド、それは単にこの日本社会の図式が一例としてそこに凝縮されて観察できるというだけのことにすぎないの。それが嫌なら社会主義の国にでも移住しろよ、って話。ま、社会主義国の内情はもっと酷いものだろうと思うけど。
電車の窓が濡れている。雨が降っているのか。今年は梅雨明けがむっちゃ早かったけど、ここ数日は梅雨が戻ってきたかのような天気が続いていた。夏――一年で一番好きな季節――の日差しが恋しい。
傘は持っている、というか軽量の折り畳み傘をカバンに入れっぱにしている、ので別に困るわけではないが、ちょっと憂鬱ではある。雨の中を歩くのは。
電車が駅に到着し、わたしは降車する他の大勢の乗客らにまぎれて改札に向かう。なかなかに降りる人が多いので、流れに合わせて移動する以外のことができない。
改札を抜けて駅舎を出るあたりで人が滞留しているようだ。傘を広げるために立ち止まる人が多いからだろう。いいけど出口にまで来てようやくカバンから傘を取り出そうとするのはどういうことなんだよ、と思ってしまう。改札を出たあたりでも雨が降ってるのはわかるだろうし、そこから駅舎を出るまでに距離があるんだから歩きながらでも傘は取り出せるだろ、両手に荷物を抱えているとかでない限り。なんなら畳まれた傘をすぐに開ける状態にまでスタンバっておくことだってできるはず。皆がそうすれば出口で渋滞なんて起きないだろうに。
いや、わかっている。わたしの見方は狭量すぎるのだろう。というか幻想なのだ、皆が理想的な振る舞いをするなんて。なぜならわたしの考える理想と他の人の考える理想は違うから。わたしが全体の効率を求めているのと同じように、一時点ではひとつのことしか考えずに物事をすべて逐次処理する――つまり雨があたる場所に到達した時点で雨に気づいて、歩くことを一時停止し、はじめてそこで傘のことを考える――のが理想だっていう人もいるってこと。多様性を抱擁せねば。
なんてな。
世の中に愚かしい人が多いほど、わたしの勝ち組の座が安定するのだから、むしろ感謝せねば、そういうヒトタチには。みんなが利口になって底辺から抜け出してしまったら困るじゃないか――そんなことになるはずもないので心配はしてないけどな――。
わたしは傘をさして駅舎から抜け出た。
霧雨だった。
いつもの調子でガシガシ歩き始めたら、すぐに傘がほとんど役に立ってないことに気づいた。せいぜい首からうえが雨に濡れるのを回避できてるだけかな、って感じ。ブラウスが濡れて重みを増していく。もう少しで体にまとわりつき始めそう。
いっそ傘を畳んでしまおうか、とも思ったけど、髪の毛まで濡れてしまうのもヤダな、と考え直す。少しでも体が濡れないように傘を前に深く傾けた。前方が見えにくくなるけども、慣れた道だから大丈夫だろう。
駅前のロータリーから、少し離れた幹線道路へと繋がる、一方通行の細い道路。そこにはいつものように信号待ちの車が列をなしている。信号が青になる時間が短いので一度で列が捌けることがない、少なくともわたしがここを通りかかる時間帯には。
今、わたしの歩いている横で、信号待ちの車列が動き始めた。傾けた傘のせいで前が見えてなかったけど、どうやら信号は青に変わったようだ。この位置からなら少し走ってでも渡ってしまったほうが得策のはず。赤になれば次の青まではかなり待たされる――。
そう考えたわたしが傘をあげて前方の信号を確認し、まさに駆け出そうとした瞬間のことだった。
突然、前から歩いてきた男性がわたしの腕をつかんだ。
何事?
――まずはそう思った。この場で誰かに腕をつかまれるいわれなどない。
とっさにその手を振り払おうとするけども、意外にその力は強い。
男の顔を睨んだ。
ひょろっと背の高い、白いシャツを着た青年だった。見覚えはない。その表情からはなにも読み取ることはできなかった。ただ不思議なまなざしがわたしを見下ろしていた。
わたしはたじろいだ。なんだろう、その瞳にわたしがこれまでの人生では見たことのないものを見た気がした――このひとは誰だろう、なぜわたしの腕をつかんだのだろう、人違いとかではないのか、なぜ表情も変えずにまっすぐにわたしの目を見ているのか。
そんな思考が駆け巡った。
だが、次の瞬間、わたしの混乱に拍車がかかる。
けたたましい急ブレーキの音があたりに響き渡った。幹線道路のほうからだ。そしてそれが、ボン、という衝突音に収束した。車同士がぶつかったような。
反射的に音のしたほうを振り向いたわたしの視界に、衝突で弾き飛ばされてくる一台の車が映った。
こっちにくる――!!!
身がすくんだ。
ドン、という衝撃音。それとともにズシンという振動が足に伝わる。ガラスの割れた音のあと、クラクションが鳴りっぱなしになった。
その車――紺色のセダン――は、わたしの目の前、わずか1メートルほどのところにある電柱にぶつかって止まったのだった。
わたしは愕然となってそれを見ていた。
ワンテンポおいてから、わたしの足がガクガクと震え出した。
わたしは身動きひとつできなかった。いや、立っているのもやっとだった。