カーラ
あの日、あの時、あの瞬間。
わたしの恋人が親友の婚約者になったことを知って、思わず神さまを呪った。
わたしの親友であるシアーシャは、伯爵令嬢で子爵令嬢のわたしよりも身分が高くて気品に溢れる、淑女の鑑のような子。まっすぐな黒髪がさらさらで羨ましくて、最初は憧れの存在だった。けど運よく同じクラスの近い席になって、話をするようになって。ちょと近寄りがたいと感じていた雰囲気は話をすればふんわりと和らいで。
シアーシャと仲良くなれたことは、わたしにとってかけがえのない財産だと思う。
そんな彼女と友好を温める一方で、わたしはとある男性と恋に落ちた。
本当ならば到底身分が釣り合わないひと。朗らかで優しくてかっこいい、奇跡みたいなひと。
オーウェンは何もかもが完璧なひとで、迷子になっていたところを助けられて以来、わたしはすっかり彼に夢中だった。
そして奇跡的にオーウェンもわたしのことを好きになってくれて、数ヶ月も経たないうちに恋人同士にまでなれてしまった。
嬉しかった。人生で一番、幸せだと感じた。嘘じゃない。
でも同時に、いつかこの幸せを手離さなければいけないことは、夢見がちと言われるわたしでもちゃんと理解していた。
だってオーウェンは侯爵家の跡取りで。わたしはしがない子爵家の三女で。
持参金だってほとんど出せない我が家が侯爵家と縁づくなんて現実的には不可能だ。
いずれわたしは父さまが決めた縁談に従って嫁ぐ身なんだって、入学前からちゃんと分かってた――だから、分かってたからこそ、学院にいる間だけは自由でいたかった。
オーウェンが好き。この気持ちは誰にも負けない。一年近く秘密の恋人関係を続けていたこともあって、わたしにはその自負があった。加えてオーウェンの婚約者となったのはシアーシャで。
そもそも最近できた婚約者を紹介するという話の中で、シアーシャは彼のことをまだ好きとも嫌いとも言っていなかった。ただ、いい関係を築いていけそうだと柔らかく笑っていただけ。ということはまだ彼女は彼に恋をしていない。なら、いいじゃない。わたしの方が先に好きになったのだから。学院時代の間くらいは、譲ってくれたっていいじゃない。
そんな気持ちを抱えながら、わたしはオーウェンに抱き着いて涙を流しながらシアーシャに懇願した。このひとを取らないでって。卒業するまでは恋人のままでいさせてって。
シアーシャは最初こそ激しく動揺していたけれど、わたしの想いが通じたのか最終的には認めてくれた。それどころかオーウェンとの逢瀬の時間を作る協力までしてくれた。本当に感謝してもしきれない。まさに最高の親友。この恩は絶対に忘れないでいようと心に誓った。
――最初は本当にそう思っていた。けど、わたしは徐々に気づき始めてしまった。
シアーシャではなく、オーウェンの方が彼女に惹かれていっていることに。
当然と言えば当然だった。自慢の親友であるシアーシャは同性のわたしの目から見ても魅力的に映る。もともとは政略結婚での縁談とはいえ、交流が続けば情だって湧くのも無理はない。
しかし、わたしはそれを酷い裏切りのように感じていた。
オーウェンは愛しているのはわたしだけだと口にしながらも、ふとした瞬間に視線はシアーシャを捜している。声を掛ける機会を窺がっている。好きなひとのことだからこそ分かるのだ。
それでもわたしが平静を保てたのは、シアーシャの方がオーウェンと一線を引いていたから。
やはり彼女はオーウェンのことを政略結婚のパートナーとしてしか見ていなかったのだろう。そうでなければわたしとオーウェンの関係を許すはずがない。
だからわたしは遠慮なくオーウェンとの逢瀬を繰り返し、存分に愛を強請った。
学院にいる間だけは、彼はわたしだけのもの。ひとり占めしていいのはわたしだけ。
そのためなら純潔を差し出す覚悟だってあった。けれどオーウェンは真面目なひとだから、わたしの誘惑には乗ってくれなかった。残念だったけれど、その代わりに何度も何度もキスをして抱きしめて愛を囁いてくれたから我慢できた。
ずっとこの時間が続けばいいのに――本気でそう思っていたけれど、終わりはどうしたって訪れる。
父さまから縁談がまとまったことを知らされたのは、卒業まで残り二ヶ月という頃のこと。
相手は隣国沿いの辺境で辺境伯の側近として働く文官の男性という話だった。年はわたしとはひと回りほど上の三十歳で領地はないが男爵位を持っており、辺境伯からの信頼も篤い方らしい。
持参金なしでもらい受けてくれる先ということで父さまは非常に満足そうだった。わたしの下にもまだ弟妹は四人いる我が家だからこそだろう。わたしに拒否権はなかった。
遠方ということで直接会えない代わりに相手方からは丁寧で気持ちの篭った手紙と質の良い髪飾りなどの贈り物を何度か貰ったが、わたしは最低限の礼状を書くことしかしなかった。どうせ三ヶ月後には嫁ぐことが既に決まっているのだから、親交を深めるのは辺境に入ってからでも遅くはない。そう思って。
それよりも嫁ぎ先が具体的になったことで、わたしのオーウェンへの愛は激しさを増した。まるで蠟燭の燃え落ちる最後の輝きのように。シアーシャが近くに居ても気が回らないほど、わたしはオーウェンとの儚い日々を胸へと刻み付けるように過ごした。愛するひとの温もりを、決して忘れないように。
オーウェンはそんなわたしに戸惑いを見せてはいたけれど最後まで拒絶しなかった。シアーシャよりもわたしを優先してくれた。それが彼の真実の愛なのだと、わたしは強く感じることができた。
悔いはなかった。卒業式の日にシアーシャと話をしている最中も、思っていたより心は穏やかでいられた。それは彼女がわたしと彼との思い出作りを最後まで邪魔せず見守ってくれたおかげ。改めて心から感謝した。
同時に、シアーシャには幸せになって欲しいなと思った。……いや、きっと幸せになれるだろう。
だって彼女の結婚相手はオーウェンなのだから。恋人のわたしが幸せだったように、きっとシアーシャも幸せになれる。それに結婚すれば彼女だってオーウェンのことを遠からず愛するようになるはずだ。彼は本当に素敵なひとだから。
羨ましくないと言えば嘘になるけれど、わたしは一生分の思い出をもらったから。
これから遠く離れた辺境の地で好きでもない相手と結婚するけれど、この思い出さえあれば乗り越えられるはずだ。
そう自分を納得させながら、わたしは卒業して間もなく辺境へと身一つで嫁いだ。
「ようこそ、我が花嫁殿。来訪を歓迎する」
お屋敷で出迎えてくれた旦那さまは、文官という職業から想像していたよりも遥かにがっしりした体格の、男らしさを強く感じさせる赤銅色の髪が印象的な美丈夫だった。オーウェンはどちらかといえば線の細い方だったこともあり、対照的な精悍さに胸が騒めく。また三十歳という年齢をあまり感じさせないほど旦那さまは若々しかった。若手の武官と言われたらきっと信じていたに違いない。
「長旅で疲れただろう? 多少はゆっくりしてくれ」
「ありがとうございます。その、旦那さま? この後のご予定は――」
「ああ、屋敷の中でなら君の好きなようにしてくれて構わない。悪いが仕事が立て込んでいるんだ。詳しい話はまた夜に」
そう言って旦那さまはわたしを置いて屋敷から飛び出していった。聞くところによると、辺境伯の右腕として毎日仕事に追われる彼は屋敷には滅多に寄り付かないとのこと。
申し訳なさそうな使用人に苦笑を返しながら、わたしはどこかホッとしていた。
まだオーウェンのことを愛している身としては、いきなり距離を詰められるよりずっと気が楽だ。少しずつ互いを知って、ゆっくりと穏やかな夫婦になれたらそれが最善。
しかし、そんなことを考えていられたのはその日の夜までだった。
仕事から帰って来た彼は湯あみもそこそこにわたしをベッドに押し倒し、あっという間に初夜を終えた。
会話も何もあったものではなかった。わたしは恐怖を感じながらも、それを表に出さないようにするので必死だった。対する旦那さまは顔色一つ変えず、淡々と作業のようにその行為を完遂した。
事後、あまりの出来事に呆然とするわたしへ旦那さまは言った。
「君の仕事は俺の子を産み育てることだ。それ以上のことは何も要求しない。今日は初夜だったから一応抱いたが、次からは子ができやすい日にのみ抱くからそのつもりで」
「し、仕事って……そんな、わたしは……」
「君も貴族の娘なのだからその辺りは弁えているだろう? 事前の手紙からもそれは十分に窺えたからな。無駄な交流を必要としないなら、こちらとしても好都合だ」
わたしは言いようのない衝撃を受けていた。確かに貴族同士の結婚は義務が優先され、愛など必要としない場合も多い。わたし自身、オーウェンのことを密かに想い続ける人生でも良いと思っていた。けれど、心のどこかでは少なからず期待していたのだ。
だって愛しい恋人はもう親友のもの。
ならわたしだって嫁ぎ先の相手と仲を深めて幸せになりたい、と。
しかし初日から旦那さまにその気が一切ないのは明白。わたしはどうすればいいのか分からず、仮眠を取ると言って夫婦の寝室から出ていく旦那さまを見送ることしかできなかった。身体だけでなく色んなところがじくじくと痛んで、自然と涙が溢れ出た。けれど、もうわたしの涙を拭ってくれる恋しいひとの手は失われている。
旦那さまは有言実行の方だった。本当に私という個人には興味がないのだろう。必要な時以外は屋敷に戻ってこない彼をただただ待つ日が続いた。朝食どころか夕食の席ですら数えるほどしか共にできない生活。夜の営みも初夜同様に作業のような雰囲気で甘さなど欠片もない。
それでも拒否や拒絶はできなかった。わたしは単身でこの辺境に嫁いできた身だ。味方はいない。屋敷の使用人たちは多少同情的だが、それでも明確にわたしの味方になってくれるような者はいなかった。
孤独だった。いつしかわたしは旦那さまとの関係構築を諦め、学院時代の輝かしい思い出に浸りながら日々をやり過ごしていた。オーウェンに会いたい。シアーシャにも会いたい。寂しい。話し相手が欲しい。相談がしたい。慰めて欲しい。学生時代に戻りたい。
手紙を書いても辺境の地ということもあり、相手から返事はなかなか届かない。社交をしようにも夜会もなければ茶会すら稀で、同年代の貴族女性に至っては数えるほどしかいない。
仲良くなりたくてもきっかけすら作れず、わたしは屋敷の中で飼われる愛玩動物と大差のない生活を余儀なくされた。
せめて旦那さまの希望通りに子ができれば良かったが一向にその兆候もない。
まだ焦る時期ではないが、私自身ももう縋る先はそこにしかなかった。
真綿で首を絞められているかのような息苦しい日々が続いた。
ちょうどその頃、わたし宛にシアーシャから手紙が届いた。狂喜しながら封を開けて中を確かめれば、そこに書かれていたのは彼女が妊娠したという報せで。
思わず手紙をぐしゃぐしゃに握り締めてしまった。どうして、どうして! わたしの方が切実に子が欲しいのに! どうしてシアーシャばっかり!! オーウェンという最高の伴侶を得るだけでなく、彼との子供まで授かるなんて!!!
気づけばわたしはベッドに突っ伏して子供のように泣き叫んでいた。さらに何事かと駆け付けた使用人に対し怒りに任せてクッションを投げつけてしまう。完全な八つ当たり。だけど止められなかった。
乱心したわたしを遠巻きにする使用人たちが憎い。わたしを顧みない旦那さまが憎い。幸せそうなシアーシャが憎い。わたしを愛していると言っていたのに早々にシアーシャと子を成したオーウェンが憎い。
全部全部、消えてなくなればいいと思った。
けど現実は無常で。ここでのわたしはただ世継ぎを産むためだけの存在に他ならなくて。
シアーシャへの返事は出さなかった。出せなかった。惨めだったから。
こんなはずじゃなかった。なんでわたしばっかり。ぐるぐると醜い感情が胸を占拠する。
そうして嫁いでから一年半以上の時が過ぎても、わたしは孤独なままだった。
未だに子が宿らないことが辛い。近頃は旦那さまの目も気になる。役立たずと思われているだろうか。
そんな風に塞ぎ込むわたしを知ってか知らずか、その日、珍しく旦那さまが夕食の席に間に合う時間で帰宅した。さらにその口から語られたのは、
「夜会、ですか? 王都で?」
「そうだ。閣下の付き添いでな。俺の妻として君にも同席してもらいたい」
「っ! よ、喜んで……っ!」
結婚してからというもの辺境に閉じ込められているに等しい生活だった。久しぶりの王都に加えて夜会への出席だなんて、今から楽しみで仕方がない。
わたしの反応に旦那さまはこれまた珍しいことに目を細めて苦笑いを浮かべていた。呆れられただろうかと一瞬ひやりとしたが、どうも雰囲気は悪くない。
「そこまで喜ぶとは思わなかったな。まぁこんな辺境での生活はつまらないだろ? あまりない機会だし節度を守って楽しむといい」
「……はいっ! ありがとうございます、旦那さま!」
この地に来て初めて、旦那さまとまともに会話をした気分だった。わたしは指折り数えて王都行きの日を待った。あからさまにソワソワしているわたしに対して使用人たちもどこか苦笑気味だが、それほど気にならなかった。
この旅をきっかけに、もしかしたら旦那さまとの関係も少しは改善できるかもしれない。わたしの中でそんな淡い期待があった。
それに夜会にはオーウェンやシアーシャも参加するはずだ。今の心境なら二人に会ってもきっと楽しく過ごせる気がする。時期的に二人の子供も既に生まれているはずだし、改めてお祝いの言葉を伝えるのもいいだろう。
入念に準備を整え、わたしは旦那さまと王都へ出かけた。道中では旦那さまは辺境伯閣下の傍に控えていたので会話もろくにできなかったが、それでも良かった。時折、旦那さまがわたしを気遣うようなそぶりを見せてくれていたから。もしかしたら旦那さまもわたしと歩み寄る機会を窺っているのかもしれないと、さらなる期待に胸が膨らむ。
旅は順調に進み、無事に王都へ入って二日後。
王城にて大規模な夜会が開催された。わたしは旦那さまのエスコートを受けて城門を潜る。辺境にはない華やいだ空気に自然と気分が高揚した。
開会直後は旦那さまは辺境伯閣下のお供でしばらくわたしから離れていた。学院時代もあまり交友関係が広くないわたしは壁際に寄りながら大人しく旦那さまを待つ。と、その時だった。
「……もしかして、カーラ?」
わたしに話しかけてきたのは、そう、他ならぬ親友のシアーシャだった。
艶やかな黒髪を結い上げ品のいいドレスに身を包んだ彼女は眩いほど美しかった。学生時代の頃から綺麗な子ではあったが、今の方が遥かに魅力的だと断言できる。
「シアーシャ……本当に久しぶりね。また会えて嬉しいわ!」
「私もよ。貴女は遠い地に嫁いでしまったから、この夜会で会えるなんて思ってなかった。凄く嬉しいわ」
ふわりと微笑むその顔は柔らかで、とても心が満たされているように感じた。きっとオーウェンとの関係も上手くいっているのだろうことが窺えて、じわりと胸の奥が痛む。だがわたしはすぐにそれを振り切ると、意識して明るい笑顔を作った。
「そういえば子供はもう生まれたのよね? おめでとう! 性別はどっちだったの?」
「ありがとう。実はね、男女の双子なの」
「そ、そうだったの……双子……きっと可愛いでしょうね」
「ええ。私の生きがいなのよ」
迷いなく言い切ったシアーシャの姿に、わたしは彼女の魅力が増した理由の一端を見た気がした。母親として子に向ける慈愛の感情。それが今のシアーシャから色濃く滲み出ている。
「シアーシャは……いま、幸せ?」
「え? ええ、もちろん。幸せよ。カーラは?」
「わたし……わたしは――……」
「カーラ、ここに居たの……か……」
思わず口ごもるわたしの背後から聞こえてきたのは、旦那さまの声だった。
咄嗟に振り返れば、どこか惚けたような表情をしている旦那さまが視界に飛び込んでくる。
よく見れば彼はわたしを見ていなかった。
ただ、真っ直ぐに――わたしの親友に目を奪われていた。
そんな旦那さまに対して不思議そうな表情を浮かべながら、シアーシャがわたしへと話しかける。
「あの方、カーラの旦那様なのかしら?」
「っ……え、ええ。そうなの。紹介するわね」
やや遠慮がちに旦那さまの方へ近寄ると、そこでようやく我に返ったのか彼はわたしの方を向いた。その瞳には、常にはない強い感情の色が揺蕩っている。
「……カーラ、そちらの彼女は君の友人か?」
「はい。学生時代の親友で、マクシェイン小侯爵の奥方でもあります」
「初めまして、シアーシャ・マクシェインと申します。以後、お見知りおきいただければ幸いです」
「こちらこそお会いできて光栄です……マクシェイン、夫人」
旦那さまはシアーシャを一心に見つめている。まるでその姿を焼き付けるように。シアーシャはそんな彼の激情には全く気付いていないのか、それとも気づかないふりをしているのか。ただ穏やかに微笑んでいた。とそこへ、
「――シアーシャ!」
一年半以上ぶりに、わたしはかつての恋人の声を耳にした。焦りを帯びたその声音に振り向いたシアーシャは、どこか温度のない目をしてオーウェンに言う。
「旦那様、そんなに大声で名を呼ばれては恥ずかしいですわ。でもちょうど良かった。今、貴方を探そうと思っていたのです」
「そうなのか? 何かあった?」
「ふふっ……あまり驚かないでくださいませね?」
そこでシアーシャがわたしたちへと視線を誘導する。オーウェンは別れた時のまま――いいえ、それ以上に目が離せない魅力を持った男性になっていた。学院時代にはなかった、どこか憂いを帯びた雰囲気がそうさせるのか、ぐっと大人っぽい印象になっている。
自然とあの当時の思い出が次々と脳裏をかすめ、わたしの心臓は大きく跳ねた。まるで眠っていた恋心が叩き起こされたかのようで。何もかも忘れてオーウェンに縋りつきたい衝動に駆られる。きっと、彼もそうに違いない。だってわたしたちは、あれほど愛し合った仲なのだから。
そう思ってわたしが強い視線を送ると、彼は僅かに息を呑んだ。明らかな動揺。だがそこにわたしが望む喜びの発露はない。
「オーウェ……いえ、マクシェイン小侯爵様。お久しぶりでございます」
「……学院を卒業して以来ですね。お久しぶりです、夫人」
既婚者であるわたしを呼ぶ上で、もちろん彼がわたしをカーラと呼ぶことはないと分かっている。けれどこうもあからさまに距離を取られるなんて思わなかった。旦那さまが傍に居るからかもしれないが、それにしたって他人行儀にすぎる。
オーウェンは気まずそうにわたしから視線を外すと、今度は逆に期待と不安を孕んだ目でシアーシャを見た。わたしは直感的に理解した。おそらくオーウェンはシアーシャに嫉妬してほしいのだ。だが、当のシアーシャからは悋気の気配は全くと言っていいほど感じられない。それどころかオーウェンの挙動不審を揶揄うように、心から楽しそうに目を細める。
「あら、旦那様ったら久しぶりの再会で緊張していらっしゃるの? ――閣下、実は私たち三人は学院時代はとても仲良く過ごしてきた間柄なのですよ」
「そうだったのですか。お恥ずかしながら仕事が忙しく妻の交友関係についてはあまり聞いておらず……もしよろしければ、この後お時間いただいても? ぜひ貴女がたの学院時代のお話を聞いてみたいところです」
一方、旦那さまは見たことがないほど積極的にシアーシャとの会話を続けようとしている。わたしを相手にする時と違いすぎて、いっそ清々しいほどだった。そんな旦那さまとシアーシャのやり取りをオーウェンが不満げに眺めながら会話に割り込む隙を窺っている。
もう誰も、わたしを見ていなかった。
周囲にひとはたくさん居るのに、わたしはとても、孤独だった。
「……カーラ? 顔色が悪いようだけれど大丈夫? もしかして疲れてしまった?」
そんなわたしの様子に気づいてくれたのは、皮肉にもシアーシャだけ。
彼女は心底心配そうな表情をしながらこちらを覗き込んでくる。――ああ、シアーシャ。貴女は本当に優しくて、大好きだけれど。今はとても貴女が憎いわ。憎くて憎くて仕方がない。
わたしのかつての恋人も、わたしの旦那さまも。
わたしではなく貴女に強く惹かれている。わたしのことなんか目に入らないくらいに。
こんなことなら、王都になんて、夜会になんて来るんじゃなかった。
失望という猛毒が足元から全身に広がっていく。
それでもわたしは自分のなけなしの矜持を守ろうとして、ぎこちなくも懸命に――笑った。
【カーラ視点・了】
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
感想などでリクエストを頂戴したカーラ視点でした。彼女が幸せになれるルートは、嫁ぎ先が決まった時点でオーウェンとの関係を清算して未来の旦那さまとの手紙のやり取りを誠実にすることだったわけですが、結果はお読みいただいた通りになります。
ちなみに現在のシアーシャは双子に夢中なので、もし本人が恋愛に対して積極的になるとすれば双子がある程度育った後になるのではないかと。どちらにせよシアーシャは既にオーウェンとのことは割り切っているので、勝手に幸せを自分で掴んでいくかと思います。
ここまでお付き合いくださり、本当にありがとうございました!