第38話 消えない傷
平野が我に返った時、最初に感じたのは血の臭いだった。
部屋全体にむせ返るような臭いが充満している。
吐きそうになるのを我慢しつつ、平野は辺りを見回す。
混乱する頭を働かせるうちに、だんだんと記憶が蘇ってきた。
(そうだ、僕はトンネルに連行されて……)
暗い部屋には様々な物が散乱し、あちこちに血が付着していた。
壁際では誰かが突っ伏している。
平野の位置からでは顔が見えないが、彼はその服装に見覚えがあった。
頭部が陥没した堤田の死体はマイナスドライバーを握り締めている。
平野の足元にもう一つ死体があった。
こちらは仰向けに倒れているので顔がはっきりと見える。
特徴的なピエロメイクはミヒロだった。
全身に重傷を負っているが、致命傷は喉の刺し傷であろう。
そこから今も血が流れ出している。
「ミ、ミヒロさん……」
平野は駆け寄ろうとするも、革ベルトで椅子に拘束されていることに気付く。
唯一自由な手にはナイフが握られていた。
刃にべっとりと付いた血液を見て平野は凍り付く。
「……え?」
次の瞬間、平野は慟哭した。
拒絶したい事実が脳裏を支配する。
拘束されているので動けず、彼はただ喚き続けた。
物言わぬ死体を前にひたすら涙を流す。
(僕が殺したんだ……なんてことをっ)
握ったナイフを見た平野は、革ベルトに切断しにかかる。
かなり手こずりながらも地道に拘束を外していった。
どうにか椅子から脱出した平野は、すぐさまミヒロの死体を縋り付く。
死体を抱き起すと、彼は泣きながら懺悔する。
「ごめんなさい……僕が悪いんだ! あなたは助けてくれたのに!」
平野はこれまでの現実逃避を自覚し、その中でミヒロが助けに入ったことを思い出した。
彼女が堤田との殺し合いで満身創痍になり、最終的に平野によって刺されて死んだことも知る。
死体を抱く平野は膨れ上がる罪悪感に押し潰されそうになる。
もしここで平野が冷静なら、不可解な点に疑問を抱いただろう。
なぜ拘束されて動けない平野の手にナイフがあるのか。
その状態からどうやってミヒロを刺したのか。
そもそも恩を仇で返す行為を本当に平野は無意識に実行してしまったのか。
ここに第三者がいれば指摘できたかもしれない。
現実逃避中の記憶は断片的であり、平野も正確に把握しているわけではなかった。
故にナイフを握らされたことを彼は忘れていた。
とにかく自分が手を下した事実にショックを受け、その他の要素について考えを巡らせる余裕がなかったのである。
仮に真実を知ったとしても、平野が罪悪感に苛まれるのは避けようがなかったろう。
苦痛から目を背けた代償は致命的な誤解と自己嫌悪だった。




